第136話 人生で一番人を笑わせた瞬間です

 シャボン玉に対して真っ先に連想されるイメージは『儚い』だ。

 子供の頃に聞いた有名な童謡が強く記憶に残っている。


 プカプカと空中に浮かぶ七色に輝くシャボン玉は確かに綺麗だ。

 それは分かる。


 でも――どうしても――。


『消える』『はじける』『戻らない』等、

 ネガティブなイメージが抜けない。


 だがそれ以上に――。


 僕を捨てた母さんがシャボン玉を嫌っていたこと。

 それが一番の理由かもしれない。


 母さんがシャボン玉を嫌っていた理由は単純なものだった。

 手や口元、服が汚れてしまうから。さらに――。


 ――すぐに消える物の何が楽しいか分からない。

 ――はじけ消える様子は、まるで人の夢みたいじゃない。


 と、言っていたことを覚えている。

 だから僕の記憶には今でも『儚い』が残り続けている。


 シャボン玉に対していい思い出など何1つない。

 だがそんな思いとは裏腹に、僕の手には携帯電話が握りしめられている。

 打ち込んでいる文字は【シャボン玉 割れにくくする 方法】。


 検索している理由は、みんなと一緒にシャボン玉セットで遊ぶ日を美波が楽しみにしているからだ。


 美波に誘われた美海もシャボン玉で遊ぶことを楽しみにしている。

 2人が楽しみならば、僕も前向きに考える事にしたというわけだ。

 嫌いなことや過去を克服するいい機会でもある。


 ご都合主義的に考えるならば、もしかしたら僕が過去を乗り越えるための試練。

 そのために美波が福引で引き当てたのかもしれない。

 そう、考えることにした。


 いまだ慣れないフリック入力。その結果は――。


「なるほど。砂糖を入れたらいいのか」


 どうやら砂糖やはちみつ、ガムシロップなんかを混ぜ入れて粘度を上げれば、シャボン玉が割れにくくなるらしい。


 化学……とまではいかないか。小学生レベルの理科の実験のようなものだ。

 思ったより簡単で良かった。

 砂糖の方が余裕もあるし砂糖でいいかな。


 朝食後のコーヒーを飲みながら検索を済ませた次は予定の確認。

 嬉しいことに朝から晩まで詰まっている。

 9時から美容室で髪を切り一度帰宅。


 帰宅後は光さんに買ってもらった布団を干し、シーツも洗っておく。

 泊まりにくる可愛い女の子3人には、清潔な環境で過ごしてほしいからな。

 美海は先月、実家への帰省から戻ったばかりのため2か月ぶりとなる。

 莉子さんは初めて。

 そのためか2人とも凄く楽しみにしている。


 どうやっておもてなししようか迷ってしまうが……うん。


 美波も果物が好きだしやっぱり季節の果物かな。

 今は葡萄それと、梨もあれば一緒に買おうかな。

 洋梨でもいいかもしれない。

 あ、莉子さん用にリンゴジュースも買っておかないと。

 一応、アップルティーも買っておくとしよう――。


 部屋の掃除は昨日しているから不要かな。

 光さんからお墨付きも頂いているし問題ないはず。

 光さんに頼まれた父さんの書類探しは、夕方で大丈夫だろう。

 急がないとも言っていたし。


 そして、3人がやって来る前のお昼の時間帯。

 何かと縁がありお世話になっている3年生の先輩。

 生徒会書記でもある元樹もとき先輩とお昼を食べに行く約束がある。


 前に約束していた通りご馳走してくれるそうだ。

 相談事があるとも言っていたが、生徒会関係で何か頼み事されるようなら、悩みどころだ。


 せっかくご馳走すると言ってくれている所申し訳ないが、生徒会に借りを作るわけにいかないから食事代は自分の財布から出させてもらう。


 元樹先輩が誘ってくれたのは、本宮先輩との勝負が決まるよりも前だからそこまで警戒する必要もなさそうだけど、どうしても同じ生徒会メンバーという理由で警戒してしまう。


 元樹先輩との食事は純粋に楽しみだし、本宮先輩の名を聞かず何の気なしに食事を楽しみたい――。


 シャボン玉を割れにくくする検索を終えて携帯を手放したら、すかさずクロコが膝に乗ってきた。


 そのままクロコを撫でつつ今日の予定を整理していたが、そろそろ家を出る時間となってしまう。


 気持ちよさそうに喉をゴロゴロとさせているクロコを下ろすのは忍びないが――。


「ごめん、クロコ。そろそろ行かないとだ」


「ナァ~」


 膝の上から飛び下りるが、全く足音がしない。

 猫の肉球って触ると気持ちがいいだけでなく、性能も優れていて羨ましい。

 僕にもあったら便利かもしれないが……うん。

 ちょっと、姿を想像したけど後悔した。


 美海にあったら可愛いだろうけど、僕はちょっとな。

 でも肉球が付くなら、耳や尻尾もあったほうがいいよな――――。


