第82話 美海が左に並ぶ理由は僕の心臓を撃ち抜くためのようです

 天に願いが通じたのか、昨日のような大きな出来事は起きずに無事にアルバイトを終えた。

 だがそれは、あくまで大きなことはだ。

 つまり小さなことは起きたということだ。例えばだが――。


「おっ!? あっちにもこっちにも新妻がいるぞ~?」

「あら、本当ねぇ~。旦那様はどこかなぁ?」


 失礼な言い方になるが、万代ばんだいさん、紫竹山しちくやまさん。ニヤついた2人の顔はとても気持ちが悪かった。


 綺麗な顔に向かって気持ち悪いと思うのだから、それでどれだけニヤニヤしていたかを察してほしい。


 美海が、揶揄ってきた2人に何か言い返すよりも先に、万代さんと紫竹山さんは当然に新津にいづさんに頭を引っ叩かれていた。


 学習しないのだから叩かれても文句は言えないと思う。


 揶揄ってきた人物で残るは美空みくさん。

 営業中は含みのある笑みを向けて来るに留め、何かを言ったりはしてこなかったが、アパートへ送る帰り道に、美空さんは美海を向いて言ったのだ。


「ふふふっ。美海ちゃんから郡くんと同じ匂いがするな~? あら? 郡くんの腕からは、美海ちゃんと同じ日焼け止めの匂いがするな~?」


 勤務後のため、飲食店特有の油の臭いが髪や体に付いており、それで同じ臭いがすると言ったなら分からなくもない。

 だけど美空さんが言っているのは、シャンプー等の匂いのことだろう。

 ただ、同じシャンプーを使いはしたが、美海からは全く違う匂いが香っていたからな。


 同じ匂いとは違うと思う。

 それに美海が僕の腕に付けた日焼け止めは無香料だ。

 まあ、確かに特有の匂いはするかもしれないけど、気付くのか?

 付けたのだってほんの少しだぞ……不思議だ。

 勘が鋭いのは姉妹揃ってなのかと変に感心をしてしまった。


 ああ、それと。これは大した出来事に分類されるかもしれない。

 その帰り道に起きたことだ。


 街灯でうっすら見えたが、目の前をプカプカと蒲公英たんぽぽの綿毛のような物が飛んできたのだ。その綿毛らしき物が、美海の耳の近くの髪の毛にくっついた。

 美海は気付いていないようだったから、僕は完全な善意として、声を掛けてから手を伸ばした。


「美海、ちょっとごめん」


「うん? っヒャイッッ!!?」


 付着したものは、やはり蒲公英の綿毛だった。

 7月にしては珍しいが、7月もまだ始まったばかりだしな。

 綿毛を息で飛ばしてから、僕はやってしまったと気付いた。


 今、思い出してもちょっと後悔だ。


 綿毛を抓んだ拍子に指が美海の耳に触れた。

 そのせいで、美海はくすぐったさと驚きから可愛い声で可愛い悲鳴が上げてしまった。

 嬌声きょうせいと言ってもいいだろう。

 美空さんは、美海が嬌声を上げたことで何事かと立ち止まり見ていた。

 美海は触れられた耳を抑えて、唇をギュッと結び涙目で僕を見ていた。


「蒲公英の綿毛が……」


 自分の罪を自覚していたため、小さく言い訳することしか出来なかった。


「美海ちゃんはね、耳が人一倍良いのよ。そして、人一倍敏感でもあるの」


 美海の秘密を美空さんが教えてくれた。

 無理な注文だと分かってはいるけど、先に知りたかった。

 昨夜、美海にドライヤーを掛けた時は平気だったはず。そう考えるも、今はきっと急に触れてしまったことが原因と考え直す。

 誠心誠意謝ろうと思ったら、美空さんがこの状況を放置することを宣言してきた。


「じゃあ、郡くん。今日も送ってくれてありがとう。寂しいけど、明日まで美海ちゃんのことお願いね」


「「え……」」


 この状況で? と、思わず美海と声が重なってしまった。

 さらに続けて視線も重なったが、その隙に美空さんは颯爽さっそうとオートロックの内側に『おやすみなさい』と言って、帰って行ったのだ――。


 仕方ないので、今度は僕が住むマンションへの帰路についた。

 無言と歩き進める僕と美海。

 その無言の間、僕はずっと反省をしていた。

 そして残り半分といった距離で、脳内反省会を終わらせた。


「えっと、急に耳に触れたりしてごめんね」


「それはね、良くないけど……もういいかな。恥ずかしかったけど……こう君も悪気があった訳じゃないし」


「ありがとう。でも、何か……僕にしてほしいこととかない? お詫びがしたい」


「気にしないでいいのに。でも……なんでもいいの?」


「僕に出来ることなら」


「じゃあ、今晩もドライヤーしてほしいな。心地よかったから、もう1回してほしい」


「分かった。でも、また耳に触れちゃうかもよ?」


「構えていれば平気だよ。さっきは、急だったから……もうっ」


 思い出してしまったのか、美海の耳が染まり直したことを街灯の光が教えてくれる。

 もしかしたら、耳が敏感だからよく染まるのかな?

