第76話 サンドイッチは別に嫌いではありません

 僕の家にあるシャンプーやトリートメント、ボディーソープはその辺のスーパーや薬局で買えるものだ。

 さらに言えば安物と呼ばれる部類かもしれない。

 匂いにこだわりもなく、汚れが落ちればいい。

 だから安くてもいいだろう。

 そんな安直な考えで、1人暮らしを始めて適当に買ったものだ。


 けれども。

 今まで過ごした日々で一度も嗅いだことのない、とてつもなく良い匂いがリビングに充満している。


 女子のお風呂上がりの匂いとは、なんて破壊力なのか。

 本当に同じシャンプーを使用したのかと疑ってしまう。

 そう思っても仕方ないくらい、全く別の甘い匂いが僕の嗅覚を刺激してくる。


 美波とは約3年間一緒に暮らしていたから、美波の匂いに関してはある程度耐性がある。

 けど今は――2人の匂いが混ざり、元から少ない語彙力をさらに失わせる程、とんでもないことになっている。


 心を無にしないといけない。

 それなのに。

 さらなる苦行が僕を待ち構えている――。


「じゃあ、こう君お願いねっ」


「……本当にいいの?」


「うんっ! は~や~く~~!! ふん、ふん、ふぅ~んっ」


 ダイニングテーブルセットの椅子に座る美海が、身体を横に揺らし、鼻歌混じりウキウキご機嫌な様子をして煽ってくる。


 今の美海は、控えめなフリルや小ぶりなリボンが付いている可愛らしいパジャマを着用している。

 勘だけど、美空さんが美海のために選んだパジャマかもしれない。

 とても似合っているし、新鮮なパジャマ姿で、つい、目を奪われそうになる。


 それにそんな可愛いパジャマを着て、おねだりしてくる美海の姿はとても可愛いから、これまたついついおねだりを聞いてあげたくもなる。


 そう思うのに躊躇ちゅうちょしてしまう理由もある。

 そのおねだりの内容が問題なのだ。

 美海は僕に髪を乾かしてほしい。

 ドライヤーを掛けてと我儘を言っているのだから。


 僕の目の前には揺れ動く美海の頭。

 そのため、その場にいるだけで甘い香りが鼻翼の先をくすぐってくる。

 強制的に女性を意識させられてしまう。


 こんなイベントが発生したきっかけだが。

 美波がドライヤーをリビングに持ってきたことから始まる。

 湯に浸かりほてった体。脱衣所だと暑いからエアコンが付いていて涼しいリビングで髪を乾かしたかったんだろう。


 それは分かる。


 それなら自分でドライヤーすればいいだけの単純な話だ。

 けれども、僕の可愛い義妹である美波は我儘を口にした。


「やって――」


「美波、今日くらいは自分で――」


「特権――?」


 それはずるいって美波。

 その目をして『特権――』。そう言われたら僕が断れないことを分かっていて、悲しそうな目をさせてくる。

 それで結局、可愛い義妹の我儘を断る事が出来ず、ドライヤーを当てようとしたら、今度は美海が『私にもやって』と言い出した。


 その後は似たような感じで断ることが出来なかったというわけだ。

 ドライヤーの後はすぐに就寝すること。

 するのは今日1回だけだと約束して、最終的に今に至る。


 先に美波のドライヤーは終わっているから、次は美海の番ということだ。

 髪に触れても訴えたりしないよな……美海がそんなことしないと分かりつつ躊躇してしまう。


 まあ、でも……楽しそうだし、美海には今日も凄くお世話になったから、いいか。

 そう無理矢理納得させ覚悟を決める――。


「それでは美海。失礼します」


「はいっ、こう君に失礼されますっ!」


 可笑しな返事を頂いてから早速ドライヤーを当てるが、簡単に指が通る。

 それに、細く柔らかくサラサラとしていて、想像していた以上に綺麗な髪質をしている。


 一か所に熱が集中しないよう、温風と冷風を使い分け、そして癖が付かないようにくしも使いながら丁寧に当てていく――。


 美波みなみ美海みうよりも髪が長いため15分くらいかかったが、美海は10分くらいで乾かすことが出来た。

 余計なことを考えないようにしたからか、時間が早く過ぎたように感じたな。

 時計を見ると、すでに日付が変わってから30分が過ぎている。

 日付が跨ぐまで起きていたのは、久しぶりかもしれない。


 あ、いや、1週間くらい前に美波と朝方まで電話で話していたか。

 この1週間いろいろな事があったからな、凄く前のことに感じてしまう。とりあえず――。


「はい、終わりました。どうですかお客様?」


「うむ、苦しゅうない。褒めて遣わそう。へへっ、なんてっ! ありがとう、こう君! 最初は指がくすぐったかったけど、凄く気持ちよかったよ!! 上手だねっ」


