第41話 おとめ心

 静かになったキッチンで1人たたずむ僕は、手持ち無沙汰になったときの癖で時計を確認してしまう。

 現時刻は閉店時間の20時を回っていた。

 つまり店の営業が終了したから、美空さんはキッチンまでやって来たのだろう。

 今それを分かった所で後の始末だけど――。


「とりあえず、出来る所から片付けるか」


 散らばった生ごみを片付け、残り僅かとなっているキッチンの清掃に取り掛かる。

 美海が戻ってくる気配はないが、今は1人の方が都合もいい。

 気持ちを落ち着かせたいからな。

 それにしても体育の授業と言い今日はよく転ぶ日だ。


「まあ、でも……美海が平気でよかった」


 独り言が漏れ出たあと、清掃の手が止まる。


「…………」


 沈黙した理由は思い出してしまったからだ。

 美海を庇い転んだ時、僕は初めて美海を抱きかかえた。

 公園の夜も、つい今しがた抱き着かれた時も、僕から手を回すことはなかったため、知らなかったが――。

 美海は思っていた以上に華奢だった。

 さらに言えば思っていた以上に全体的に柔らかかった。

 不意の事故で余裕などなかった筈なのに、どうしてかよこしまな考えが記憶に残されてしまっている。


「いかんいかん――」


 慌てて振り払い邪気を払うが、今度は不安が襲ってきた。

 嫌だったかな――と――。

 けれど不可抗力とは言え、抱きしめてしまったのだ。

 自分の不安など置いておいて、美海が戻ってきたらしっかり謝っておこう。

 そう心に留め、残りの作業は、雑念を捨て去り、黙々と進めて行く。


 煩悩を打ち払い10分くらい経過したところで、キッチンの閉店作業を完遂させる。

 次にホールの清掃へ移りたいが、まだ教わっていない。

 このままただ待っているのも給料泥棒となってしまうし、美海もしくは美空さんを呼びに行った方がいいかな。

 そう考えた所で姉妹両人が仲良く戻ってきた――。


「聞いたよ、郡くん。美海ちゃんを庇ってくれてありがとうね。郡くんは本当にケガしていない? 大丈夫?」


「いえ。僕は本当に平気なので、そこまで気にしないでもらって大丈夫ですよ。それより、美空さんは僕に何か用事があったように見えたのですが?」


「郡くんが無事で本当によかった。確かにね……郡くんに確認してもらいたいことがあるのだけれど、そうねぇ……」


「お姉ちゃん、こう君がキッチンの清掃終わらせてくれているし、ホールは私1人でも大丈夫だよ。必要ならこう君はお姉ちゃんのお手伝いしてあげて?」


 ホール清掃が手つかずの状況を見て返事に悩ませていた美空さん。

 それに気を利かせた美海が笑顔で提案する。

 個人的にはホールの閉店作業も教えて欲しかったが、明日でもいいかと考え直す。


「美海ちゃんありがとう。じゃあ、郡くん。事務所行こっか」


 美海に謝罪したかったが、言い出せるような空気ではないため後でに考えておく。


「はい、わかりました。美海、ホールの閉店作業は明日教えてね」


「うんっ! 2人ともいってらっしゃい!!」


 自然な笑顔を浮かべる美海に見送られ、美空さんと共に2階事務所でなく休憩室に移動する。


「濡れたままだと風邪を引くから先に着替えよっか。脱いだコック服はここの回収ボックスに入れておいてね。週に2回、クリーニング屋さんが回収してくれるから。あと、良かったらこのタオルも使って」


