第59話 分水嶺

 今日も寝不足の酷い顔で鏡と睨めっこをしてから学校へ向かった。

 図書室に入ってすぐ、美海は挨拶そっちのけで驚いた表情を僕に向けて来た。

 二夜連続で夜更かししたせいで寝不足となり、くまでも出来ていたのかもしれない。

 そんな珍しい美海と挨拶を交わしたあとは、いつもの奥の椅子に着席するが、今度は僕が美海に驚かされてしまった。

 結果から先に言うと、約1週間アルバイトが休みになった。

『空と海と。』で働く万代ばんだいさん、紫竹山しちくやまさん、新津にいづさんの3人が季節外れのインフルエンザにかかってしまったらしい。

 もしかすれば、あの時2人が咳をしたのはその前触れだったのかもしれない。

 それで――さすがに、美空さん1人では店を開くことが出来ないため、店を臨時休業することになったと。

 前に心配していた通り、少ない人数の弊害が出てしまったのだ。

 気になるインフルエンザの感染経路だけど、どうやら先日のライブが原因らしい。

 万代さん、紫竹山さんとは土曜日に出勤が被っていたため、美海から心配される言葉を受け取った。


「こう君も感染しているかもしれないから、体調悪かったらすぐに病院行くんだよ?」


 念入りに言われ、心配されたことはうれしいが、それを言うなら美海も同じであるから、同じことを言い返しておいた。

 体調については、今のところ大丈夫そうだが寝不足による免疫力低下だけが心配かもしれない。

 まあ、罹ったとしてもバス旅行のタイミングに被らなかったのが不幸中の幸いだろう。

 兎にも角にも、美海や美空さんにうつっていないといいし、罹っている3人も早く良くなるといい。


 そして今日から暫らくバイトが休みということは、昨日急いでBS(バランスシート)を読み取ることもなかったかもしれない。

 いや、後回しにしなかった自分を褒めておこう。

 とりあえず、出来上がった改善案をまとめたノートは、美空さんに渡しておいてとお願いして美海に預けた。


 昼間はバス旅行の班員と会話を重ねつつ、平穏な時間が過ぎて行き放課後となる。

 昨日約束した通り、班員の5人で教室に残り集まる。

 関くんは部活があるため時間は30分だけ。

 計画自体の進展はなかったが、班員全員で世間話をして親交を深め、最後に連絡先を交換したおかげか、昨日とは比較にならないほど穏やかな状態で解散となった。

 関くんは美海の連絡先が知れたことに。

 五十嵐さんは関くんの連絡先が知れたことに嬉しそうにしていた。

 連絡先交換の提案をした時は、柄にもないことをして恥ずかしかったけど勇気を出してよかったのかもしれない。

 でも、平田さんは真剣な顔で携帯の画面を見ていたから、もしかしたら、嫌だったのかもしれない。悪いことしたかな。


 その平田さんと僕は、他の3人から課題を付された。

 帰宅したらメッセージアプリの『メプリ』を携帯に入れなさい。と――。

 高校生なら当然に使うアプリ。

 僕と、多分平田さんも友達が少ないため、使ったことのないアプリだ。

 いよいよ僕もショートメール卒業かな、そう考えていたら。


「上近江さんがアイコンにしてる玉子焼き? めっちゃ美味しそうだね! 上近江さんが作ったの?」


 関くんが美海へ質問した。

 関くんに美海のアイコンを見せてもらうと、僕が古町先生の誕生日パーティーで作った出汁巻き玉子が映っていた。

 美海はどうやら僕に内緒で設定していたようだ。


「えっとね、美味しそうだよね。私も卵料理は得意なんだっ」


 そう関くんに返事をしつつ、チラチラとこちらを恥ずかしそうに見てくる美海。

 黙っていたことが知られて恥ずかしいのかもしれない。

 アイコンに使ってくれていることは嬉しいから、そんなに恥ずかしがらずともいいのに。

 だけど僕はどうしようかな。

 バス旅行でいい写真が撮れるかもしれないし、それまではノーイメージにしておこう。


 その後、班員と別れてから、今日はまっすぐ家に帰り夕飯前に仮眠を取る。

 さすがに少し眠いからな。

 アラームをセットした時間の10分前に、クロコが起こしてくれて目が覚める。

 携帯を見ると、美空さんから着信とショートメールが届いていたため、何かあったかと心配になったが、ショートメールの内容は、改善案をまとめたノートのお礼だった。

 頑張って作ったから、喜んでくれて何よりだ。

