第77話 僕未婚だからな……

 何か――凄く懐かしい夢を見ていた気がする。

 非現実的な夢じゃない。

 過去に実際に起きた現実の夢。

 けれど夢の内容を思い出すことは出来ない。


 いつもそうだ。


 夢を見たことを覚えていてもどんな夢を見たか覚えていられない。

 でも今日はなんだか……懐かしい気持ちは残っていたな。

 たしか――むかし。

 寝ていた時か転んだ時か覚えていないけど。

 心配する表情で、上から誰かに顔を覗き込まれていた。


 そんな記憶がある。


 誰だったかな。

 いつのことだったかも覚えていない。

 だけど、抽象的だとしても。

 こんなに夢を覚えていたのは初めて、いや……久しぶりかもしれない。


 ああ、でも――徐々に抜け落ちてきているな。

 どんな気持ちになった夢だっけかな。

 すでに忘れ始めているから分からないや。


 何を考えていたかも忘れ、夢うつつの世界から覚醒し、瞼を開けると――。


「……よかった」


 瞼を開けたすぐ目の前には、心配そうな表情で僕を覗き込む美海の顔があった。

 起床後ノータイムでこんなに綺麗な顔を拝めるのは幸せなことかもしれない。ただ、もっと贅沢を言うことが許されるなら笑った顔の方がいいなーー。


 けど、えっと……どんな状況か分からない。

 クロコが起こしに来ていないということは、まだ早い時間だということは確かだろう。

 状況の確認もしたいし、ひと先ず挨拶をするか。


「おはよう美海。早いね。それと、今のこの状況を聞きたいんだけどさ、どうしてここに居て、僕の顔を覗き込んでいるの?」


「勝手に部屋に入ったりしてごめんね。目が冴えちゃって、こう君起きているかなと思って、リビングに来たの。でも、まだ居なくて……和室から寝息1つ聞こえてこないから、段々心配になって、つい……」


