第36話 鼻血に驚く養護教諭?

 今日最初の授業となる体育の前準備として、体操着に着替えなければならない。

 そのため、ホームルーム終了後は少し急がないと間に合わない。

 そう考えていたが、ありがたいことに古町ふるまち先生は少しだけ早くホームルームを終わらせてくれた。


 着替えを済ませ、準備運動として体育館の中をぐるぐるとランニングしている最中、ホームルームで説明された話を思い出す――。


 話の中心は来月あるバス旅行についてだった。

 実施日は7月20日。場所はバスで約2時間走った所にある水族館。

 目的となる水族館は昔、水中すいちゅうトンネルで一躍有名となっているためクラスメイトのほとんどが見学済みだ。

 そのため不満が出るかと思ったが、何かを学ぶというよりは遊びに近い感覚だからか、楽しみな気持ちの方が強いように見えた。

 僕個人としては、水族館は未体験であるから純粋に水族館自体を楽しみに思っている。


 ただし、5人グループで水族館を回ることになる。

 自由に好きな人や友達同士で組めるのか、くじ引き等でグループが決まるのかは不明であるが、どちらにせよ1人で回ることは出来ない。

 そのことだけが少し憂鬱ゆううつかもしれない。

 自由にグループを組める場合、幸介こうすけや……美海みうと組めたら最高に楽しいバス旅行になるだろう。

 まあ、2人とも人気者だから無理な願いかもしれない。


 幸介は友達が多い。普段一緒に過ごしている分、こういったイベントのときくらい幸介から離れないと普段の生活にも影響が出てしまう。幸介は物じゃないが、独占禁止法みたいなものだ。

 美海に関しても、ホームルーム終了してすぐにせきくんから誘われていた。

 きっと――。まだまだ美海と一緒のグループになりたいと考えている人はたくさんいるだろう。

 こちらも、僕が出しゃばったりしたら普段の生活に影響が出てしまう。

 だからやはり、2人一緒に水族館を一緒に回ることは無理な願いだろう――。


「イッ――」


 考え事しながら走っていたせいで、派手に転んでしまった。


「……ふん。ちゃんと靴紐結ばねーから転ぶんだっつーの」


 なるほど。よく見ると靴紐が解けている。

 そしてどうやら、その解けた靴紐を長谷はせに踏まれて転んでしまったみたいだ。

 もしくは踏まれたことで解けたのか――。


「大丈夫か、郡? ほれ」


 転んだ拍子でどこかに吹き飛んでいた眼鏡を幸介が手渡してくれる。


「ありがとう、幸介」


「つか、あいつ――」


「いや、いいよ幸介。わざとじゃないみたいだし放っておいて平気。余計な騒ぎ起こしたくないしさ。それより、ちょっと保健室行ってくるから先生に伝えておいてもらってもいいかな?」


