第28話 捨てる神あれば拾う神あり。

「これで2枚目だねっ」


「ええ、そうですね」


「ふふっ、一緒に並ぼっ」


 誕生日ケーキを4人で食べ終えてすぐ、美空さんの提案で記念に写真撮影をすることになった。

 撮影係を立候補するも、あっさりと却下される。

 撮影には美空さんの携帯電話を使用して、タイマー機能を活用するみたいだ。

 配置は僕と上近江さんを真ん中に、大人2人が両端となる。

 主役である古町先生を真ん中にした方がいいのでは?

 と、思ったが、上近江さん、さらには主役の古町先生に真ん中へと誘導されてしまった。


 クラスメイトが知ったら羨む状況について正直に今の気分を述べよと言われたら、気分としては美女美少女に囲まれて、落ち着かないと答えるだろう。

 時間の経過とともに、慣れ、もしくは麻痺したのか、多少は平気となったが、やはり落ち着く事が出来ない――。


 3人のファンからすれば、この上ない羨ましい状況だろう。

 万が一にも、今の状況を見られたりしたら刺される恐れもある。

 上近江さんと撮った写真も見られないよう重々気をつけよう。

 僕が現実逃避をしている間に撮影が終わり、美空さんからメールが届く――。


 上近江さんと美空さん、古町先生の3人はとてもいい笑顔で、写真からでも楽しそうな雰囲気が伝わってくる。

 もしも僕が写っていなかったら、もっといい写真になったかもしれない。

 3人の中で、場違いなほど浮いている自分の写真を見て自虐的に考えてしまう。

 だが今は楽しい場だ。僕の感情など後回しにしなければならない。

 暗い気持ちを振り払うかのように頭を振り、3人へ声を掛ける――。


「せっかくなので、3人だけの写真も撮りますよ」


 僕がそう言うと『お願いね』と美空さんから携帯を渡される。

 慣れない手つきで、何とかぶれることなく撮り終え携帯を返す。

 今撮った写真を3人が見ている間に、上近江さんと2人、表で撮影した写真と出汁巻き玉子の写真を送信しておく。

 その流れで携帯に表示された時間を確認する。時刻は20時を過ぎたところ。

 中々いい時間であるが、まだ余裕はある。

 今帰ればクロコが怒ることはないかもしれない。

 だがそれは上近江さんとの約束を反故にすると意味するので、諦めて怒られる未来を選ぶ。


「美海ちゃん、郡くん。今日はありがとうね。後片付けもそんなにないし、もう少しだけ美緒ちゃんとお喋りして帰るから、2人は先に上がっちゃって大丈夫だよ。郡くん、美海ちゃんのことお願いしてもいい?」