 いつか顔が染まる姿も見てみたい気もするけれど――。


「美海?」


「なぁに?」


「聞いたら怒られるかもしれないけど、聞いてもいい?」


「えっと、こう君? 今、やっと仲直りみたいになったのに?」


「僕に出来る事ならなんだってするよ」


「もう、怒られる気満々じゃん。安売りは感心しないよ? でも、こう君が何を気にしているのか気になるしなぁ……分かった。いいよ」


 確かに怒られる前提で『なんでもする』と言うことは感心出来ないな。反省しないといけない。ただ、せっかく許可が下りたのだから聞いてみよう。


「じゃあ、遠慮なく。美海はさ、顔は赤くならないけど耳が赤くなるのって、耳が敏感だからだったんだ?」


「ふぇっッ!? 嘘ッ!? 私、耳赤くなっているの!?」


「え、うん。多分、恥ずかしい時とか平静? を装っている時とかに」


「知りたくなかったっ! 恥ずかしいぃぃ……。ねぇ、いつから? 最近だけ? 前からじゃないよね?」


 残念ながら最初に話し始めた日からです。とは言い難い。

 それにしても、自分では気付いていなかったのか。

 美空さん辺りに揶揄われていそうなことだと思ったけど……。

 敢えて言わなかったのか?

 いや、美空さんが言わなかったとしても万代さんだったら間違いなく揶揄いそうなことだし、分からないな。


「ねぇ、黙っていないで教えてよ」


 恥ずかしいのか両耳を両手で隠しながら聞いてくる。

 それだと聞こえないのではと思うが、耳がいい美海なら聞こえるのかもしれない。


「そうだな、最初に気付いたのは校門前で……」


「ま、前で?」


「僕が美海のことを『美人だしモテるんだな』って、独り言を呟いた時かな」


「さ、最初の最初だよぉ……恥ずかしい。聞きたくないけど、あとは?」


「覚えきれないくらいにはあるからな……気になるなら、頑張って思い出すけど?」


「だっ、大丈夫ですっ。お腹いっぱい。でも、そっかぁ……そんなにかぁ」


 よほどショックだったのか、見たこともない虚ろな目で遠くを見るように歩いている。

 ただ、今歩いている場所は歩道のない道路。

 僕が内側で美海が外側を歩いている。

 美海は僕の左側を歩くことにこだわりがあるようだから、何も言わなかった。

 けれど、今の美海は両手を耳に当てているせいでバランスが崩しているのか、少しふら付く場面もあって怖いし心配だ。


 女性には外側を歩かせないのがマナーだと光さんに言われているし、今の状態の美海を外側で歩かせるには危険。だから美海には内側を歩いてもらいたい。


「美海、ふら付いていたら危ないから内側歩いて? 嫌なら、耳から手を離そう?」


「……どっちも嫌」


「どっちかは諦めて。これは譲ってあげられないから」


「じゃあ……」


 渋々だけど二択から一択を選び、両手を下げ、耳を解放させた。

 そんなに左側がいいのか。


「僕のお願い聞いてくれてありがとう。美海はいつも左側にいるけど、何かこだわりでもあるの?」


「……こだわりと言えばこだわりかもしれない」


「何だか美海にしては珍しく曖昧だね?」


「知りたい?」


「うん、嫌でなければ。気になるし教えて欲しい」


「……恥ずかしいから、一度だけだよ?」


 左側を歩く理由に何か恥ずかしいことでもあるのだろうか。

 何を言われてもいいように少し構えておこう。

 心で決め、聞き逃さないように集中して待つ。


「えっとね、その……心臓って右より左側にあるでしょ? だからっ」


「ごめん、もう少し詳しく教えてほしいかも」


 心臓が左側にあるから、どうして左側に居たいのかがよく理解出来なかった。


「だから……私、耳がいいでしょ?」


「え、うん?」


「……もしかしたら聞こえるかもって思って」


「それは心臓の音がってこと?」


「うん。でも、さすがにギリギリまで寄らないと聞こえないけど……」


 それでも十分凄い。それだけで、美海が人よりも鋭敏な聴覚を持っていることを理解させられる。


「それでね、だから出来る限りはこう君の心臓の近くに居たいなって思ったの。公園での出来事のあとからは特に……はいっ、終わり!!」


 最後は強制的に会話を終了させられたが。

 公園での出来事といえば、美海が僕の胸に耳を当てて僕が化け物でないと証明してくれた時だ。


 つまりそれって……僕の心音が聞きたいから左側にいるってことか?

