第34話 クロコ

 ワタクシの名前は『エリー』。

 金色に輝く目と、長くすらっとした尻尾に艶やかな黒い毛並みを持ち合わせていますわ。

 自慢ですのよ?

 ご飯も美味しくて、部屋も広々としていて、毎日のようにブラッシングまでされるお嬢様のような生活ですわ。

 それでしたのにワタクシとしたことが、ひらひらと舞う蝶々に夢中になってしまい、あれよあれよと気付いた時には野良猫となっていましたの。

 汚らしいオス猫に追われ、メス猫の縄張りに入ると本気の殺意を向けられ、逃げまどい泥水をすすって飢えを凌いでおりましたの。

 今までの生活と真逆の生活に困惑する余裕などなく、もう全力でしたのよ。

 ですが、もう限界かもしれませんわ。

 すでに3日、何も食べられておりませんの。

 お腹がすきすぎて、胃液すら出てこなくなってしまいました。

 もう、ダメです。

 最後の力を振り絞りオス猫から逃げ切りましたが、逃げ込んだ家の庭先で倒れこんでしまいました。すでに起き上がる力は残されておりません。

 全く手足に力が入らないのです。

 意識もはっきりせず、まだ生きているのかどうかも段々と分からなくなってきました。

 先ほどまで熱かった体も不思議と今は寒くなってきております。

 ですが、温かい何かに包まれました。

 あぁ、お迎えがきたのかもしれませんわね。

 最後は、大変な目にあいましたが全てはワタクシが招いた結果です。

 潔く天に召されましょう。

 ですが、願いが叶うならば――。

 今世の生では、兄弟姉妹と離れ離れとなってしまいましたが来世では、せめて弟が欲しいですわね。頼みましたわよ?


 あぁ、いい猫生でした――――――――――。


「もう一晩様子を見ますが、もう大丈夫でしょう。明日には退院できますよ」


 あれ――?


「よかったわねぇ、郡!! 猫ちゃん、もう大丈夫みたいよ」


「ほんとうに?」


 あれれ――?


「ええ、先生が猫ちゃんのこと治してくれたのよ? ちゃんとお礼言いましょうね」


「せんせい! ありがとうございますっ!!」


 あれあれあれ――?


「間に合って良かったよ。君がこの子を連れてきてくれなかったら、先生も助けてあげることが出来なかったからね。偉い偉い」


 もしかして生きている?


「この子がお家にきたら、名前つけてあげようね、郡」


「うんっっ!!!!」


 ワタクシは助かったのかしら。

 まだはっきりとは分からないですが、どうやらこの坊やが助けてくれたみたいですね。


 ――それでは、また明日同じ時間にきてください。


 と。

 ひと際大きな雄がそう言うと、坊やと大きな雌がどこかへ行ってしまわれましたわ。

 ワタクシも色々と確認がしたいところですが、まだ瞼も体も重く感じて動けそうにありませんわ。

 地獄のような飢えも今は感じませんわね。

 今は気持ちがいいくらい温かいですし、このままもうひと眠りしてしまいましょう。

 先生と呼ばれていた大きな雄と雌の会話を信用するなら、目が覚めるころには、あの坊やも迎えにきてくれるはずです。

 想像していた弟と少しだけ違いましたが、早くも願いが叶いそうで楽しみですわね。

 どなたか分かりませんが、叶えていただいたことに感謝致しますわ。

 ワタクシ、あの坊やを大切に育てて見せますわ。

 そして今度は――、

 蝶々に気を付けます、わ――――。


「クロコっ! くろくてかわいいいこだから、クロコにするっ!!」


「ナナァ~、ウナァ~~」


 違いますわっ、ワタクシの名前は『エリー』と言いますのよ? 

 分かりまして?


「郡に名前を付けてもらえて、クロコも喜んでいるわね」


「ウナァ~~~~」


 大きな雌! おだまりなさいっ!!

 クロコなんて安直な名前は認めることができませんわ!!

 それに気付いたら大切な所が……縫われておりますわ。

 なんて、なんて……ことを。

 レディに対して酷いことをしてくれましたの。

 あぁ、ワタクシはまだ経験がないのに。

 ワタクシの訴えも空しく『エリー』と呼んでもらう事は叶わず。

 坊やからは、


 ――クロコ~?

 ――クーロコッ!!


 と、呼ばれ。大きな雌からは、


 ――クーちゃん?


 と、呼ばれ。あまり家にいない大きな雄からは、


 ――クー??


 と。

 ワタクシの名前は一体いくつあるのかしら。

 撫で方は好き勝手乱暴でブラッシングもほとんどないですし、ご飯ですら前と比べる事もできませんわ。

 そんな生活でもしばらくすると多少は慣れてきて、ワタクシにも仕事ができましたわ。


「あしたはパパとママとおでかけだから、はやくおきないとなんだっ、クロコ!」


「ナァ~」


 ワタクシはどうせお留守番。

 でも、ワタクシにも楽しみがありますから大丈夫ですわ。


「だからクロコ、朝寝坊しないように起こしてね?」


「ナァ~」


 仕方のない坊やですわね。

 坊やのことですから、起こしてもすぐに起き上がりそうにもありませんから。

 念のため、少しだけ早めに起こしてあげますわ。

 坊やたちを見送った後はワタクシも殿方とお会いする約束がありますので、ご機嫌ですの。

 だから坊やの我儘を聞いてあげますわ。

 坊やが頼んだことですから、これからは毎朝起こしてさしあげますわね。


 ワタクシが仕事を始めてからしばらくすると、大きな雄と同じようにワタクシも家にいる時間が減ってしまいました。

 最近は大きな雄と大きな雌が大きな声でいがみ合っております。

 坊やもワタクシの名前を呼んでくれなくなりましたわ。

 いえ、決して『クロコ』という名前を認めた訳ではありませんのよ?