 すでに外も暗い時間。上近江さんの自宅はすぐそこと言え、1人帰らせるのも心配であるため了承する。

 美空さんのことだから、僕と上近江さんに話す時間を作ってくれたとも考えられるが。


 2階に上がり、順番に更衣室で着替えを済ませる。

 最後に美空さんと古町先生に別れの挨拶を交わして、店を後にする。


「色々あったけど、楽しかったね!! 八千代くん!!」


 上近江さんの少し後ろを歩き、緑と花の蔦のトンネルをくぐっていると振り向きざまに言われる。


「そうですね。とてもいい時間でした。ところで、上近江さん……どちらに?」


 裏道を使うなら、お店の裏側を経由する。

 それなのに今は正面を歩き進んでいるため、疑問をぶつける。


「ねぇ……八千代くん?」


「はい」


 分かっている。朝のことについてだ。

 謝罪を交わし、写真を撮ったことで仲直りは果たした。

 でも上近江さんはそれで満足していないのだろう。


「時間、いい……よね?」


「……はい」


 話せるかも分からないのに了承してしまう。

 情けないが――。

 古町先生、それに美空さんから背中を押されているにも関わらず、決心が鈍る。

 どうしても『このままでも十分楽しいのでは?』と、考えてしまう。


「……公園行きたいな」


「……僕もそんな気分かもしれません」


「うん」


 上近江さんが寄って来たため、僕より少し低い位置にある右腕と、それより少しだけ高い位置にある左腕が、触れるか触れないかくらいまで距離が縮まる。


 ――夜なのにまだまだ暑いですね。

 ――古町先生喜んでくれて良かったですね。

 ――楽しかったですね。


 など、他にも話すことはたくさんあるはずなのに、沈黙を維持したまま公園へ歩みを進める。

 僕と上近江さんの間に、気まずい空気は全くない。

 かと言って、居心地のいい空気が流れている訳でもない。

 これから話したり、聞いたりする内容が明るい話題でないと分かっているから――。


 公園までは歩いて10分弱くらい。

 それまでには、決めないといけない。

 話すか話さないか。踏み込まれるか拒絶するのかを。


 今にして思えばたった3日だ。

 月曜から話すようになり、今はまだ水曜日。

 たった3日……それなのに、話すことが怖い。

 気味悪がられることも、嫌われ拒絶されてしまうことがとても怖く感じてしまう。

 そう感じてしまうのは、今まで笑い掛けてくれていた人が態度を一変させて、自分の全てを否定する可能性を考えてしまうからだろう。

 こんなに弱くなってしまうとは。

 こんなにも深く入り込まれるとは思ってすらいなかった――――。


 高校生で1人暮らしをするのにはそれなりの理由がある。

 僕が小学校に上がるくらいから、両親の仲は険悪だった。

 顔を合わせれば言い合いの喧嘩が始まり、家のどこにいても喧嘩の内容が聞こえてくる。

 やがて母は、父そっくりな顔をした僕を嫌い始めた。

 笑うことも、泣くことも許されなかった。

 ただ唯一、ややつり目な形だけが、母から譲り受けていた。

 そのためか理由は定かじゃないが、僕が無表情でいる間だけは母に怒鳴られる事が少ないと、幼いながらも気付くことが出来た。

 だから僕は、母さんにまた僕を好きになってもらいたくて、いつも無表情でいるように過ごしていた――。


 そうして3年過ごすうちに、家の中に静寂が訪れた。

 父や僕と顔を合わせたくないから、母がほとんど家に帰ってこなくなったからだ。

 僕の願いは、母さんが嫌っていたシャボン玉のように、儚くも叶わず散ったということだ。

 今となってはそれが理由か分からないが、この頃の僕は表情だけでなく声から抑揚も無くなった。

 さらに言えば、感情すらも抜け落ちた。いや、『落とした』のだ。

 感情を失くすことで、無意識に心を防衛したのかもしれない――。


 だけど、僕が感情を失うことはなかった。

 唯一、僕の傍に居続けた存在のクロコ。

 僕が4歳のころから一緒に育ってきたクロコがそれを許してくれなかった。

 もしもこの時にクロコが居なかったら、僕は感情を取り戻すことは叶わなかったかもしれない。


 その後、僕が10歳になると両親は離婚して、僕は父に引き取られ、母は自分の生まれ育った町に戻っていった。

 ここまでは多い話ではないが、全くない話でもないと思う。


 その3年後、父が再婚して僕に義理の母親と妹の家族が増えた。

 義母の光さんは、僕を避ける雰囲気があったけど実母のようなことにはならず、お互い適度な距離感で過ごすことが出来たと思う。

 義妹の美波とは、コミュニケーションを取るのに苦労したが、一緒に過ごす時間が増え、義兄として少しは慕ってくれていたと思う。