 僕は昔から寝相が良すぎる。

 呼吸も浅いため、ふすま越しだと寝息は聞こえなかったのかもしれない。


「心配してくれたんだね。僕は昔から寝相がすこぶるいいんだよ」


 上体を起こし、伸びをして辺りを見回す。

 少し離れた所で、クロコの姿が見えた。起こす時間になったのかもしれない。

 でも、僕を起こすという仕事を取られたからか、不機嫌そうにギュッと体を丸めて座りこちらを見ている。


「ありがとうクロコ。あと、おはよう」


「ナァ~」


 ひと鳴きすると、僕の位置からは見えない場所へ移動して行った。

 ルーティンを考えると、美波が眠る僕の部屋に行ったのだろう。


「どうして、クロコにお礼を言ったの?」


 僕がクロコにお礼を言ったのが不思議に思ったのだろう。


「朝、僕を起こすことがクロコの仕事で、起こしに来てくれていたからお礼を伝えたんだよ」


「え、そうなんだ!? でもそれって……私、余計なことしたってことだからクロコに怒られたりしないかな?」


 クロコの仕事を奪ったと慌てる美海に、今はひと仕事終えて二度寝に入ったから、あとでクロコが起きて来た時に、謝るといいよと伝えておく。

 補足説明として、昔からクロコが目覚ましの鳴る10分前には必ず起こしに来ることを説明すると、当然だけどかなり驚いていた。


「僕は顔を洗いに行くけど美海は? もう少し寝ててもいいけど?」


「私も起きようかな。眠れないと思うし」


「じゃあ、僕は布団を畳んで行くから美海は先にどうぞ。タオルの場所は昨日美波から聞いているよね?」


「ありがとう。じゃあ……先に洗面所使わせてもらうね。タオルの場所も聞いているから大丈夫だよ」


 和室から出る美海を見送ってから、上体だけでなく今度は完全に布団から出て、布団を畳み押入れに収納する。

 次に、リビングのカーテンと窓を開け空気を入れ替える。

 リビングにはほんのりと甘いん匂いが残っていて、入れ替えるには惜しい気もしたが、空気と一緒に雑念を外に放り出す。


 それから洗面所に行くと、美海はすでに顔を洗い終わり化粧水をつけているところだった。

 見覚えのないパッケージだから美海が持参した物だろう。

 何気なく洗面台の上を見ると、化粧水が2種類に、それ以外の多分乳液か何かがあって、歯ブラシが3本並んでいる箇所が目に留まる。

 今の部屋の様子は普段と違う間違い探しのようなもの。

 その答え見つけてしまうと、どことなく気恥しくなってくる。


「こう君、あのね。そんなに見られると恥ずかしい……です」


「あ、ごめん。美海、凄く肌が綺麗なのに化粧水もしっかりつけるんだなって」


「褒めてくれるのは嬉しいけど、恥ずかしいからあんまり見ないでっ! それに、ちゃんとケアしないとすぐに肌荒れちゃうし、将来にも響くってお姉ちゃんが……」


 なるほどな。そう言えば光さんも美波に似たことを言っていたかもしれない。


 ――肌と歯は若い頃からしっかりケアしておかないと、大人になった時にお金が掛かるから。


 って。光さんらしい説得の仕方だなと感想を抱いた記憶がある。

 美海に謝ってから僕も顔を洗うが、美海はお返しとばかりに見てくる。

 見ている時はただ綺麗だなって見ていたが、こうして見られる側になると恥ずかしさを感じてしまう。以後、気をつけるとしよう――。


 次に歯ブラシを手に取る。

 美海も歯ブラシを手に取るが、さっきも感じたようになんとなく気恥しくて、お互い顔を背けて無言で歯磨きを済ませる。


「ねぇ、こう君? 何か分からないけど……ちょっと、恥ずかしかったね?」


「そうだけどさ、口にしたらもっと恥ずかしくならない?」


「そうかもだけど、なんか……分からないけど、新婚さん? みたいだなって……」


「「……………………」」


 僕も思ったけど、恥ずかしくて口には出来なかったのに美海は口にしてしまった。

 恥ずかしくないのかな?