「それならよかった。上手にならざるをえなかったからね」


「ふ~ん?」


 せっかく美海がニコニコしているのだ、これ以上余計な事は言わずに今日はこのまま眠りにつきたい。


「じゃあ、さっき話した通り明日は幸介が来るから、あとは歯を磨いたら寝ましょう」


「は~い」


 ソファに近づき美波を見ると、すでに舟をこぎ始めている。

 声を掛け、肩を揺らし覚醒を促すと、立ち上がってくれたが目はほとんど開いていない。

 美波は寝ぼけているのか今朝と同じように甘えてきた。

 それが意味するのは、手を伸ばし抱き着いて来たということだ。


「抱っこ――」


 これが朝だったら、何事もなく回避出来ただろう。

 だけど、今は予想していない不意打ちで回避出来ずに抱き着かれてしまった。

 幸いなことに、中学生の頃とは違いよろけてしまうことはなかった。

 けど不幸なことに、踏ん張る為に僕もしっかりと抱き止めてしまう。

 その姿は、美海から見れば抱き合っているように見えたことだろう。


「こら、みなみ……………………あの、美海さん?」


「……………………こう君、いい匂いする」


 前は美波。後ろは美海。

 前後から美少女に抱き着かれたおかげで、全く身動きが取れない。

 しかも美海の言葉を聞いた美波まで鼻をクンクンとさせてきた。


 恥ずかしいし、変な汗も出て来たからこれ以上嗅がないでほしい。


 それに、2人とも夏用パジャマで生地が薄い。

 つまり余計に女性特有力が伝わってきている。


「美波も美海も離れて。あと、2人ともやたらに男性に抱き着いたら駄目だから。はい、離れて」


「義兄さん――」

「……こう君だけ――」


「はいはい、寝言は歯を磨いて寝てから言って下さい」


 離れてくれたけど、2人揃って不満たらたらである。

 美波の影響を受けているのか、今日は美海まで甘えん坊に感じる。

 この先が心配だな。変な男に引っかからないといいけど。


 美海のせい。美波のせい。

 2人が僕に怒られた責任を擦り付け合いながらも、就寝の準備を完了させる。

 洗面所を出た所で、2人揃って僕にどこで寝るのかと聞いてきた。


「義兄さん――?」

「こう君はどこで寝るの?」


「僕はリビングで寝るから。2人はベッドと布団で寝て」


「ダメ――」

「それはダメ、風邪ひいちゃうよ」


「夏だし、タオルケットもあるから大丈夫だよ」


「一緒――?」

「平気じゃ……って、美波なに言っているの? え?」


 美波が『一緒にベッドで寝よう』と言うが、さすがに駄目だ。

 それに気付いた美海も止めてくれている。

 けど何故か僕に聞こえないように、コソコソと話合いを始めた。

 嫌な予感しかしない。


「「3人で――?」」


「いや、もっと駄目だから。美海も美波に乗せられないで」


 説得に時間が掛かると覚悟したが、2人も眠いからかすんなりと話はまとまった。

 美海みう美波みなみ、2人は仲よく僕の部屋のベッドで。

 僕は和室の布団で寝ることにだ。

 逆の方がいいのでは? と、思ったけど、ベッドじゃないと寝付けないのやもしれない。

 僕も眠いし余計なことは言わずにそのまま了承することにした。

 和室に置いておいた美海の荷物を部屋に移動させてから――。


「じゃあ、2人ともおやすみ」


「「……」」


 返事がない。

 勘が冴えたからか、なんとなく分かったので改める。


「美波、美海おやすみ」


 2人とくくらず、名前を呼んでほしかったのだろう。

 すると、美波が美海に勝ち誇ったような顔を向けていて、美海は悔しそうに唇を尖らせている。

 順番に他意はないけど、明日は美海を先に呼んであげようと心の中で約束した。


「おやすみ――」

「こう君、また明日ね。おやすみなさい」


 そう言って、2人は……美海と美波は僕の部屋に入って行った。

 僕はキッチンで水を一杯飲んでから、テーブルに置いておいた携帯を手に取り、電気を消し、携帯の明かりを頼りに和室の布団に入るが、どうやら先客が居たようだ。


「クロコ、ここに居たのか」


 僕と一緒に寝たいというより、布団にニオイを付けたいからかもしれない。

 それでも、今日はどことなく寂しい気持ちもしていたのでありがたく――。


「一緒に寝よっか。おやすみクロコ」


「ナァ~」


 最後はクロコと一緒に、長い、長い1日が終えのだ。


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