第133話 大切な一歩です

 シャワーで汗を流し終え洗面所を出ると、ちょうどクロコが部屋から出て来た。


「おはよう、クロコ。あとただいま。ご飯は今から用意するから、ちょっと待っていてね」


 両前足を伸ばし、お尻を突き上げるように全身で伸びをしてから返事が戻ってくる。


「ナァ~」


 リビングに移動する僕の後を、クロコは尻尾をピンと立てトコトコついてくる。

 立ち止まり指先をクロコの鼻先に近づけると、匂いを確認することなく頭をこすりつけ甘えて来る。


 どうやら今日のクロコは甘えん坊さんのようだ。


 そうでなければ、指先の匂いを嗅いだらすぐに立ち去って行くからな。

 可愛いから、クロコが満足してやめるまで見続けていたいけど、ご飯の準備にうつる。


 先ず、ぬるま湯程度に温めた水にウェットフードを混ぜ入れたもの。

 それを食べきってから、カリカリをあげる。


 クロコはあまり水を飲まないから、しっかり水分補給させるためにしていること。

 中学生の頃に具合悪そうにしていたクロコを動物病院に連れて行った時、獣医師さんに言われたのだ。


 ――便秘気味だから、もう少し水分を摂取させてあげてください。

 と。


 それから、1か所だった水飲み場を3か所に増やし、食事の都度水をぬるま湯程度に温めてから飲ませたり、ドライフードだけだった食事をウェットフードもあげるようにして、最終的には今のやり方に落ち着いたのだ。