 いや、耳を急激な勢いで赤く染めているから恥ずかしいのだろう。

 自爆もいいところだ。


「……こう君、黙っていないで何か言ってよっ」


「僕は未婚だから、ちょっとよく分からないな」


「私だって未婚だよ……それに初恋すらまだだよ…………」


 なるほど。美海の初恋はまだなのか。

 僕の初恋話をしたことはあったけど、初耳情報だな。

 知れたからと言って、どうこうないけど。


「こう君は私の初恋気にならなかったの?」


 気にならないと言えば嘘になるが、そこまで深く考えたことはないな。


「女の子に、そういうことを聞いたら駄目だと思っていたから」


 僕の返答に不満を抱いたらしく、頬を『むぅっ』とボリュームたっぷりにさせてきた。

 駄目だと分かるが、つつきたくなってしまう。


「とりあえず、着替えようか」


「……どうして私の頬をツンツンしているの?」


 僕の人差し指は悪戯好きな指のようだ。


「あまりにも可愛くて、つい」


「思ってもいないくせにっ」


 そう言って美海は、両手で僕の頬を『ギュッ』と抓んでから着替えるために部屋に戻って行った。

 いちいち可愛いなと思うけど、抓られた箇所は痛みで熱を帯び、赤くなっている。

 うん、僕が悪い。


 今なら美海や美波に見られる心配もないから、鏡を見たついでに日課のトレーニングをしておく。

 思い出すのは、昨夜、副店長が来た時のこと。

 あの時――自分でも驚くほど冷たい声が出ていた。

 抑揚のない僕の声に、数年ぶりに怒りの感情が声に含んだ瞬間だった。

 何があったか、何に怒りを覚えたか思い出してみるが――。


 今までと変わらず”無表情”そのものだ。

 まあ、だからといって特別残念に思ったりはしない。

 何も起きなかった今までと違い変化の兆しはあったのだ。

 だから焦る必要はない。

 それよりも今は目に入ったまつ毛か何かが気になる。

 痛いしゴロゴロする――。


「ねぇ、こう君? ずっと鏡とにらめっこして楽しいの?」


「いや、頬が赤くな……うん。冗談はさておき、目にゴミか何かが入ったみたいでさ」


 日課を見られてしまったが、幸い何をしていたかまでは気付いていないようだ。

 頬をさすって誤魔化そうとしたけど、美海の目が怖かったので目にゴミが入ったと誤魔化すことに変更した。危ない、危ない。


 その後は『ふ~ん』と冷たい目を向けられたが、気にせず美海にはリビングで待っていてもらい、僕も着替えを済ませリビングへ。

 朝のニュースや天気予報を確認するため、テレビを付けてからキッチンに入る。


「ご飯は美波が起きる8時くらいで考えているけど美海はどうする? 先に食べるなら、何か簡単に作るけど?」


 今は6時30分を過ぎたところだから、もしお腹が空いているならあと1時間半待たないといけなくなる。


「ありがとう。でもまだあんまりお腹空いていないし、せっかくだから一緒に食べたいから私も8時で大丈夫だよ。美波は自分で作ったりしないんだ?」


 会話を進めながら、ケトルの電源を入れミネラルウォーターを注ぎ、設定温度を50度にして白湯さゆの準備を進めておく。


「了解。僕はコーヒー飲むけど美海は? 美空さんの美味しいコーヒーと違ってインスタントになるけど。それか昨日飲んだアイスティか。あと、美波は普通に料理出来るけど、僕がいると全くやらないかな」


 光さんに仕込まれているから美波は和食に限り料理が出来る。

 言った通り普段は全くだけど、僕の誕生日にはご馳走だって作ってくれるから、それで十分だろう。


「ん~……ちょっと我儘言ってもいい? あと、今から我儘を言おうとしている私が言うのも何だけど、こう君は美波に甘すぎると思うよ?」


「僕に出来ることなら気にせず我儘言ってくれていいよ。あと、それさ。同じことを幸介にも言われる。美波を甘やかし過ぎだって。でも、甘えてくれるのは今だけだと思うから、今のうちたっぷり甘やかしたいんだよね」


「じゃあ遠慮なく我儘を言わせてもらいます。お姉ちゃんに振舞ったように、私もこう君が淹れてくれる紅茶を飲みたいです。あと、やっぱり幡くんにも同じこと言われているんだね。でも、ん~、今の内かぁ……そう言われると、そうなのかな? って、思えてきちゃうなぁ。大人になったら甘えることだって難しくなりそうだし」


 先に、紅茶について了承の返事をすると、小さく『やった』って聞こえてきた。

 美海は我儘と言っているけど紅茶を淹れるくらい全く我儘ではない。

 それに美海が喜んでくれるなら、むしろもっと早く淹れてあげたかった。

 美空さんにも頼まれていたことでもあったし、ちょうど良い機会がきて良かった。


 それと美海が言ったように、高校3年間などあっという間に過ぎて行くだろう。

 今は僕の我儘で美波と別々に暮らしているのだから、たまに過ごす時間くらいはたくさん甘えてほしい。

 卒業後の進路次第では、頻繁に会うことさえ出来なくなる可能性だってあるし。

 それなら今だけはと思ってしまう――。


 ――カチッ。


 と、ケトルから小さな音がなる。

 白湯が出来上がったようだ。

 紅茶の準備を進める前に、白湯をマグカップに注ぎ美海が座るテーブルに持って行く。

 以前は、ヤカンで沸騰させていたため手間が掛かっていたが、ケトルを購入してからは随分と簡単になった。


「紅茶の前に白湯をどうぞ。淹れたてのコーヒーよりはぬるいけど、火傷に気を付けてね。あとさ、美海のは全く我儘じゃないから。我儘レベル初級にすら届いていないよ?」


「むっ。こう君は甘やかしレベル上級者って感じだよね? こうやって白湯まで用意してくれて。でも、私白湯を飲むってこう君に言ったかな?」


 今のうちにテレビの電源を落としておく。

 気になるニュースもないし、美海も見ていなかったようだし構わないだろう。

 天気予報では夜遅くから雷を伴う雨だと言っていたが、それは帰宅後の予報だから特に気にする必要もないだろう。


「甘やかしレベルは美波のおかげで達人級かもよ? だから美海も余計な事考えないで思ったことを言っていいから。分かった? 白湯は美空さんから聞いていたんだよ。余計だった?」