 来週、店が再開されたら徐々に変えていきましょう。

 そう返信してから夕飯を済ませ、就寝前に『メプリ』をインストールしてから夜を過ごした。


 木曜日、昨日に引き続き放課後集まった。

 初めは平田さんが僕に『ズッくん』というあだ名を付けてくれたおかげで、和やかな雰囲気だった。

 どうしてズッくんなのかは頑なに教えてはくれなかったけれど。

 気になって仕方ないが、無理に聞き出すのはよくないからな……機をうかがって再度聞いてみよう。

 けれども和やかな雰囲気は続かなかった。

 途中、五十嵐さんが涙を浮かべ帰宅してしまったからだ。

 きっと――。

 集まりの前に僕が無神経なことを言って焦らせたのだろう。

 焦りからか五十嵐さんは美海に冷たく当たり、その五十嵐さんに対して関くんが注意した。

 好きな人から注意され、我慢出来ずに気持ちが溢れてしまったのだろう。

 もう少し配慮すべきだったと反省しないといけない。


「僕は追い掛けるから、みんなは適当に解散してて。また今度集まろう」


 そう言葉を残し、僕は五十嵐さんを慰めるためでなく、追い打ち……発破をかけるために追いかけた――。


 また今度集まろうと言ったはいいが、この日を最後に5人が集まる事はバス旅行当日まで訪れなかった。

 そのため、僕が個々に話をつけて何とか提出日ギリギリに、内容の薄い行動計画表を古町先生に提出したのだ。


 翌日の金曜日は特に変わりのない1日だったと思う。

 ただ、僕たちの班の仲の悪さを表しているかのように全国的に大雨となっている。

 今日は7月7日、”七夕”だというのに残念な空模様となってしまった。

 まあ、雲の上は晴れているだろうから彦星様と織姫様は1年に一度の逢瀬を交わせているだろう。

 だからどうか、僕たちの班の仲を取り持ってください。

 と、勝手にお願いをしてみた。図々しさもここまで来ると笑えてくるかもしれない。


 …………どうやったら笑えるようになるかな――。


 そして週が明けた月曜日、放課後。

 僕は今、ハーレム状態でカラオケボックスにいる。

 人生初のカラオケボックスが、とんでもない状況なのには理由がある。

 先週の火曜日。僕と大槻先輩が電話した夜に、僕はとある頼みごとをしたからだ。

 つまりこの状態は僕が希望したと言っていいかもしれない。

 あ、いや……違う。そうじゃない。

 部屋に入った時は、油や他の臭いが混じり独特の臭いがしていたのに、何故か今は女子から漂う甘い匂いが、いつの間にか密室を充満させており、頭をクラクラさせてくる。

 どうして男子と女子はこんなに匂いが違うのだろうか、不思議だ。


「やっくんも何か歌わないとダメだからね? あ、でも初めてって言っていたよね……じゃあ、一緒に歌ってあげてもいいよ??」


 そう言われても、知っている曲などほとんどない。

 よく美波の演奏を聞いていたから、クラシックなら多少は分かるけどカラオケでは関係ないだろう。

 あとそうすると、知っている曲と言えば――。


 悩んだ末入れた曲は『わたしンち』の主題歌だ。

 抑揚もビブラートも何もない、音程だけが合っている歌声にお情けの拍手を貰ってから、手洗いと言って逃げるように退出する。

 いくら僕でもこの空気には耐えられなかったのだ。


「やっくん、最高すぎるんだけど!! 笑い過ぎてお腹引きちぎれるかと思ったよ!!」


 手洗いから出ると大槻先輩が外で立っていた。着いて来たのかもしれない。

 本当に可笑しかったのか、今も目頭に涙を浮かべている。


「すみません、大槻先輩。知っている曲がなくて、場を白けさせてしまいました」


「えっ? そんなことないから安心していいよ。そ、れ、よ、り――」


 大槻先輩の言う事だから信じたいけど、可視化できるほどの何とも言えない空気をみたら素直に信じることは出来ない。


「他ならぬやっくんの頼みだから聞いたけどさっ、これは大問題になるから貸しだからね? あとで倍にして返してね? 大変なんだぞ、1年生の子たちにサービスし過ぎるのって」


「はい、本当に感謝しています。必ず恩は返します」


「ならオッケー!! あとは私が適当にあしらいながら、やっくんとの誤解も解きつつ、やっくんがどれだけいい男かって、言っておくからやっくんはもう帰っていいよ! むしろ、邪魔だから帰って?」