 だから、近くにいたいと。

 そうすれば、あの時のように心音が僕の感情を教えてくれるから。


 いやいや――え――――え??


 想像もしていなかった理由で嬉しさが込みあげてくる。

 聞かれたら恥ずかしいくらいに、心臓が強く『ドクンッ、ドクンッ』と鼓動しているのが分かる。頭に響いてくるほど大きく跳ねている。


 心臓は左側にあると言われるが、正確を言うと確か、ほぼ中心に心臓はあると記憶している。そのため、どちら側にいても大した差ではないだろうけど――そう言ってくれた気持ちが嬉しすぎる。


 その嬉しさのあまり僕が戸惑っていると、終了した会話を美海は再開させてきた。


「あとね、なんとなくだけど。左側にいると、こう君の『楽しい』や『困惑』、『嬉しい』、『悲しい』が伝わってきている気がするの。だから左側がいいの。はいっ、今度こそおしまいっ!!」


 恥ずかしそうにしながら『えへへぇ』と、照れ笑いの表情を僕に向けてくる。

 だが、美海以上に僕の方が恥ずかしい。嬉し恥しってやつかもしれない。

 衝撃のあまり、僕は気の利いた返事をすることが出来なかった。


「教えてくれて……ありがとう」


 これが精一杯だった。

 でも、僕の少ない言葉に不安に感じたのか、美海は笑みを一転させた。


「め、迷惑だったかな? 勝手に感情を探るようなことをして……」


「美海が僕を知ろうとしてくれていることが……凄く嬉しくて。嬉しすぎて言語化が追い付かなかっただけ。だから迷惑でも何でもないし、むしろこれからも美海に僕の左側に居てほしいとさえ思っている」


「本当に?」


「本当に」


「そっか……それなら良かった」


 誤解が解けたところで、マンション入り口に到着する。

 美海はと言うと、すぐに家だというのに僕の左手を取り繋いできた。


「美海、手を繋ぐのはいいけど、鍵が取り出しにくい」


「カバンの中?」


「そうだけど?」


「私が取ってあげる!」


 美海も片手が塞がっていて、取りにくさは変わらないと思うけど、楽しそうにしているから好きにさせる。


「鍵さん、どこかな~」


 楽しそうに1人隠れん坊をしている美海。

 でもすぐに鍵が見つかったようで、『あった』。そう声を上げると、オートロックの中からご婦人が出てきてドアが開いた。


「「こんばんは」」


 僕と美海が声を重ねて挨拶すると、ご婦人は驚いた表情をしたがすぐに笑顔を返しくれた。


「こんばんは。新婚さん? 仲がいいのねぇ」


 まだ僕ら2人は学生にしか見えない幼い顔をしている。

 それなのに新婚さんと言ったのは、ご婦人の冗談だろう。

 恥ずかしさはあるが、気にしても仕方がない。

 だから僕は軽くお辞儀だけして、微笑みを浮かべるご婦人を見送った。


 あ、ドアが開いているうちに通ったらよかったな。

 照れている美海を放置して、鍵を美海の手から取ってオートロックを解除する。

 美海の手を引き、エレベーターに乗り込みボタンを押す。


「ぜ、絶対に……こう君のことドキドキさせてあげるんだから」


 脈絡もなく急に宣言されるが、すでに先ほどドキドキさせられている。

 まあ、恥ずかしいから聞かれない限りは黙っておこう。


「帰ったら先に美海がシャワー浴びていいからね」


「私の決意表明をスルーしないでよ。けど、美波今日もお風呂入ろうって言わないかな?」


 多分、言わないだろう。

 今日は出掛けていないだろうし、昨日あれだけ暑そうにしていたのだ。

 美波のことだから、今日はすでにシャワーで済ませている可能性が高い。

 そのことを説明するといつものように『ふ~ん』と、冷たい目で見られてしまった。

 理不尽と感じながら、美海の手を離し扉を開く。


「ナァ~」

「おかえり――」


「ただいま」

「ただいまっ!」


 小さな出来事はあったけど、大きな出来事はなく無事に――。

 仲睦まじい様子の姉猫と義妹、本当の姉妹のような2人に出迎えてもらい、僕と美海は仲良く帰宅を果たしたのだ。

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