 これ以上可愛い美海を想像したら、行動不能に陥る致命傷になりそうだからよしておこう。

 それに次会う時、美海をまともに見る事ができなくなりそうだ。


 そう言えば来月はハロウィンだな……。


「ナァ~」


「そうだね、ごめん。行ってくるよ」


 外出すると言ったから下りたのに、行かないのかよ。

 と、言われたように聞こえた。

 つまり怒られたのだ。


 玄関まで見送りに来てくれたクロコに今度こそ『いってきます』を告げ、駅前にある美容室へ向かう。


 場所は学校の近くだから7分、8分くらいで到着する。

 慣れた手つきで美波からもらった日傘を差す。

 毎日のように使っているから僕の手にも馴染んでいる。

 だけど、もうひと月もしたら差さなくてもいいかもしれない。


 たとえ季節が冬、もしくは曇り空だとしても紫外線は変わらずある。

 肌をしっかりケアする人なら冬も差し続けるかもしれないが、僕はもういいかな。

 また来年大切に使わせてもらおう。


 信号で足を止めることもなく、5分程歩いて美容室に到着する。

 予約時間より5分早いけど大丈夫だろうか。

 そう思いつつ半開きの扉を開けると来客を知らせる鈴の音が鳴る。


 目線を扉の取手から店内へ向けると、受付カウンター前にいる見慣れない美容師さんと目が合う。

 若干、右頬が膨らんでいるように見えた。

 少し目線をずらすと手にはコンビニで買ったと思われるおにぎり。

 欠けているから、食べている最中なのかもしれない。


 つまり、膨らんでいる右側の頬には欠けたおにぎりが詰まっているのかもしれない。

 リスやハムスターみたいだ。


 何はともあれ、気まずい。

 取りあえず知らんぷりして会釈すると苦笑いを浮かべながら会釈が戻ってきた。


 この勢いを利用して会員カードを手渡そうと行動に移そうとしたら、担当美容師さんが裏から顔をひょっこり出した。


「八千代さん、おっは~! 今日は朝に時間変更してくれて、ありがとうね」


大須賀おおすかさん、おはようございます。僕たちが無理を言ったのに都合してくれたんですから、これくらい平気ですよ。むしろ、ありがとうございます」


 僕よりも、さらには美波よりも背が高い大須賀さん。

 特徴的なスパイラルパーマが目を引く女性の美容師さん。

 初めてお会いした時、つい、目が行ってしまい、失礼な態度をしてしまったのに大きな声で笑って許してくれた。


 まだ僕はお会いしたことがないけど、大須賀さんは旦那さんと一緒にこの美容室を経営しているそうだ。


「じゃ~、あ~~、今日も格好よくしちゃうわね~!!」


「はい、お願いします」


 案内された席に腰を下ろし、鏡越しに大須賀さんを見る。

 次いで、両手を前に伸ばしカットクロスへ袖を通す。

 さらに、カットケープを付けてもらってからカット開始となる。


 今ではここまでの工程に多少慣れたものだが、これまで美容室はおろか床屋にすら通わず、いつも自分で適当に髪を切っていた。


 あとちなみにこの場合の適当とは悪い意味での適当だ。


 そう、見慣れないカットクロスに最初は戸惑った。

 もちろん見慣れないため正式名称が分からず『ポンチョ』と言ってしまい、美容師さんと幸介の腹筋を崩壊させたという黒歴史を作ることとなったのだ。


 僕史上、初めてかもしれない。

 誰かをあんなに笑顔にさせたことは――。


 シャンプーしてもらう時でさえも、目隠しをされ視界を塞がれたことに内心ドキドキしていた。


 誰かに髪を洗ってもらうことも久しくないし何より、シャワーヘッドから出る水の音が緊張を加速させた。


 ただ、思いのほか気持ちが良く癖になりそうだと感じたものだ。

 サイドテーブルの上に用意してくれた雑誌や自分の携帯も触らず、ただ黙って鏡越しに大須賀さんの手元を見ていると不意に大須賀さんが質問を投げかけてくる。


「八千代さんはいつも手元をガン見しているけど、見ていて面白い?」


 いつも僕が注視していたことは気が付かれていたようだ。


「信じられない速さでハサミが動くのが面白くて、つい見てしまいます。気が散りますか?」


「いーえ、気にせず好きなように過ごしてくれていいわ。それよりもっ!!」


「それよりも?」


 なんだろう。気になるけどハサミを上に突き上げないでほしい。

 落ちてきたら場所によってはケガじゃすまなくなりそうで怖い。


「八千代さんと一緒に来た美波さんは超絶美人さんの義妹でしょぉ? 次に紹介してくれた、りこりこはダイヤの原石で八千代さんの大切なお友達。今日新しく来る子も美波さんと同じくらい可愛いって2人から聞いているけど……流れを考えたら、この子は八千代さんにとっては好きな子になるのかしら?」