「……はい、ありがとうございます。失礼します」


「深くは聞かないけどさっ。ビシッと格好良く奇跡起こして来るんだぞっ! あとお土産もよろしくね!!」


 大槻先輩は『邪魔』という厳しい言葉とは裏腹に、優しい笑顔で見送ってくれた。

 心の中でもう一度感謝を伝えてから、この日は帰宅する。

 翌日、この話を聞いた船引先輩から鬼電が掛かってきた話はまた後日。まあ、一応ご機嫌取りの手配だけしておこう――。


 あっと言う間に週末の金曜日となる。

 今週は僕個人としては、班員それぞれと親交を深めることが出来たと思う。

 五十嵐さんは憎まれ口を言いつつも、徐々に心を開いてくれている気がする。

 口は悪いけど、ただの乙女なんだよな。だから憎み切れない。

 まあ、上近江さんを悪く言うのは止めろと言い続けるが――。


 それで、個人としては順調だったが班として見るとまた別だ。

 相変わらず進展することはない。だが後退することもなかった。

 つまり、停頓ていとんしている。

 無理矢理仲良くなる必要などないと思うけど、せっかく同じ班になったのだから楽しい思い出にしたい。


「こう君――。大丈夫かな? 私たちの班……」


「根拠はないけど多分大丈夫じゃない? 美海は心配しないで、当日を楽しみにしていたらいいと思うよ。あとさ、今みたいに話すことは出来ないけど美海と同じ班になれたことは、僕にとって幸いだったかな」


「私もこう君と一緒の班になれたことは嬉しいけど……」


 店を休業して今週の水曜で1週間。そのためすでに営業を再開している。

 そして今は、美海と一緒にアルバイトの閉店作業中で、手が空いた時に美海が不安を吐露とろしたのだ。


 大丈夫だよ。何も心配しないで。全部上手く行くから。


 そう言えたらどんなにいいか。

 僕にもまだ、未来の展望がどうなるか分からないから僕の言葉には何の根拠もない。

 だから美海の不安を拭う事は出来なかった。

 もっと、上手に出来たらいいのだけど、不器用でごめん。

 バス旅行までは1週間を切っている。焦りから不安にも襲われる。

 だが、どれだけ悩んでも時間は止まってはくれない。

 力不足を実感して嘆きはするけど、焦るだけじゃ何も変わらない。

 コツコツ詰め上げるしかないのだ――。


 バス旅行と関係ないことだけど、アルバイトに関しては色々と出来る事が増えて美海の負担は減らす事が出来たと思う。

 美海や新津さん、万代さん、紫竹山さんから積極的に仕事を教わり、キッチンに限って1人立ちを認められたのだ。

 そのため、昨日からホールの仕事も始めており、美空さんからコーヒーの淹れ方も教わっている。奥が深くて楽しくて仕方ない――。


 バス旅行の班決めをきっかけに関くんと話すようになり、五十嵐さんや平田さんとも挨拶をするようになり、大槻先輩がカラオケの時に誤解を解いてくれたおかげで、僕を敵視する女子も少なくなり、いやむしろ仲間意識の意味で好意的な感情を抱かれるようになった。それと、幸介のおかげで男子との交遊も広がった。美波のおかげで一部男子から羨望の眼差しで見られるようにもなった――。


 名花高校に入学して3カ月半。

 幸介以外の人と関わる事がなかった僕からしたら、目覚ましい進歩だと思う。

 小学、中学を含めたら凄まじい奇跡のようなことかもしれない。


 今まで通りに過ごせるように、今までと違う生活をする。矛盾したことだ。

 言っていることは自分でも完全に理解など出来ないが、普通に過ごすって矛盾のようでとても難しい――。


 あの日から2週間と少し。


 限られた短い期間で出来ることはやってきた。


 手を借り、ズルだってしたかもしれない。


 でも、全力で取り組んだ結果は目に見えて確認出来ている。


 慣れないことの連続、さらには寝不足もあって疲労も限界に近い。


 あっという間であったから、これが『充実』というものだったのかもしれない。


 充実がいいものかと聞かれたら、返答に悩んでしまう。


 答えは、今日のバス旅行次第だからな――。


「行ってくるよ、クロコ」


「ナァ~」


 当然のようになった鏡チェックをしてから。

 少し早いが、クロコに挨拶をして家を出る。


「水族館、楽しみだな――」







 ――――今日が分水嶺ぶんすいれいだ。

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