第140話 幸せな目覚めに潜むトラウマへの危険

 道理にあわない言い伝えなどを信じることが『迷信』というものだ。

 信仰にも近いかもしれない。


 その迷信はいくつも日本にあり、その中のひとつが、かわいさに磨きがかかった3人の女の子を驚かせることになった。


 昨晩のことだ。


 僕が焼いたクルミ入りクッキーを夕飯の前に、食後に葡萄を平らげ満足している美容室帰りで、とんでもなく可愛く、さらにはいつもと違う、だけど、いい匂いを纏った3人の前で、光さんが買ってくれた冬服を片付けている時に起こった。


 脱線してしまうため僕1人のファッションショーの話は省略させてもらう。

 割愛ではなく省略で間違いない。


 これが僕でなくて3人のファッションショーなら省略も割愛もしない。

 服を着替えるたび写真を撮らせてもらった可能性だってある――。


 と、結局少しだけ脱線したが、3人にたくさん写真を撮られた恥辱にまみれたファッションショーの終了後、ランニングシューズだけは未開封のままだった。


 ――靴はおろさないの?

 と、美海から質問があり、

 僕はその質問に対して『靴は明日の朝におろす』と答えた。


 すると、美海だけでなく他の2人からも不思議そうな表情を向けられたのだ。

 もしかして3人とも知らないのかと考え、靴に関する迷信の話をすることになった。


 ――新しい靴を午後におろしてはいけない。

 ――もし、おろすなら靴裏を唾や黒ペンで汚すこと。

 ――でないと、不幸に見舞われてしまう。


 と。

 3人は『知らなかった』と驚いていたが、僕はそっちの方が驚きだった。

 この迷信は、小学生の頃に父さんから教えられたものだ。


 昔あった葬式の慣習から続いている迷信で、現代では道理に合わないことを理解しているが、この迷信を破ることは、なんとなく『嫌』と感じている。


 実行するに難しいことでもないし、今でも守っているというわけだ――。


 そして夜も明けた早朝の時間、いよいよ新しい靴を下したところでもある。


「郡さん、新しいシューズ格好いいですね。よくお似合いです」


「ほんと、水色も格好いいね! 朝ごはんの用意や美波とクロコは任せてね。こう君、莉子ちゃん。2人とも気を付けていってらっしゃい」


「莉子さん、美海、2人ともありがとう。美海が作ってくれる朝ごはんも楽しみだな、それだけでいつもより走れる気がするよ」


「いいから郡さん、行きますよ。では、美海ちゃん行ってきます」


 僕が莉子さんに腕を引っ張られる姿を見て、可笑しそうに笑い、もう一度いってらっしゃいと見送られてから1日のスタートを切ることになった。


 誰かに見送られて家を出る。それも好きな人に。


 それが何となくこそばゆく感じ、悪くない朝だなと考えていると隣から不要な茶々が飛んでくる。


「美海ちゃんから良妻感が溢れ出ておりましたね。ところで、いってらっしゃいのチュウは良かったのですか?」


「今日は莉子さんのことギリギリまで追い詰めようかな」


「汗だくになった状態で郡さんに抱き着いてあげましょう」


 発想が斜め上過ぎるし女子としてはどうなのかと言ってやりたい。

 乙女としての矜持を保てとは言わないけど、慎みはもってもらいたい。


 それにシャワーを浴びるとはいえ、汗にまみれた抱擁は勘弁してもらいたいな。


「そしたら美海に言って莉子さんの朝ごはんは納豆ご飯にしてもらおうかな」


「んなっ!? 殺生なっ!! 鬼、鬼畜、鬼むっつり!!」


「はいはい、そもそも納豆は切らしているから冷蔵庫にはないよ」


 納豆嫌いの莉子さんにとっては冗談にならなかったかもしれないが、軽口を叩きながらマンションを出て、準備運動を行ってからランニング開始となる。


 普段は莉子さんの自宅近辺の川沿いがランニングコースである。


 だが今日は莉子さんを迎えに行く必要がないため、僕1人で走っていた時のランニングコースを2人で走ることにした。


 ランニングコースと言っても、マンションを出て駅の方角に進み、JR線の高架下トンネルを通り抜けた先にある美術館通りをひたすら真っすぐ走り、美術館に到着したら折り返してくるだけの簡単な道。


