第81話 脳の海馬に刻まれる匂いはとても危険だ
可愛い姉のようなクロコと可愛い
夢だと思う程、幸せな日常だ。
心の中で幸せを噛みしめながらマンションを出ると。
「今日も暑そうだね、こう君」
本当にそう思う。
雲1つない空から届く日差しが、露出している肌や頭に突き刺さり痛いくらいに感じる。
「本当にね。美海は日傘とか使ったりしないの? 白くて凄く綺麗な肌をしているけど、何か日焼け対策してたり?」
「……こう君って、平気で女の子のこと褒めるよね?」
「え? いや、思ったことを言っているだけなんだけど」
ふぅ~と、息を吐かれ軽く流されてしまう。
「一応、日傘もあるし日焼け止めもつけてるよ?」
カバンを開いて見せてくれる。
「僕も持っているし気にせず差していいけど? ん? 日焼け止めが2本あるように見えるけど、2種類も必要なんだ?」
「日傘差したら並んで歩きにくいし会話もしにくいから傘はいいかな。 あっ、でも……じゃあ、こう君の日傘は? どんなの? 広げて見せて?」
日焼け止めに関してはスルーされてしまう。
まあ、そこまで気になった訳じゃないからいいけど。
それとさ、美海。『閃いた!』みたいな表情が気になります。
元から日傘は差すつもりだったから、美海の希望を叶えるのもやぶさかじゃないけど。
「ピアノの鍵盤に猫ちゃん? こう君、可愛いらしい日傘使っているんだね?」
「美波がプレゼントしてくれた日傘だから少し可愛いかもしれない。美海も日傘差していいからね?」
「ふ~ん……もしかして、お揃いだったりして? それとね、こう君。日傘2本も差したら道塞いじゃうと思うの」
ヒントらしいヒントと言えば、美波にプレゼントしてもらったと言っただけ。
それなのにお揃いの日傘だということを見事に的中されてしまう。
女性は勘が鋭いと言われているが、この場で実感するとは予想にしていなかった。
「美波と色違いではあるね」
横に並べば道を塞いでしまうが、縦に並べば平気だと思う。
それを口にしたりはせず、日傘を畳む選択をする。
「やっぱり~、本当にブラシスなんだからっ!! それでねこう君? 私、日傘も差せて会話も楽しめる画期的な方法を思い付いたんだけど、気にならない?」
ブラコンとシスコンを混ぜた、おかしな新しい言葉を造らないでくれ。
「もしも美海が僕を説得できる自信があるなら気になるかな」
「いい返答ですねぇ。でも、あるんだなぁ、これが」
「聞こうじゃないか」
「あ、じゃあ、仕方ないから……はい! これなぁ~んだ?」
美海のペースでどんどん話が進んでいくが、何故かどうして昨日没収された眼鏡を取り出した。
「……僕が
「八千代くんは物覚えがいい優等生ですからね、条件次第では今すぐ返してあげてもいいですよ?」
美海が言う条件が何かを簡単に予想出来てしまうため、返答に悩んでしまう。
「八千代くん、等価交換をしましょう。メガネ返してあげるから日傘は一緒に使おう? 誰もいないしお店もすぐだし、いいでしょ? せっかく一緒に歩いているのに離れたら寂しいもん」
「……分かった。僕も寂しいと思っていたし、いいよ。でも今だけだよ」
「やったっ! でも確かメガネを返す約束は明日の朝までだったと思うけど?」
「……今と明日の朝だけだよ」
「うんっ、それで十分満足!」
背伸びした美海が、少しずれた位置にメガネを掛けてくれてから、僕が差し直した日傘に入って来た。
等価交換の条件で、無事に契約が成立した訳だが――。
これでは僕が得をし過ぎているため、果たして等価になっているか怪しいものだ。
美海が得をしている部分と言えば、せいぜい傘の柄を持たなくてもいいことだろう。
美海が柄を持つと、身長差のせいで僕の視界は日傘の内側で覆われてしまうからな。
そう考えると柄を持つのは僕のためになるな。
それにこんな美少女と相合傘が出来る事を考えてみても、間違いなく僕の方が得をしている。
考えれば考える程、分からなくなってくるが……美海が喜んでいるならいいか。
「ところで美海さん」
「ん? なぁに?」
「眼鏡の位置直したいからさ、少しだけ傘を持ってもらってもいいかな?」