 クロコはウェットフードが好みでないらしく、最初は嫌がっていた。

 でも、なんとかその中でも好みの物を探しだし、今では食べてくれるようになった。


 その後に、カリカリ……ドライフードが出て来ると分かっているから、もしかしたら渋々ウェットフードを食べているかもしれないが。


 本音を言えば、好きなものだけ食べさせてあげたい。


 それに、ウェットフードをあげるようになったから、歯磨きも大変になった。

 けどクロコには元気に、そして長生きしてもらいたい。


 だから必要なことだ。


 ウェットフードを食べ終えたのを見計らい、器を回収して、別の器にカリカリを入れてクロコの前に差し出す。

 尻尾の先が、ゆっくりとゆらゆら動いている。


 本当にカリカリが好きなんだな。そう思わせるご機嫌な証拠。


 綺麗に尻尾をしまい、もりもりと食べ進めるクロコ。

 食欲もバッチリあるようだ。


 今日もしっかり食欲があることを確認出来たので、水を入れ替えてトイレ掃除をしつつ、便の大きさや形、色。そして、尿の色と量の確認をする。


 うん、特にいつもと変わりないようだ。


 クロコも歳だから、健康にはよく注意してみないといけない。

 人間と違って具合が悪いと自ら言ってきたりしないし、獣医師でないから正確な判断は出来ないが、家族だから気付けることもある。


 だから出来ることをしたい。

 普段との変化は、些細なことでも見逃すことは出来ないのだ。


 些細な変化が見当たらなかったことで、今日も安心する事ができた。

 次に、カーテンそして窓を解放させ部屋の空気を入れ替える。


 リビングに戻ると、完食したことで空となり綺麗になった器が目に入る。

 その器を回収してキッチン流しに置いておく。

 顔を上げると、クロコはお気に入りの場所の出窓で顔を洗っているのが見えた。


 いつもと変わらない光景。

 普段通り行動するなら、僕もこの後に朝食を食べたりするのだが、後に回して部屋の片づけを少しでも進めておく。


 何故なら、今日は光さんが部屋までやって来るからだ。


 汚部屋など到底見せる事が出来ない。

 そんな状態の部屋など見られたら、怒られてしまう。

 いや、怒られるだけならまだいい方だろう。


 下手したら、だらしない生活するなら1人暮らしを止めなさいと言われるかもしれない。

 今の生活は結構気に入っている。

 だから、それだとちょっと困ってしまう。


 いつもより念入りに、キッチン、トイレ、洗面所、浴室等の水回りを綺麗にして、部屋に掃除機をかけてから床を拭く。


 僕の中で掃除のスイッチが入ったのか、窓のサッシや換気扇等、細かい所も気になってきたが、今日は大掃除ではないから、また今度と考え、重要な所だけ掃除を進める。


 途中、掃除機の音がうるさかったからか、クロコが不満げに僕を見ていたが、気付かないフリをした。


 多分……僕が気付かないフリをしたことを間違いなく気付いているだろうから、珍しい甘えん坊気分は霧散してしまったかもしれない。


 ちょっと残念だ――。


 そんなこんなで掃除を終えたので、コーヒーを淹れ一服する。

 すると、携帯電話から着信音が鳴り響く。

 携帯画面には光さんの名前が表示されているが、約束の時間まで10分くらい残されている。

 予定が変わったのか早めに到着したのか分からないが、電話に出る。


『光さん、おはようございます』


『おはよう、郡くん。先に買い物へ行きたいから、約束の時間になったら正面で待っていてもらってもいいかしら?』


『分かりました。下で待っています』


『じゃあ、また後でね』


 余計な会話など一切なく、通話が終了となる。

 このことで尚のこと、美波が言っていたことに疑念の気持ちが湧く。


 とある昼休み、美波と一緒に過ごしている時のこと。

 光さんが僕を嫌っているのは僕の勘違いで、本当は大好きで実の息子と思っている。

 と、美波が言っていた。


 そして、すぐに信じない僕に対して、頬を膨らませ怒っていた。

 可愛い義妹である美波が言う事だから信じるほかない。

 そう思うが、素直に頷くことが出来なかった。


 その結果『むぅっ――頑固――!』と、さらに怒らせてしまうこととなってしまった。


 残りのお弁当を全て『あーん』して食べさせてあげたことで機嫌を取り戻し、今日のことについて聞いた。


 もしかしたら今日の三者面談という名のお食事会は、僕の誤解を解くために美波がセッティングしてくれたのかもしれない。

 そう考えたが、どうやら光さんから僕に何か話したいことがあるらしい。


 本当に珍しいことだ。


 何を話されるのか気が気じゃないし、場所が『空と海と。』であるから、少し気恥ずかしさが抜けない。


 三者面談でもあり、授業参観のような気分にもなってしまう。

 美空さんに予約をお願いした時、何故か美空さんが緊張していた。

 変に特別なことはしないで、いつも通り接してくれたらそれでいいが……不安だ。


 約束の時間5分前となったので、クロコに『行ってきます』と告げ、マンション正面に向かう。


 ほぼ時間通りに見覚えのある車がマンション正面で停車する。

 自動で後部座席側の扉が開く。中に乗る美波が開けてくれたからだ。

 隣に座るよう手招きされたので、そのまま乗り込む。


「おはよう、美波。光さん、今日はお願いします」


「おはよう――」


「久しぶりね、郡くん。サインを書いた日以来かしら?」


 車に乗り、シートベルトをしたところで発車する。

 そして、痛い所を突っ込まれてしまう。

 電話は何度かしていたが、こうして対面するのは約3カ月ぶりでもあるからだ。


「3カ月も顔を見せず、すみません」


「いいのよ。便りがないのは元気な証拠とも言うでしょ? それに、その子から話は聞いているから、そんなに久しぶりな感じもしないのよね」


「そうなんですね。でも、今度からはもっと顔を見せられるように気を付けます」


 義理とはいえ、光さんは僕の保護者だ。

 僕が好き勝手出来ているのは、光さんが許してくれて、十分な生活費を負担してくれているから。


 そのためと言った訳ではないが、顔くらいは見せないといけないだろう。

 美波が言っていたことも考えたら、尚のことだ――。


「今日は美波の冬服を買いに行きたいのだけれど、郡くんはコートとか平気? 生活する上で何か足りない物はない? 車だから大きなものでも構わないわよ。例えばそうね。布団一式……とか?」


