第39話 カフェ『空と海と。』

 この日最後の授業は15時20分に終了する。

 アルバイト出勤時間は17時からのため、少しばかり空き時間が出来る。

 図書室等で居残り続けても構わないが、自宅まではのんびり歩いたとしても10分とかからない。

 そのため午後の授業終了後は、アルバイト前に一度帰宅してクロコのご飯を用意することにしている。

 自宅と学校、アルバイト先の距離が近いことは時間の有効活用も出来て便利だなと感じつつ帰路に就いた――。


「ただいま、クロコ」


「ナァ~」


 先にご飯を用意してから、次にクロコのトイレを掃除する。

 清潔にしておかないと可哀想だし、何より綺麗好きなクロコが怒るからな。

 この後は、普段なら少しだけ寛いだりするのだが、明日は美波が泊まりに来るから、その用意をしておいた方がいい。

 クローゼットから薄手の毛布とシーツを取り出し、洗濯機に入れ洗っておく。

 夏で日も長いし今日は風もある。

 夕方の時間から干したとしても、アルバイトから帰って来るころには乾いているだろう。

 お日様の匂いがするかは怪しいが、急なことだし贅沢は言えない。


 洗濯機が回っている間で部屋全体に掃除機を掛けておく。

 掃除機の音に、不満そうな顔でキャットタワーの上から見てくるクロコに、言い訳をする。


「明日から月曜まで美波が泊まりに来るんだよ」


「ナァ~~」


 嬉しいからか、いつもより語尾が長い。

 人嫌いなクロコだけど、美波のことは大好きだ。

 これでもかってくらい大好きなのだ。

 幸介はクロコに嫌われており、触らせてもらえないどころか何度か威嚇すらされている。

 その幸介とは反対に、美波にはベッタリ甘えん坊なクロコ。

 一緒に暮らしていた頃は、よく膝の上に乗ってご機嫌そうに綺麗な尻尾をゆらゆらと揺らしていた。

 その事実を知った幸介は、『俺の方が付き合いは長いのに!』と、悔しがっていた。


「あと、明後日の朝は幸介とその彼女さんが来るよ」


「――ナァ」


 嫌だけど、取りあえず返事だけした感じかな。

 僕に返事した後は出窓に上り、器用に前足を使って顔を洗い始めた。

 嫌な気持ちを落ち着かせているのかもしれない。


 ――ピーピーピーッ。


 脱衣所から洗濯完了の音が聞こえてきたので、手早く取り出し外に干しておく。

 洗濯を終えた後は、何となくやり切った感が湧いてくる。

 時刻は16時半になるところか――。そろそろ出た方がいい時間だ

 父さんの書斎から予備の伊達眼鏡を取り出し、装着してから玄関へ移動する。


「バイトに行ってくるから、お留守番よろしくねクロコ」


「ナァ~」


 お見送りについて来てくれたクロコに挨拶して家を出る。

 店までの道も何だかんだと、月曜から毎日通っているから慣れた足取りで迷うことなく歩き進め、大した時間も要さずバイト先に到着する。

 裏口から建物に入ると、見覚えのない2人組と鉢合わせる。

 昨日は会う事が出来なかった従業員かと考え先に挨拶をする。


「初めまして。今週からアルバイトとして雇ってもらった『八千代やちよこうり』と言います。よろしくお願いします」


「おっ、これはご丁寧に。俺は『万代ばんだいしずく』、よろしくな! 特別に八千代は『雫さん』って、呼んでくれていいぜ!!」


 自己紹介が終わると同時に手を取られ、上下にブンブンとしながら握手される。

 万代ばんだいさんは、女子大生が着ていそうな可愛らしい服装をしているのに、男性のような口調にパワフルな動きだ。

 これはギャップなのか? と、疑問が湧いてくる。


「しーちゃん、メッ! いきなり手を握ったりしたら、八千代さんも驚いちゃうでしょ?」


「ごめん、ごめん!」


 素直に注意を受け、あっけらかんと謝罪しつつ手を離してくれる。


「改めまして。私は『紫竹山しちくやまかおる』と申します。紫竹山しちくやまですと、長くて呼びにくいでしょうから、気軽に『香さん』と、呼んで下さいね? どうぞ、お見知りおきを」