「お姉ちゃんったらいつの間に……あ、でも全然余計じゃないからね。白湯を用意してくれて、ありがとっ」


「どういたしまして」


「けどね、こう君。私、美波じゃないから甘え方分からないな?? あ! でも達人級のこう君なら、私が上手に甘えられるようにリードも出来るんじゃないかな?? こう君は達人だもんね??」


 ここぞとばかりに、悪戯顔で僕にリードしろと我満を言ってくる。

 美波は次から次へと甘えて来るから、逆にどうしたら甘えて貰えるかは分からない。

 達人級と自称した手前どうしたものか……。

 今は考える時間が必要だ。

 紅茶の準備もしたいしキッチンへ撤退しよう――。


「えっと、こう君? どうして私から離れて行っちゃうの?」


 撤退など許さないと言わんばかりに、僕の後を着いて来る。


「紅茶の準備をしようと思ってさ。けどそっか……美海は僕にリードしてもらいたいんだ?」


「あ、そっか。ありがとう。でも、年上好きで甘えん坊のこう君にリード出来るのかな?」


「そうだね……難しいけど、出来るって言ったら美海は受け入れてくれるの?」


 今までのこともあるし美海のことだ。

 はぐらかす様に含みを込めて言えば、変に警戒して『やっぱりいい』って言いそうだからな、時間稼ぎとして使わせてもらおう。

 そして案の定、僕を困らせる悪い顔をしていた美海は、段々と警戒するような表情に変わってきた。


「ほ、本当に出来るの?」


「いいよ。疑うなら、早速――」


「や、やっぱり大丈夫!! この流れ嫌な予感しかしないもんっ!!」


「そ? でも、なんだか物足りないから1回だ――」


「ダメ、ダメ! こう君!! また今度でお願いします!!」


「分かった。美海がそこまで言うなら、今日は止めておいてあげる」


 上手くいったようで安心だ。

 達人級って自称した手前、出来ないって言い出しにくかったからな。

 僕がホっとひと息つき、胸を撫で下ろし油断させていると――。


「…………もしかして、こう君?」


「……なに?」


「私のこと騙した? いつもの流れに持って行って騙したんじゃないの?」


「……どうしてそう思ったの?」


「だって、やけに素直だもん。いつものこう君だったら、意地悪に私の静止を振り切って言い切るもんね?」


 僕は無表情だから、普通なら考えていることを読みとられたりしない。

 けれど美海はいつも的確に言い当てて来る。

 喜ばしいことだけど、今はなんとなく複雑な気分だ。

 美海には悪いけど無理矢理誤魔化して次に行こう。


「騙したなんて人聞き悪いよ。さてと、早く紅茶の準備を進めたいし、そろそろクロコのご飯の用意もしないとかな」


「ほらっ!? あからさまに話し変えてるもんっ!! ねぇ、こう君!!」


 結局、美海の追及に負けて誤魔化すことは失敗に終わったけど――。

 その後に、紅茶を美味しそうに飲んでくれたから僕としてはそれで満足だ。

 それにしても、どうして美海や美波には誤魔化しが通用しないのか。

 いつも最後にはバレるからな、不思議で仕方がない。


「ナァ~」


「ふふっ、どうしたのクロコ? こう君の顔見て鳴いたりして」


 美海と仲直りして、美海の膝の上に乗るクロコが僕に向かって鳴いた理由。

 多分、クロコにも僕の考えなどお見通しなのだろう。


 ――郡は分かりやすい。


 そう言われた気がしてならなかったのだ――。

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