 そんな感じで、小学生の時とは比較にならない穏やかな生活を過ごしていたが、中学卒業間近の2月、不幸が起きた。


 毎日忙しく働く光さんが、久しぶりに丸1日休みが取れたと言うことで、母娘おやこ2人で買い物に出かけデートを楽しみ。

 父は自分の両親と買物に出掛けていた。

 僕は1人自宅で……いや、クロコとお留守番。

 自分の部屋で参考書片手に勉強をしていた。

 お昼が過ぎ、適当にご飯を作って食べていると1本の電話が鳴る。

 西内にしうち中央病院からで、父親が交通事故に合い病院に運ばれているから、ご家族どなたかすぐに病院まで来てください。と――。


 光さんに連絡してから、僕も病院に向かうが。

 父親も父の両親もすでに亡くなっていた。

 赤信号で停車中、居眠り運転のトラックに後ろから衝突され、一目で手遅れだと分かる状況だったと聞いた。


 その後は慌ただしくも、何とか中学校を卒業した。

 そして僕はクロコを連れて、家を出ることを決めたのだ――――。


 ――ジャリ。ジャリ。


 と、砂を踏む音が耳に届いてきた。

 今いる場所は公園の中。

 そのまま砂を踏む音をさせながらブランコの前で歩みを止める。


「一昨日のことなのに、凄く前のことに感じちゃうね」


「はい、そうですね」


 本当にそう思う。

 今まででは考えられないくらい濃密な日々だった。


「八千代くん、約束覚えている?」


 今度一緒にブランコに乗ってくださいとお願いしたことだ。


「……1人だと恥ずかしいので、上近江さんも一緒にブランコに乗りませんか?」


 何か変わるかもしれないと思い、約束を口実にお願いする。


「まるでこの間の私が、恥ずかしい人みたいに聞こえたんだけど? まっ、いいけど」


 クスクスと笑いながらブランコに乗り込む。

 僕も続いて乗り込み、あまり音を立てないように『キーコー』とブランコを漕ぐ。


「風が気持ちいいね、八千代くん!! どう? 久しぶり? のブランコは!!」


 ブランコの音に負けないようにいつもより少しだけ大きな声で、だけど夜なので控えめに聞いてくる。

 ブランコを漕ぎつつ空を見上げるが、あまり星は見えない。

 見えたとしても星の名前は冬のオリオン座くらいしか覚えていない。

 でも――。

 上近江さんが言ったように夜風が気持ちよく感じる。


「案外、悪くないですね」


 ――でしょっ!!


 と、言ってから上近江さんは静かにブランコを下りる。

 上近江さんを見ることは出来ず、その代わり明かりに伸びている上近江さんの影を見ながら、僕も続けて下りる。


「約束果たしてくれてありがとうっ!!」


 小さな公園だから街灯は1つしかない。

 だけど、マンションの明かりが公園をほんのり照らしていて、上近江さんが綺麗に笑っているのがしっかり見えた。


「上近江さん」


「うん」


 覚悟を決めよう。


「聞いてほしい話があります」


「うん」


 話したら何かが変わるかもしれない――。


「つまらない話です」


「うん、聞きたい」


 話したら何かが始まるかもしれない――。


「明るい話ではありません」


「聞かせてほしい」


 話したら『今』が終わってしまうかもしれない――。


「もしかしたら不快にさせてしまうかもしれません」


「私は八千代くんのことが知りたい。だから、お願い――」


 僕なんかよりずっと。

 覚悟を決めたように力強い目をしている。


「私に八千代くんの大切な部分に踏み込ませて」


「ッ――――」


 覚悟を決めたはずなのに、引いてしまいそうになるが。


「だめっ、お願い」


 思わず目を逸らしそうになるけど、手を握られて逸らすことを許してもらえない。

 こんな僕の話でも聞きたい、聞かせてほしいと言ってくれる。

 知りたい、踏み込ませてと言ってくれている。

 今の僕は冷静でいられない。


 だから、店長や古町先生に話した時のように、上近江さんには上手く説明出来ないかもしれない。

 それくらい、頭の中がぐちゃぐちゃになっている。

 だけど――。

 握られた手は思っていたよりもずっと小さかった。

 暑いはずなのにとても冷たくて、小さく震えている。

 その小さな手を離さないように、しっかりと握り返して確かめるように話を始める。


「朝のことで察しているかもしれませんが、僕と母親についてです」


「うん」


「信じられないかもしれませんが、僕は小学校に上がるまでは、ころころと表情が変わる子供だったんです。今の上近江さんのように」


「うん、信じるよ」


「でも、その頃から両親の仲が悪くなり父にそっくりな僕を母は嫌うようになりました。『笑った顔が好き』と言ってくれていた母はいつしか『笑うな』『喚くな』『泣くな』と言うようになり僕を否定し始めました」