度の入っていない
「あ、ごめんね。えっと……動かないでね――」
予想に反した美海の行動。
急に目の前に現れたことで目のピントがずれてしまう。
だがそれはすぐに修正される。
そして僕の視界に飛び込んできたのは――。
僕に向かって一生懸命に見上げる美少女の顔。
まつ毛が長く、くりっとした目。
きめ細かく白く綺麗な肌。
夢中で眼鏡の位置を直してくれているからか、耳は染めていないが、ほんの少しだけ口が開いている。
普段見ることの出来ない少し間抜けな様子も可愛く見える。
動かないでと頼まれずとも、僕は美海に釘付けで身動き1つ取ることが出来なかった。
「……どう、かな?」
極めつけは、首を傾げ質問すると同時に耳を染め始めたことだ。
きっと至近距離に顔があることに、やっと気づいたのだろう――。
「……ありがとう。バッチリだよ」
「そっか、よかった……」
「うん……」
「「…………」」
美海は背伸びを直したため、その分の距離は離れたが大した差ではない。
互いに視線を外すことが出来ずに重なり続けている。
「ままぁ、どうしてあのヒトたちうごかないのぉ? おなかペコペコなのかなぁ?」
「ふふ。お腹は分からないけど、心は一杯だと思うから心配いらないと思うわよ。それより、早く帰ってアイス食べようね」
「「………………」」
「「そろそろ……」」
「「………………」」
「「行こっか……」」
視線だけでなく、言葉までさえも重なり続けてしまう。
そのせいで、美海の耳が異常なほど熱を帯びていることが触れなくとも分かる。
これ以上何かを話せば、また言葉が重なる。
今は時間もないし、ひと先ずアルバイトに向かおう。
そう決め込んだ僕は、足を動かした。が――。
同じ考えに至った美海の足も同時に動く。
「「………………」」
ただ、ここまで来るとさすがに面白くなったのか、美海は笑い声を上げ始めた。
「ふふ……ふふふふっ。もうっ、こう君たら私の真似ばっかり!」
「美海の方こそ」
「えぇ~?? こう君の方がだよっ」
足を動かし、しばし言い合いしてから、美海は2種類の日焼け止めを使い分けている理由を教えてくれた。
1本は無香料タイプで、バイトの日に使用すると。
おそらくだが、飲食店に配慮したことが理由だろう。
「こう君も試しに付けてみる?」
すでに用意された日焼け止めを、返事する間も無く僕の腕に付けてくれる。
日焼け止めに、ベトベトするイメージを持っていたが思ったよりサラサラしていて驚いた。
そして、もう1本はバイト以外の日に付けている。
こちらは容器を鼻の前に出されて『どう?』と匂いについて確認された。
シトラスのいい香りだった。
あの日、美海から香ってきたのはこの匂いだったと気付くことができた。
美海は僕が匂いを嗅いだことを確認すると、こう訊ねてきた。
「こう君は、シトラスの匂い好きじゃない?」
「美海に合っているし僕も良い匂いだと思っていた」
「良かった。それなら……これからは、こう君と一緒にいる時は付けようかな?」
美海の提案は危険に感じる。
僕の脳の
本当にとても危険だ。
これでは、どこか美海のいない所でシトラスの匂いを嗅ぐたびに思い出してしまう。
今ですらその領域に足を踏み入れかけているのに、これ以上は危険極まりないことだ。
分かってはいるが、期待するように問いかけて来る美海の顔を見たら、僕は断ることなど出来なかった。
「美海の好きなようにしたらいいよ」
「は~い、好きにしますっ」
中途半端な返答に不満を言われるかと思ったが、機嫌良さそうにニコニコとしてくれている。良かった。
角を曲がればお店という所で日傘を畳み、そのまま2人一緒に裏口から建物へ入る。
着替えは美海に先を譲り、順番に着替えを済ませる。
「お待たせ美海。今日も頑張ろうか」
「うんっ! じゃあ、事務所に寄ってから下りようね」
今日のバイトは、昨日のような出来事は起きませんように。
階段を下りる僕の後ろから聞こえてくる鼻歌に耳を傾けながら、そう願ったのだ。
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