 どうして事務所でなく休憩室かと思ったが、この為かと納得する。

 夜でも気温が高く、寒くはないが、中に着ているシャツが背中に張り付き気持ち悪かった。だから美空さんの気遣いはとても嬉しい。


「お気遣いありがとうございます」


「いいのよ。じゃあ、私は事務所に居るから着替えたら来てちょうだいね」


 美空さんに返事してから、1度更衣室へ向かう。

 休憩室でコック服を脱いでもいいのだが、万が一2人と鉢合わせることを考えたら、気まずくて仕方ない。

 更衣室でコック服、シャツまで脱いでしまい、借り受けたタオルで顔や体を拭いていく。

 当たり前だけど、着替えの用意はない。

 仕方ないが裸の上からワイシャツを着ることにした。

 そうそう起きることじゃないが、次からは予備のシャツを持ってくることを心に決める。


 休憩室に戻り、コック服を回収ボックス、タオルは洗濯機に入れてから美空さんが待つ事務所へ向かう。

 扉は開いているが、軽くノックしてからそのまま入室する。


「美空さん、お待たせしました」


「美海ちゃんを守ってくれた騎士様なんだから。それくらいいいのよ。それで早速だけれど、これを見た上で郡くんの感想を聞かせて欲しいの。あ、隣座ってね」


 不相応な称号は大袈裟だし体が痒くなりそうなので『騎士様』の部分を聞かなかったことにして、勧められた椅子に着座する。

 そして美空さんが指し示す書類ではなく、パソコンの画面に目を向ける。

 画面に表示されているのは、お店の心臓に等しいBS(貸借対照表)とPL(損益計算書)である。

 これを読み解けば『空と海と。』の経営状態が分かってしまう。

 16歳の、ましてや一介のアルバイトが見る物ではない。


「……美空さん、ただのアルバイトの僕が見てもいいんですか?」


「郡くんならいいかなって。それに私、数字ってあまり得意じゃないのよ。だから変な所があれば教えて欲しいの」


「……僕も資格を持っているだけですし、そんなに分かりませんよ?」


「それでもいいの。ね、お願い??」


 実務など経験ないし、同じ資格を持っている美空さんの期待に応えられるとは思えないけど――。


「分かりました。見るだけ見てみますね」


「ありがとう!! じゃあ、私は棚卸の書類まとめているから、郡くんはこのまま確認お願いね」


 会話もなく互いにパソコンや書類に集中する。

 そのため書類を書き綴る音、キーボードや電卓を叩く音、時計の秒針の音、かすかに聞こえる呼吸音だけが事務所内を支配する――。


 責任など取れないため、断言など出来ないが極端に変な所はない、と思う。

 ただ、限界利益率がギリギリで無駄だと思える箇所がいくつかあった。

 それに――。

 先月までは利益が出ているが今月の客数が継続されると来月は怪しい。

 正直言うと厳しいかもない。

 無駄になっている分を省き、その代わり調子の良いサービス等に回せば効率よく利益が確保出来るし、余裕が生まれることでお客様に還元することも叶うはず。

 そうすれば次第に客数アップへと繋がるかもしれない。


 今週から働き始めたばかりで全てを知っている訳じゃないが、このお店は本当に素敵なお店だ。

 お洒落で落ち着く店内。接客やサービスはもちろん、コーヒーや料理がとても美味しい。

 店内に立派なピアノもあるから、もしかしたら美空さんや美海はピアノが弾けるのかもしれない。

 そう言えば美海はギターが弾けると言っていたな。お店の人に教わったとも。

 それなら、ピアノを使ったイベントでも出来るかもしれない。


 これだけの素材が揃っているなら、やれそうなことはたくさんある。

 まだ熟読した訳でないが、美空さんにいい返事が出来そうだと考えがまとまったところで、書類を書き綴る音が聞こえないことに気が付く。

 そして、いつの間にか僕の後ろに移動して伸びをしていた美空さんに声を掛けられる。


「どうかな? 郡くん」


「僕が見ても変なところはないです。ただ、そうですね……直したら良くなりそうなことがいくつかあると思います。よければ、何枚かプリントアウトしてもいいですか?」


 何1つと具体的なことなど言っていないにも関わらず、美空さんは表情を『パァッ』と明るくさせる。


「本当!? え、どうしたらいいと思うの? 聞かせて! 印刷も大丈夫よ」


「ありがとうございます。持ち帰って考えをまとめた後に、その考えを紙へ落としたいので後日でもいいですか?」


「もちろんっ!!」


 許可を得たためパソコン画面に姿勢を向き直し、プリントアウトの操作を進めるが――。