 いや、まあ、光さんに対して隠したい訳ではないからいいんだけどさ、美波は一体何をどこまで話しているのだろうか。


 多分、考えるまでもなく全てだろう。


 光さんのこと大好きだからな、美波。

 だけど、ちょうどよかったかもしれない。

 成長期は終わったかと思ったが、少し身体が大きくなったから冬用のコートが欲しかった。


 それに、お泊り会メンバーに莉子さんが増えた。

 さすがに3人ベッドに入るには狭いだろう。

 これまで僕が使用していた布団は女の子に譲らないといけない。

 つまり、僕がソファで寝ることとなる。


 まだ平気だと思うが、夜中は多少冷える季節にもなってきている。

 前からもう一式布団は欲しいと考えていたから、いい機会でちょうどよかったのだ。


「そうですね……身体が少し大きくなったようなので、新しくコートを買いたいです。布団ももう一式買っておいてもいいかもしれません」


 どうせ分かっているだろうけど、敢えて恍けさせてもらった。

 光さんのことだから、これ以上突っ込んできたりはしないだろう。


 欲を言えば、コタツセットも欲しいが必須でもない。

 僕が自由に使えるお金は自分がバイトで稼いだ分だけ。

 18歳になったら教習所にも通いたい。


 まだハッキリ分からないけど、大学の入学金だって必要だろう。

 バイト代で賄えるとは思えないけど、少しでも多く貯金をしておきたい。

 だから贅沢は出来ない。

 緊迫した状況でないなら買わなくてもいいだろう。


 本来なら、すでに予備がある布団一式よりもコタツを買った方がいいのかもしれないが、言っても仕方ない。


「そうね、見ないうちに随分たくましくなったようだし、コートだけと言わず他の冬服も買っておきましょう。それと……お泊り会。聞いているわよ? 郡くんが美波と兄妹仲良く同じベッドで寝るなら、他の2人が予備の布団を使用するわよね。それなら不要かもしれないけど、郡くんのことだからそうじゃないでしょ?」


「一緒に――寝る――?」


 僕の知っている3カ月前までの光さんなら、間違いなく突っ込んできたりしなかったはず。

 でも今はお構いなしに突っ込んできている。

 踏み込んできたと言ってもいいかもしれない。

 心なしか口調も優しく感じる。


 僕の気のせいでなければ、冬服を買ってくれそうな雰囲気がする。

 それだとありがたいけど……。

 すでに生活費も頂いているから逆に申し訳なくなってしまうな。


 あと、美波。


 一緒に寝ないからね? 拗ねても駄目です。


「そうですね、諸々必要なので買うことにします。ところで……今はどちらに向かっているんですか? 僕はてっきり近くのモールかどこかで買い物をするのかと思っていたのですが」


 僕が予想していたショッピングモールとは全くの逆方向に進むから、つい気になってしまった。このままだと高速に乗る勢いだ。


「何か勘違いしているようだけど、今日は郡くんが財布を出す場面はないから変に気を使わないでちょうだい。これでも、郡くんの母親……なのよ。少しは甘えなさい。あと、どこに向かっているかって? 仙台市にあるアウトレットパークよ」


 今まで見たこともない光さんの様子に思わず、横にいる美波を見てしまったが、満足そうな笑みを浮かべ頷いている。


 そしてドヤ顔である。


 どんな顔でも美人に見えるから、義妹ながら凄いと思う。

 でも――なるほど。

 確かに美波が言っていたことは本当だったのだ。

 信じ切ることが出来なくてごめん、美波。


 後部座席にいるから正面は見えないけど、光さんの耳が、真っ赤に染まっている。

 母親、か……今までなら、母親と聞だけで過去の嫌な記憶が蘇ってきた。

 だけど今は、気恥しくて、何とも言えない気持ちが込みあげてくる。


 気恥しい気持ちを誤魔化す訳じゃないが、仙台市は遠くないか。

 正確には分からないけど、高速に乗っても二時間はかかるんじゃないだろうか。


 今日は日曜だし下手したらもっと時間を要するかもしれない。

 現時刻は10時過ぎ。『空と海と。』の予約時間は18時。


 往復、滞在の時間を計算しても、ギリギリになりそうだ。

 それに、急なことすぎて驚いてしまう。


 でも、まあ、長いドライブになりそうだけど、楽しむことにしよう。

 なんてったって――。


 家族3人、親子揃った初めてのお出かけだからな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る