 でも、坊やがワタクシを呼ぶ声にはしっかり愛情が込められておりますの。

 だから仕方なく。

 仕方なく坊やに呼ばれた時だけ返事をしてあげていたのですわ。

 ですけど、坊やは私のことを忘れてしまったようなので、ワタクシは姉離れと思う事にしたのです。

 家の中もうるさいですから抜け出して、白い毛並みの素敵な殿方と密会を重ねておりましたの。

 ですがある日――。


「クロコ」


 坊やが久方ぶりにワタクシの名を呼んでくれましたの。

 殿方とお会いする約束でしたが、少しだけ坊やのお相手をしてあげることにしました。

 決して、嬉しかったからではありませんことよ?

 あれ?

 坊やのワタクシを撫でる手がいつもより丁寧ですね。

 今までで一番気持ちがいいかもしれません。

 なのに――。

 とても気持ちが悪い。愛情が全く伝わってきません。

 どうしたの、坊や?

 これだったら多少乱暴でも、前の方が良かったですことよ?

 不満を訴えるため、喉を鳴らして坊やを見ると――。


 本当に、どうしたの坊や?

 なんでそんな顔をしているの?

 前みたいにワタクシに笑いかけてちょうだい。

 ね、お願い?

 今でしたら特別に怒っている顔でも許してあげますわよ?

 だから、ね?

 お願い、坊や。

 お願いだからそんな能面のような顔をしないで。

 ワタクシ、坊やの笑っている表情が大好きなのよ?

 内緒でしたけど、ころころ忙しく変わる顔も愛おしく思ってましたのよ?

 もしかして私が他の殿方にうつつを抜かしていたから怒っていますの?

 謝りますから、ね?

 お願い。笑ってちょうだい、

 郡っ!!!!


「ナァ~」


「いいよ、いつもみたいに遊んでおいで」


 行かないわ。もうどこにも行かない。


「ナァ~」


「ほら、かっこいい彼氏が見ているよ」


 彼のことはもういいの。それよりもっ!!


「ナァ~」


「なんだ、クロコ。今日は甘えん坊さんだね」


 そうよ。郡は特別。

 ワタクシのことはクロコと呼んでいいですから。


 ――ガッチャーン。


 大きな物音にビクッと驚いてしまい、思わずその場を離れてしまいました。


「また始まったみたいだね。ほら、今のうちにクロコもお行き。母さん、この後は僕の方にくるから」


 嫌ですわ。もう郡の傍から離れない。

 ワタクシがずっと近くにいてあげますから、そんな泣いた顔をさせないで。


 ――ガチャッ。


 扉が開くと大きな雌が現れて、恐ろしい顔で郡のことを見ています。

 ですが、一転して気持ち悪く笑みを浮かべ――。


「そうよぉ、郡。貴方は笑ったり泣いたりしてはダメよ? あんな人の顔そっくりでも、余計な表情がなければ目元は私に似ているんだから」


「はい、母さん」


 大きな雌ッ!!

 お前のせいかッッ!!!!

 ダメよ、郡。聞いてはダメ。ワタクシが守ってあげるわ!!

 訴えも空しく大きな雌に威嚇をしてしまったから、郡に持ち上げられ部屋から追い出されてしまいました。

 でも諦めませんよ。

 これからは、ワタクシが郡のそばにいてあげますから。


「もう、放っておいてよ。クロコ、しつこい」


 ええ、ワタクシはしつこいのです。ワタクシも知りませんでした。

 例え嫌われたとしても、郡がまた笑えるまで一緒に生きてあげますわ。


「どっか行ってよ。1人にさせて」


 嫌です。行きません。

 郡はワタクシの命の恩人なのですから。


「どうして、いつも傍にいてくれるの?」


 何を馬鹿なことを。

 郡が辛い時は傍に居てあげたいだけですわ。

 ワタクシは郡のお姉ちゃんですから。

 ワタクシが郡の傍に居たいだけですわ。

 郡はワタクシの大切な弟なのですから。


「クロコ、僕ね。今日友達ができたの」


 あらあら、そんなに嬉しそうにしちゃって。

 良かったわね、郡の良さを知ってくれる人に出会えて。お姉ちゃんもとっても嬉しいわ。


「クロコのおかげだよ。いつもありがとう」


 いいのよ、だってお姉ちゃんですから。


「今度、紹介するね」


 ええ、楽しみにしておりますわ。

 ワタクシの弟をよろしくお願いしますと、言ってあげないといけませんわね。


「クロコは僕の大切な妹だよって」


「ウ、ナァ~~~~」


 違いますわっっ!!!!

 ワタクシがお姉ちゃんで、郡が弟ですわ!!

 体は少し大きくなりましたけど、貴方はまだまだ弱虫なんですからね。

 表情には出ていませんが、ワタクシには見えていますからね?


「そうだったね、クロコは大切な。頼りになるお姉ちゃんだって紹介するね」


 か、揶揄いましたわね!?

 生意気に育っちゃって、でも――。

 楽しみにしていますわね、ワタクシの大事な弟で大切な郡。


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