 先生は準備すると言って体育館倉庫に入ったきり戻ってきていない。


「いいけど……保健室まで付き添うぞ?」


「大したことないから平気だよ。気持ちだけ受け取っておく、ありがとう」


 納得いかない表情する幸介に『先生にお願いね』と念押ししてから、早足で体育館の外へ向かう途中、嘲笑ちょうしょうするような『クスクス』と笑い声が聞こえてきた。

 普段なら気になど止めたりしないが、今日はどうしてか凄く恥ずかしく感じてしまった。

 いや、嘲笑されたことに対してではないな。

 恐らくだけど……美海に見っとも無い姿を見せたことが恥ずかしくなったのだと思う。

 ずっと願っていた内面の変化に喜ぶべきことかもしれないが、何とも複雑な気分だ――。


 エレベーターに乗り込み、保健室がある8階のボタンを押すと鼻から水のような何かが伝わってくる。


「鼻血か――」


 床に垂らさないように慌てて上を向く。受け身も取らず顔面から転んだから、鼻を打ち付けていたのだろう。実感したからか今さら痛みにも気付く。

 8階に到着したエレベーターから降りて、恐る恐る下を向くが……幸いにも垂れ落ちるほどの量ではないようだ。

 とりあえず眼鏡は邪魔なので外しておく。

 それと念のため、斜め上に顔を上げながら壁伝いに歩き進む。

 保健室を利用することも初めてだし8階は2年生の教室が並んでいるため、ただでさえ緊張するのに、鼻血のせいで余計に嫌な緊張の汗が背中を伝わる。


 どうにか無事に辿り着いた保健室の扉をノックする。

 見上げている先に見えるプレートには、『五色沼ごしきぬまともえ』と書かれている。養護教諭の名前だろう。

 ノックの返事があったため、そのまま入室すると、椅子に座る白衣を着た女性の姿が目の端に見えた。

 恐らくこの人が五色沼先生だろう。と、確認すると慌てた様子で駆け寄って来てくれる。


「……ありえないです。赤です? 見せるです。早くかがむです。真っ赤です。鼻血です? 久しぶりです」


 言われた通り屈んだ僕の顔を、五色沼先生は物凄く至近距離で見てくる。ガン見と言ってもいいくらいに。

 そこまで真っ赤だと驚くほど血は出ていないと思うし、鼻血も珍しくないと思う。

 小学生と比べれば、珍しいのかもしれないが驚くほどじゃないだろう。


「止まってるです」


 やはり大した量ではなかったようだ。

 養護教諭の言葉に安心し、上に向けていた頭をゆっくりと下に向ける。


「本当ですね。すみません、手を貸していただきありがとうございました」


「気にしないです。体操着です? 転んだです?」


「はい、考え事をしていたら解けた靴紐に気付かず転んでしまいました」


「おっちょこちょいです。おしぼりです。顔を拭くです」


「ありがとうございます。お借りします――」


 受け取ったお絞りは使い捨ての薄いものであったが、冷たくて気持ちが良かった。

 夏だから冷やしてあったのかもしれない。

 鼻血を拭き終えると、ビニール手袋を装着した五色沼先生にお絞りを回収された。


「すみません、ありがとうございます」


「勤めです」


 落ち着いたところで、五色沼先生を見て気付いたが――。

 古町先生や女池めいけ先生と同じくらい綺麗な人である。

 いや、というか、先生に見えない。

 もの凄く若い。童顔? とは違うようにも思うが、とにかく若い。

 それに何だろうか、ひと言で感想を言えば『はかない』。

 そんな雰囲気をもった美人な先生だ。 

 顔色が青白く見えるし、たれ目気味な目元とその下にある泣きぼくろ、地面まで届きそうなほど長い、そして黒い髪がそう思わせるのかもしれない。


「書くです。新顔です。1年生です?」


 手渡されたのは保健室利用帳で、クラス、氏名、利用理由、体温を記入する欄がある。

 五色沼先生に『1年生です』と、返事してから受け取った保健室利用帳に記入して返却する。

 受け取った保健室利用帳を見た五色沼先生が、驚いたように顔を上げて僕の名前を確認してくる。


「貴方です? 八千代やちよくんです? こうりくんです?」


「え、はい。そうですけど」


「なるほど、です……見つけたです。熱測るです」


 何に納得したのか聞き返したいが、先に熱を測ることにする。

 散らかっている机の上に、体温計が見えたので借り受けるつもりで手を伸ばす。


「体温計をお借りし――」


「測るです」


「えっと……」


 五色沼先生は僕の手首を掴み、さらにもう片方の手の掌を僕のおでこに当ててから順に、耳たぶ、頬、首へと触れてくる。

 養護教諭だからかもしれないが、様になっている姿が綺麗で、つい見入ってしまう。

 けれど五色沼先生は美人な女性だ。

 そのため普通の生徒がこんなことされたら、逆に熱が上がってしまいそうだと余計な感想が出てくる。


「あの、五色沼先生? 体温計があれば借りたいのですが」


「はいです? 測り終えたです。大丈夫です。脈も問題ないです」


 脈は関係あるのかと思ったけど、先ほど返却した保健室利用帳の体温記入欄に36度5分と記入される

 僕の平熱は35度台だから、少し高いかもしれない。


「今ので体温が分かるんですか? 凄いですね」


「慣れです。測ってみるです」


 机の上にある、脇の下に挟み測るタイプでなくて、おでこにピッと当てて一瞬で測るタイプだ。どこから取り出したのだろうか。

 自信があるのか自分で確認もせず、文字通り一瞬で測り終えた体温計をドヤ顔で見せてくれる――。


 35度6分。うん……全然違う。平熱中の平熱だ。


「……」


 僕が黙っているから不思議に思ったのか、首を傾げながら体温計を目元に寄せた。

 目が悪いのか、体温計と目がくっ付きそうなほど近い。


「壊れているです。それか不良品です」


 そう言ってポイッとごみ箱へ放り込む。


「…………」


「どちらにしてもです。問題ないです。ところです。私綺麗です?」


 夜道を歩いていたら大きなマスクを付けた女性に質問されてしまいそうなことを、脈絡もなく問われた。

 いろいろと突っ込みたいが、我慢して返事を戻す。


「……えっと、それは女性としてってことですか?」


「はいです。綺麗です? タイプです?」


「そうですね、お綺麗なことは間違いないですが……僕は恋愛とか分からないので、タイプと聞かれても答えるのが難しいです。すみません」


千代ちよくん……腐れ花くさればなです?」


「すみません、言っている意味がよく分かりません」


 まあ、何となく悪い言葉ということは分かったが。


「分かったです。千代くん、授業戻るです。私限界です」


「あ、はい。五色沼先生、色々とありがとうございました」


 退出しようと思ったが、思い出したかのように待ったが掛かる。


「そうです。待つです。千代くん、困っているです?」


「え、特にはありませんが?」


「ならいいです。千代くんの味方です。覚えておくです」


「よく分かりませんが、ありがとうございます」


 僕の名前は『千代ちよ』でなく『八千代やちよ』なんだけどな。

 五色沼先生とのやり取りで訂正する気力もなくなったため、お辞儀してから保健室を出る。

 気のせいかもしれないけど、扉を閉める時にベッドへ移動する五色沼先生の姿が見えたので、心の中で『働け』とだけ念じて置いた――。


「それにしても不思議な先生だったな」


 独特の雰囲気を持っていて、変わった人でもあった。

 僕のことを知っているような口ぶりも気になってしまう。

 それでもやっぱり――。


「不思議な先生だったな」


 最初に抱いた『儚げな美人』から、随分と印象が変わってしまったのだった。

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