 時間にすれば、僕の足だと往復一時間くらいだけど今日は途中で引き返すことになるだろう。


 莉子さん本人は走り切る気満々だし、やる気に水を差したくもないけど、莉子さんは最近やっと30分間走り続けられるようになったばかりなのだ。


 そのことを考えるなら、僕と同じペースで1時間走り続けることは厳しいだろう。


 だから美術館へたどり着く前に引き返すことになると予想している。

 無理して体を痛めても大変だし、『ギリギリまで追い込む』とは言ったものの、見慣れない景色だとつい、走りながら目移りして気付かぬ間に体力を余計に消耗するだろう。


 莉子さんは好奇心も旺盛だしな。


 僕がしっかり様子を見てペース配分しながら走らないとならない。

 それに莉子さんはこの後、『空と海と。』でアルバイトするための面接が控えている訳でもあるから余計に気を使わないとならない。


 そして案の定、見慣れない景色を楽しそうにキョロキョロとさせながら走ったせいで、フォームが崩れ美術館まで残り半分と言った地点で呼吸が乱れてしまった。


「莉子さん、無理は禁物。残念だけどここで折り返そう。少し流して呼吸を整えたら、走って帰ろうか」


「はい……そうですね。でも、悔しいのでいつか必ず走り切ってみせます」


 僕の言葉へ素直に頷くが、言葉通り悔しそうな表情をしている。

 引き籠り気味の性格であった莉子さん、そのため体力が幼稚園児並だったひと月前と比べたら、見違える程進歩している。


 努力家の莉子さんならすぐに走り切る事が出来るようになるだろう。

 けどその前に、いい機会だから聞いてみるとするか。


「ところで莉子さん。これからも美波が泊りに来る度に泊まりに来たりするの?」


 莉子さんが僕を『友人』として、思ってくれていることは分かっている。

 けどやはり、自惚れかもしれないが今朝のことを思い出しても少なからず異性としての好意が残っているようにも感じている。


 莉子さんのためを思えば、お泊り会は拒絶した方がいいのかもしれない。

 そう考えての質問でもある。


「そうですねぇ……悩みどころではありますけど、あと1回もしくは2回は女子会の場としてのご提供をお願いするかもしれません」


 女子会の場としてなら僕の家以外でも出来るはず。

 ただ、出不精な美波を考えれば、僕の家が集まりやすいとは理解も出来る。


「……それは構わないけど、宿泊する必要はないんじゃない?」


「郡さんが莉子を思い、言って下さっていることは理解しております。それに莉子だって多少は思う所もありますけど、美海ちゃんと美波ちゃんと一緒に楽しみたい、混ざりたいと思う気持ちは本物です。ですが郡さんがもし……もしも迷惑とおっしゃるなら、今回限りにします」


 人によっては僕の判断を間違えていると非難するかもしれない。でも、あと1回や2回くらいならば、女子会の場として提供してあげてもいいのかもしれない。


 莉子さんの目を見たら、そんな言い訳が浮かんでまった。


「分かった。莉子さんがそれでいいなら、僕は何も言わない。精一杯おもてなしさせてもらうよ」


「……ありがとうございます」


「いいよ。ちなみにどうして1回か2回なのか聞いてもいい?」


 しんみりした表情や雰囲気を漂わせていたというのに、僕がしたこの質問で莉子さんは面白いと思ってしまうほど顔を歪ませた。


 言葉にせずとも『本気ですか?』と問われているように感じてしまった。


「ご自身で考えてください。ですが、莉子はそこまで空気を読めない女ではないとだけ言っておきます」


 回数と空気を読むことにどんな繋がりがあるのか、何も見当がつかないな。

 返答もせず、頭を悩ませ首をかしげていると、今度は莉子さんから質問をされた。


「ところで郡さん、莉子からも聞きたいことがあったのです。昨晩ですね、何件か目を疑うメプリが届いていたのですよ。今朝、1人寂しく起きてから、美海ちゃんと美波ちゃんにサンドイッチされていた郡さんを見た時ほど目は疑いませんでしたが、ちょっと気になる内容でした」