「……うん」


「でも、唯一。ややつり目なとこだけは母に似ていて、無表情でいる時は怒鳴られないことに気付いたんです」


 ここで上近江さんの返事がなくなる。

 その代わりに鼻をすする音が聞こえてくる。


「――ごめんね。ちょっとだけ胸を貸してください」


 そう言う上近江さんが、鼻をすする理由に気付いているけど、気付かないふりをしてその後から今に至るまでの話を続けて行く――。


 3年で表情だけでなく、声から抑揚が、感情が抜け落ちたと。

 母さんにこれ以上嫌われたくなくて、演じていたこと。

 10歳になると両親が離婚して母が故郷に帰ったこと。

 そこで演じていたと思っていた表情や声は、どこかに落としてしまい、もう戻ってこないことに気付いてしまったこと。

 だけど、それでもいいやと思えてしまったこと。


 感情が表情に出ないから、今では『嬉しい』『悲しい』『楽しい』『怖い』など、心の中で感じている気持ちが本物か分からなくなっていること。

 そう思い込んでいるだけだと、考えていること。

 中学1年の時に父が再婚して、家族が増えたこと。

 義妹とは仲が良好だと伝えると、上近江さんは『良かった』と鼻をすすりながら笑ってくれる。


「――じゃあ、今はこのマンションで?」


 と、聞かれるが、首を横に振り1人で住んでいることを伝える。

 マンションの光だけでは分からないけど、青ざめているような雰囲気が伝わってきた。

 気にしないでと伝えてから、話を続ける。


 15歳になり中学の卒業を控えている2月に、父と父の両親が交通事故で亡くなったこと。

 このマンションは父が独身の時に買ったマンションで僕が相続したこと。

 義母は無視をしたりはしないで大人な対応で僕に接してくれているけど、表情のことで良くは思っていないことと、血の繋がりもないから……。

 いや、義母や義妹に血の繋がりのない僕という不純物が生活に混ざる訳にいかない。

 そう自分に言い訳して、2人に拒絶されるよりも前に逃げ出したこと。


 1人暮らしと言ったけど、可愛い猫のクロコがいるから寂しくはないと伝える。

 上近江さんは笑いながら『今度、私にも紹介してね』と言ってくれた。

 色々あって絶望しかけたけど、一番辛かった時にクロコが近くにいてくれたから頑張れたこと。

 まだ僕も小さかったから、鬱陶うっとうしくなるくらい近くにいたクロコのことが嫌になりそうだったこと。

 でも、あの時の僕にはクロコが助けになったこと。

 クロコのおかげで少しだけ前向きになれたら、今度は幸介とも友達になれたこと。

 すると『尚更、クロコちゃんを紹介してほしくなっちゃった』と言われる。


 そして、直近ではあるが、前のバイト先のことまでほとんど全てを話し終える。

 気付かないふりをしていた、自分の気持ちまで口から出てしまった。

 全てを話したと考えたが1つだけ。

 毎朝鏡を見て表情を確認していることは内緒にした。


「こんなところです。僕は表情がない。それだけでなく、実際は感情もない化け物かもしれません」


 ここまで話すと上近江さんは言葉を発せず、今もまだ僕の胸で鼻をすすり続けている。

 僕に寄りかかり、胸の中で泣いたり、笑顔になったり忙しくしている。


「化け物なんかじゃないよ、八千代くんは」


「どうして分かるんですか? 僕にも分からないのに。気味、悪くないですか? 怖いですよね? 正直に言ってもらっても……僕は大丈夫ですよ」


 聞かなければいけない。

 返事が怖い。

 それなのに僕の表情や声には感情がない。

 矛盾。全てが矛盾。何が本当なのかまるで分からない。


「今もね、返事が怖いと思っているんじゃないの? 八千代くん」


 どうして――。


「分かるよ」


 僕が返事をすることが出来ないまま、上近江さんは続ける。


「八千代くんが話してくれている時にね、早くなったり、落ち着いたり、小刻みになったり、力強くなったりしているんだよ。他にもいっぱい」


「…………何がですか?」


「八千代くんの心臓。ちゃんと感情が、心があるからこんなにも色々な音を私に聞かせてくれているんだよ」


 ――ほら、また強くなった!


 と、笑っている。


「それにね、私結構知っているんだよ? 八千代くんのこと。八千代くんが気付いていないだけで」


 また心音しんおんがはねたのか『ふふっ』と笑っている。


「誰も見ていないのにゴミを拾える人。誰かが困っていたらさりげなく手助けしてくれる優しい人。クラスのみんなが嫌がる仕事でも率先して動ける頼りになる人。アルバイトが始まる前でもコーヒーについて知ろうとする勉強熱心な人。責任感がある人なのかもしれないね。困ったら右手で左側の首を掻くこと。授業中に携帯をいじっちゃう不良さんなこと。だけど、それは優しい理由だったこと。『ありがとう』と『ごめんね』がちゃんと言えること。それとね……」