「郡くん、ありがとうね。お姉さん嬉しい!!」


 改善出来ると知れたことが嬉しいからか、気分を良くした美空さんに抱きしめられる。

 そのせいで僕の後頭部は、豊満な女性特有圧力によって幸せな状況に陥っている。

 僕も思春期男子であるため嬉しい気持ちはあるが、思春期男子だからこそ拒絶したい。

 いい機会でもあるから、今まで感じていた不満というか心配事を苦言と一緒にぶつけようと思う――。


「美空さん、ちょっと離れてもらっていいですか?」


「ごめんね、つい」


 素直に離れてから先ほどまで座っていた椅子に座った。

 時間を気にしたのか、一瞬だけ僕の後ろにある時計に視線を送ったが、すぐに僕と目を合わせてくる。


「美空さん。あのですね……余計なお世話かもしれませんが、美空さんも美海も距離が近いです。2人とも美人な事をもっと自覚した方がいいですよ。やたら異性に触れていたら、勘違いさせます。もしそれで2人が面倒事に巻き込まれるのも心配です。だから距離感を大切にしてください」


「それは……心配してくれているってこと?」


 ほんのり頬を染める美空さん。その美空さんに当然のことを聞かれて、思わず聞き返してしまう。


「えっと、そうですけど……僕が心配したら迷惑でしたか?」


「ううん。心配してくれて嬉しいよ。郡くんはどうして心配してくれるの?」


「どうしてと言われても……」


 ちゃんと理由はあるけれど、それをそのまま口にするには恥ずかしくて言い淀んでしまう。


「美海ちゃんのこと、好いてくれていると受け取ってもいいのかな? そうでないと心配とかしないよね?」


 アルバイトをクビになり落ち込んでいた所、必要だと言って僕を雇ってくれた美空さん。

 僕の過去を受け止め、明日が楽しみと思えるようにしてくれた美海。

 交流は始まったばかりだけど、2人には本当に感謝しているし、幸せになってほしいと思っている。


「…………美海も美空さんも、僕は大切な人だと思っています」


 目を見て言うには、さすがに恥ずかしくなり逸らしてしまう。


「ふふふっ、ありがとう郡くん。とっても、嬉しくて幸せな気持ちになっちゃった! 美海ちゃんはどう? 郡くんの気持ちを聞いてみて嬉しかった?」


 ゆっくりと振り返ると、扉の影から美海が耳を赤く染め、下に俯きながら出て来る。

 美海に聞かれて困る事でないけど、居ない所で話す内容としては恥ずかしい部類の会話だ。

 そのため、いつから居たのか、どこから聞いていたのか、聞いてどう思ったのか気になってしまう。


「えっと、美海。いつからそこに?」


「……お姉ちゃんのことを美人だと言った辺りくらいから――」


 ほとんど全部聞かれている。

 きっと美空さんが後ろをチラッと見た時だ。

 時間を確認したと思ったけど、美海が居たことに気付いた視線だったのだろう。

 美海は盗み聞いた罪悪感からか、恥ずかしいからかは分からないが、目が合うとすぐに逸らしてくる。


「郡くんが美人と言ったのは美海ちゃんに対してもだよ。それで美海ちゃんの感想は? お姉ちゃん聞きたいなぁ~?」


「お姉ちゃんはもう黙ってて。こう君……」


「は~い」


 陽気な声で返事する美空さん。

 今は美海を見ているため想像でしかないが、何となくニコニコしている美空さんが思い浮かぶ。


「美海、僕が勝手に思って言っただけだから。無理して言わなくて大丈夫だよ」


「ううん。聞き耳立ててごめんね。でもね……」


 下に俯き続けている美海を見ながら続きを待つ。

 すると徐々に頭が上がり始め、最後は視線と視線が重なる。


「でもね、その……心配だって言ってくれたことも大切だって言ってくれたことも嬉しかった、です」


 照れながら言う姿から本音で言ってくれたと伝わる。

 さらに恥ずかしいという思いまでも伝わって来て、僕自身までをも恥ずかしい思いが包み込んで来た。

 目を逸らしたくなる衝動に襲われるが、少し潤んだ綺麗な目に吸い込まれてしまい、逸らすことが出来ない。

 凄く甘酸っぱい空気……これがもしや青春の空気かもしれない。

 正しいかどうかは分からない新たな発見に思考を寄せていると、ここで美海の表情に変化が訪れた。


「でも、こう君が何も分かっていないことは不満です」


 不満を言われる心当たりがなく、首を傾げてしまう。


「あ、それは私も不満かなぁ」


 さらに後ろに座る美空さんからも、身に覚えのない不満をぶつけられてしまったのだ。

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