 棘を感じる物言いだが、それも仕方ない。

 僕は悪くないけど言い訳することは悪手だと分かっている。


 今回のお泊り会の就寝場所についてだ。

 女子3人が和室で布団をふたセット並べ敷いて仲良く川の字で横になろうと楽しそうに話していた。


 そして僕が自分の部屋のベッドで決まったのだが――。


 2か月前にあれほど注意したにも関わらず、朝目が覚めれば美海と美波の2人は僕が眠るベッドに潜りこんでいたのだ。


 狭いし、柔らかいし、匂いが甘いし、可愛いしで大変だった。


 何か夢を見ていた気がしたが、その記憶までもが一瞬で吹き飛んでしまった。

 気配を感じ部屋の出入り口へ顔を向けたら、絶句した表情をした莉子さんが立っていた。


 身動きできない僕を助けてくれるとばかり考えていた。

 だが莉子さんはその期待を裏切り、僕の上に乗ってきたのだ。

 その状況について幸福と不幸、どちらかでしか感想を言わなければならないなら、幸福側へ天秤は傾くだろう。


 可愛い女の子3人に囲まれ包まれているのだから。


 しかもその中には好きな人だっている。

 だから幸福な状況で間違いない。

 だが、いかに幸福な状況だとしても流されてはならない。


 男女として適当、適切な距離感で接してもらいたい。


 それに手洗いにも行きたいから、一刻も早く状況を打破したい。

 結構そこまで来ているから危険水域と言ってもいい。


 ただ、1人用ベッドに3人で横になっているせいか狭かったのだろう。

 そのため、密着しないと納まらなかったのかもしれない。


 その結果、両腕とも女性特有力に押し付けられており、僕は微動だにする事が出来ない。


 付け加えるならば両足までがっちりホールドされている。

 うん、詰みに近い状況だしある意味では罪な状況だ。


 さらに悪のりした莉子さんが上に乗り、胸にピタッとくっついてきた。

 腹部が圧迫されたせいで危機的状況だ。


 ――郡さん、激しい。心音がとっても激しいです。


 やかましいと言い返したが、

 この状況で平常運転の心臓ならそっちの方が異常だと思う。


 動けない状況をいいことに、莉子さんが好き勝って調子に乗り始めたところで、会話に気が付いた美海が目を覚ました。


 その後は、説得に応じた2人の協力で美波を引きはがし手洗いに行かせてもらった。


 危ない所だった。

 高校生にもなって漏らすようなことはしたくない。


 女子の前で漏らしたら黒歴史というかトラウマにもなりかねない。


 とまあ、散々な目にあったのが起床時の事だ。

 もちろん、美海と莉子さんには説教済みで、美波には起きてからする。


 それにしても、莉子さんが目を疑うメプリとはなんだろうか。

 嫌な予感しかしないから可能なら聞きたくないが、聞くしかないのだろう。


「噂か何かってこと?」


「なにやら昨日は、お洒落なカフェにいたらしいですね? さらに体格の良い男性から愛の告白を受けていたらしいですね? いよいよ男性にも手を伸ばし始めたのですか?」


「純度100パーセントの誤解だけどさ、その噂広まっていたりするの? あと、莉子さんたちには僕が誰と会っていたか言ってあると思うけど?」


 やはりあの時『OHANA』に名花高校の生徒がいたのだろう。

 そして、誤解が解けぬうちに退店した人の中にいたのかもしれない。

 早くなんとかしなければ――。


「聞いていますけど、何をお話されていたのか内容までは伺っておりませんので確認してみたのです。で? 本当のところは?」


「そうだね。個人的な相談だからその内容を話したりすることは出来ないけど、その噂が間違いだということは確実だな。だから莉子さん?」


「大丈夫です。莉子にメプリで報告してきた人には訂正してありますから。郡さんは年上女性が大好きだと言ってあります」


 何も大丈夫じゃない。だいじょばないぞ。


 男性に告白されたというねじ曲がった噂は訂正されず、追加するように年上女性が好きだという噂が広がっただけで悪化している。


「冗談です。そんな目で莉子を見ないでください。ドキドキしてしまいます……とまぁ、郡さんがオコなので真面目に言いますが、他に最後までその場にいた子から話も聞いていたので、ちゃんと訂正してあります」


「その冗談は、莉子さん。鬼畜ですね」


「……はて? 誰の真似ですか?」


 嬉しそうに見える。

 本人は冷静を装っているのかもしれないが、口角が上がっているからな。


「はいはい。じゃあ、莉子さん。ラストスパート行くよ」


「なっ――!? 鬼畜!! 郡さんのあほうッ!!」


 新しい、だけど随分と幼稚でお可愛い文句だ。

 ラストスパートとは言ったが、莉子さんが疲れているのは間違いない。


 だから普段のペースよりもさらに落とし、『空と海と。』へ向かうことにした。

 僕は鬼畜じゃないからな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る