 ひと言で言うなら謎。どういう理屈でその流れになるのか理解が追い付かない。

 他の美容室がどうかは分からないけど、美容室ってこんなプライベートなことまで話すものなのか?


 正直に言った方がいいのか、言わなくてもいいのか悩んでしまう。

 いや、普通に考えたら断って平気だろう。

 別に大須賀さんは友達でもないのだし。


「今日、新しくお願いする子は僕の特別な人です。内緒ですよ? あと、とってもいい子なので、お手柔らかにお願いしますね」


 なんとなく、美海への思いを否定したくなかったから正直に答えてしまった。

 大須賀さんは接客業のプロ。

 だから、美海本人に言ったりしないだろう。


 僕の気持ちは、美海本人も分かっているから伝わったとしても平気だけど、人伝手に聞かせたくない。


 こういうのは自分の口で直接伝えたい。

 だから一応、口止めをお願いした。


「もちろんよっ!! 八千代さんには、これからもたくさん女の子を紹介してもらいたいもの」


「いや、僕よりも幸介の方がご紹介出来ると思いますよ?」


 大須賀さんが僕へ抱くイメージって何なのか。


「女の勘よ。幸介ちゃんは幸介ちゃんで紹介してもらうけど、八千代さんはこれからもたくさん紹介してくれそうだなぁって。あぁ、でも勘違いしないで。可愛い女の子は好きよ? 恋している女の子なんて特に。でも、女の子を可愛くするのが私の趣味だから、特別可愛い子じゃなくてもいいからね? 八千代さんが連れて来る子はきっと、良い子ばかりだと思うから大歓迎よ」


 大須賀さんにとって美容師という仕事はまさに天職なのだろう。

 今言っていたように、女の子大好きだからな。


 美波の髪を切っている時なんて凄く生き生きしていた。

 莉子さんが変貌を遂げる時はずっと『にまにま』していた。

 会話は聞こえなかったけど、もしかしたら、恋の話でもしていたのかもしれない。


 満足したからか、大須賀さんは適当なところで会話を切り上げその後はいつも通り必要最低限の会話だけで、最後まで仕上げてくれる。


 初来店時のアンケートで『静かにしてほしい』と僕が希望したのだ。

 ストレート過ぎる希望だが、項目にあったから失礼でないと思う。

 念のため、退店後に幸介にも聞いたから大丈夫なはず。


「触ってみてどうかしら? 後ろも気になるところとかない?」


 気に入ったかどうかを聞かれたら、間違いなく『気に入りました』と返答する。

 けれど、触ってみてと聞かれた時の感想については今でも正答が分からない。


 聞かれるまま切り終わった髪を触るが、毛量が減ったなくらいしか感想が出てこない。


 鏡を構えて後ろ髪も見せてくれるが、こちらもスッキリしたかなといった感想だ。

 いつも何を言ったら正解か分からず、僕はただ『ありがとうございます』としか言えない。


 今度幸介に何が正解か聞いてみよう――。


 あと今日もやっぱりシャンプーは気持ちよかった。

 次はヘッドスパもお願いしてみようかな。

 財布と相談になるけど、気になるから試してみたい。

 次回予約する時にメプリで相談してみるか。


 髪もスッキリしたことだし予定通り一度帰宅。


 布団一式をそれぞれ準備する。

 晴れているし風も吹いているから夕方には乾くだろう。

 時刻は11時で元樹先輩との待ち合わせまでは残り1時間ほど。


 余裕をもって移動したいからあと30分で家を出るとして、中途半端に浮いた時間はどうしようか。


 そうだな、ご飯をご馳走してくれるならお礼に何か用意しておいた方がいい。

 チョコレート。いや、クッキーにしておこう。

 外は暑いからチョコレートだと溶けてしまうかもしれない。


 そうと決まれば出発だ。

 クロコは……日向で気持ちよさそうに寝ている。


 起こすのも悪いし、心の中で『行ってきます』とだけ告げてマンションを後にした。

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