 万代ばんだいさんに注意してくれた紫竹山しちくやまさんは、上品に柔らかな口調で自己紹介してから綺麗なお辞儀をしてくれた。

 ただ、何ていうか……いかにも『バンドやってます!』といったようなパンクな服装だ。

 先ほども感じた疑問が再度湧いて出て来たため、混乱してくる。


万代ばんだいさんと紫竹山しちくやまさんですね。ご迷惑お掛けするかもしれませんが、頑張りますのでよろしくお願いします」


「「…………」」


 僕がした返事に不満なのか、2人揃って明後日の方を見てしまった。


「えっと……あの?」


「「…………」」


 やはり返事はない。しかも先ほどより、さらに横に首が向いた。痛くないのかな――。


万代ばんだいさん? 紫竹山しちくやまさん?」


「「…………」」


 何に対して不満なのか察することが出来ず、もうお手上げだ。

 今は横というより、首が後ろまで回りそうな勢いだ。

 痛くないのかな? と、同じ疑問が湧いたが、それよりも2人の後ろに現れた人に僕は目が釘付けだ。

 何せその人は両手に大きなハリセンを構えているのだから――。


「イッッッツァーーーッ」

「イッッッタァ~~~イ」


 綺麗に『バチコーンッ』。

 いや『バッチーンッ』。

 どちらか定かじゃないが、気持ちがいいくらい見事な音が響いた。

 紙で作られているように見えるから、そこまで痛くなさそうにも見えるけど、ハリセンで叩かれた2人は、頭を押さえ一斉にしゃがみ込んだ。


 ギャップ溢れる2人にハリセンをお見舞いした人は、昨日挨拶を交わした『新津にいづさん』だ。

 その新津にいづさんに挨拶すると、今度はしゃがみ込む2人を挟み込むように美空みくさんと美海みうが、怖い意味で満面の笑みをして現れた。

 万代ばんだいさん、紫竹山しちくやまさんを4人で取り囲むさまは、何か儀式の様にも感じる。

 ただこの場には、従業員が6人集まっている。

 僕が知る限り、他に従業員はいないはずだけどお客様は平気なのだろうか。

 万代ばんだいさん、紫竹山しちくやまさん2人を見おろしながら考えていたら、回復した2人が立ち上がった――。


「この、新妻にいづまや!! 何すんだよっ!!」

「そうよ、真弥まやさん! 凄く痛かったのよ?」


 本当に息ぴったりな2人だ。揃って新津にいづさんへ不満をぶつけ始める。

 だがそんなことよりも僕は気が気じゃない。

 昨日新津にいづさんから教わった禁句を、万代ばんだいさんが口にしたのだ。

 万代ばんだいさんが言った『新妻にいづま』とは、新津にいづさんを表している。

 新津さんの名前は『新津にいづ真弥まや』。

 フルネームを繋げて呼ぶと『新妻やにいづまや』になる。

 僕はそのことを、遠い目をした本人から自虐的に教えてもらっていた。


 ――けして呼んだりしないでね?


 と。

 さらに詳しく説明を受けたが、どうも最近おめでたいことに結婚して苗字が新津に変わったと。さらに新婚でもあり新妻でもある。

 結果、バイトの1人が面白おかしく揶揄ってくるとぼやいていた。


 ――美空さんから八千代君はとってもいい子って聞いているからね?


 と、念押しまでされている。

 その時の圧力に身の危険を感じた僕は、呼んだらどうなるかと好奇心もあったが、絶対に呼ばないと心に誓った。

 そして、万代さんのおかげでケガなく好奇心を埋めることが叶った。

 本当に、呼ばなくて良かった――。


「どうして2人は八千代くんのことを無視しているのかな? かなぁ~? そ、れ、に、ね? 私のことは新妻と呼ばないように散々お願いしたはず何だけどなぁ~、おかしいなぁ~~?? しずくはまだ分からないのかなぁ~~?? ちゃんと脳みそ詰まってる?」


「いや、だって、八千代が俺のこと『しずくお姉さま』って呼んでくれないから!!」

「私のことも『かおる姉さん』って呼んでくれないのよ? それとね真弥まやちゃん……私巻き添えよ!?」


「誰が呼ぶかぁっ!!」


 僕の気持ちを代弁するかのように、新津にいづさんは突っ込みと同時に再度2人の頭にハリセンを叩き込んだ。

 これによって、せっかく立ち上がった2人だったが、また頭を押さえしゃがみ込んだ。

 巻き込まれている紫竹山しちくやまさんを不憫ふびんに思いつつ、何だかモグラ叩きみたいだなと呑気な感想を抱いていると――。


「こう君ごめんね。2人とも良い人ではあるんだけど……」


「郡くん、この2人はとっても『残念』な子たちなのよ。だから、あまり気にしなくていいからね」


 言い淀む美海だったが、美空さんがハッキリと補完する。

 ただまあ、何も驚くことはない。残念なことなど見るからに分かる。

 男性が守ってあげたくなるような可愛らしい顔立ちをしている万代ばんだいさん。

 ボーイッシュで綺麗な顔立ちをしている紫竹山しちくやまさん。

 見てくれだけなら、2人揃って美形なのだ。

 だからこそ残念なのかもしれない――。


「……改めて、美空さん新津にいづさんおはようございます。美海もね」


「「「おはよう」」」


 恨めしそうに僕を見てくる2人。

 仕方ないと思いつつ、2人からされた初めの自己紹介を思い返す。


しずくさん、かおるさん遅くなりましたが、おはようございます」


「あぁ、八千代! おはよう!!」

「八千代さん、おはようございます」


 2人は『バッ』と立ち上がり、僕へ向き直して、ようやく挨拶を返してくれた。

 何てことない。2人は、名前で呼んでと言ったのに僕が苗字で呼ぶからふて腐れていたということだ。


「まぁ、なんだ。次からは八千代の好きに呼んでくれていいからな!!」

「そうね、無理強いは良くないですからね」


 いいのかよと言いたい気持ちをグッと我慢する。

 個性的な2人のおかげで、アルバイトが始まる前から少し疲労を感じていると、美空さんと美海が僕には分からない合図を、万代ばんだいさん、紫竹山しちくやまさん、新津にいづさんに送った。そして――。


「「「「「ようこそ、カフェ『そらうみと。』へ」」」」」


 全従業員から、綺麗な声と素敵な笑顔で歓迎される。

 この歓迎は、とても嬉しいけどすこぶる恥ずかしい。

 そのため、思わず右手が左の首へ伸びてしまったところで美海と目が合う。

 小さく口角を上げてから、僕に伝えるためなのか読み取れるように、ゆっくりと口元が動く――。


 ――てれやさん。


 と。

 声には出ていないけど確かにそう言われた気がした。


「ふふっ。こう君、早く着替えておいでよ。そしたら一緒に働こっ」


 美海がそう言ったところで、来店を知らせる鈴の音が聞こえてきて、ちょっとしたサプライズとなった僕を歓迎する会が終了となったのだ――。

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