 この3日間では知りえない普段の僕を知っていること、僕自身でも気が付いていない癖を知られていることにも驚かされる。


「それにね、ちょっと意地悪なことやちょっぴりスケベなこと。しょうがないよね、思春期の――」


 ――の男の子なんだから。


 と、最後に付け足してから、胸から顔というより耳を離して、ジと目で見上げてくる。

 スケベと言われた理由は、きっとさっき美空さんと古町先生に挟まれていた時のことだろう。


「他にもまだ伝えきれないことだって、いっぱいあるよ? それでも、まだまだ知らないことの方がたくさんある」


「そうですね、また話すようになって3日目ですから」


「そうだよ。だから、これからも八千代くんのこといっぱい知りたい!! ダメ?」


「嫌な部分の方が多いかもしれませんよ?」


「それも含めて知りたい」


「……いいんですか? 僕は色んな人から嫌われているような人ですよ」


 不特定多数の人にどう思われたっていい。


「私がお願いしているの。他の人は関係ない」


 僕と仲良くしていたら、上近江さんに迷惑をかけるかもしれない。


「…………迷惑ばっかりかけるかもしれませんよ?」


「私の方が迷惑かける自信あるよ? 私、我儘だから」


 僕はまだ一度も迷惑をかけられていないから、我儘を言って欲しい。

 上近江さんのことが知りたい。

 心臓の鼓動が速くなる――。


「僕も上近江さんのことをもっと知りたいです」


 言うつもりなど全くなかったのに、本音が口から出てしまった。


「私も八千代くんには話したいことがあるし、私のことをもっと知ってほしい」


 聞かせてほしい。

 教えてほしい。

 もっと知りたい。


「これからはちゃんと上近江さんと友達になりたいです」


 上近江さんを見ていると元気がもらえてくる。

 さっきまでの暗い気持ちが嘘のように晴れてくる。

 まだこの心臓の動きが、どんな感情を示しているのか分からない。

 それでも――。今は上近江さんの近くにいたい。


「…………私はもう友達だと思っているのに」


 むすっとした顔をしていて、頬も少し膨らんでいる。

 だからつい――。


「自分に自信がなかったんです。許してください」


 と、言いながら頬を軽くつまんでみる。

 想像していたよりもずっと柔らかい。僕の頬とは大違いだ。

 豊かな表情と、変わらない表情の違いなのかもしれない。

 でもとりあえず、怒っているようなので頬から手を離す。


「もうっ!! 意地悪さんは許してあげないっ!!」


「どうしたら許してくれますか?」


「……名前。お姉ちゃんみたいに八千代くんと名前を呼び合いたい」


 美空さんを名前で呼ぶことには、年上なこともあり多少抵抗があったけど、今は何も気にせず呼ぶことが出来ている。

 だけど、上近江さんを下の名前で呼ぶには勇気がいる。


「ちょっと恥ずかしいですね」


 少し不満そうに唇を尖らせたけど、すぐに表情を戻し聞いてくる。


「じゃあ、私だけ。八千代くんのこと『こう君』って呼んでもいい?」


 初恋の人に呼ばれていた名前でドキッとしてしまう。

 こうりだから『こう』。

 まだ今よりも子供だったから、しっかり発音が出来なくて『こーくん』と呼ばれていことを記憶している。

 すると、少し間があいてしまったからか――。


「ダメ、かな?」


 不安そうな表情ながらも、見上げてきたことで不謹慎にも『ドキッ』としてしまう。


「いえ、大丈夫です。少し照れただけです」


「ふふっ、新しく照れ屋さんなことも知れたね!! こう君?」


「なんでしょうか?」


「えへへっ、呼んでみただけっ!!」


 ただ僕の名前を呼ぶだけの簡単なこと。それなのにニコニコと嬉しそうに笑っている。


「じゃあ、頬をつまんだことは許してくれますか?」


「んー……改めてお願いしたいことがあるかも?」


 どうやらお許しをもらうには、まだ何かをしなければならないらしい。

 許しを請う側が言えたことではないかもしれないが――。

 なんとなく、変わらずニコニコしている上近江さんを見るかぎりすぐに許してもらえそうな気もする。


「それはなんですか?」


「今日一緒にキッチンに入って思ったんだけど――」


 まさか役に立たないからクビとか言われたりして。

 と、一瞬だけ考えたが、実際のところそんな不安など微塵も感じない。


「これからも私と一緒に働いてくれないですか?」


 それはむしろ僕からお願いしたいことのように感じる。であるから返答は決まっている。


「ええ、是非働かせてください」


「うんっ!! 一週間前、こう君の学生証を拾ったのが私でよかった」


「ええ、学生証ともども上近江さんに拾われました」


 捨てて、見捨てられ、歩んできた十六年。

 そんな僕を拾って救い上げてくれた人が上近江さんだ。

 捨てる神あれば拾う神あり、こじ付けかもしれない。けれど。どうやら僕は――。


 アルバイトをクビにされたけど、同じクラスの上近江さんにすくわれたおかげで、これからも一緒に働くことができるようだ。


「こう君は仕方のない人だから、これで許してあげる!!」


 本当に仕方のない人だ。こんな僕に踏み込んでくれるほど仕方のない人。


「ありがとうございます。ところで、この公園でした約束がもう一つ残っていることは覚えていますか?」


「うん? 覚えているけど……敬語のことだよね??」


「正解です。では、改めまして――」


 僕も勇気を出そう。きっと、相手に踏み込むことだって勇気が必要だったはず。

 それでも――。怖くて手を震わせていた勇気ある彼女を見習って。

 こんな僕に踏み込んできてくれる彼女とちゃんと友達になる為に。


「うん??」


「これからもよろしくね、美海」


「ッ――――!?!?」


 上近江さん……美海は驚いた様子で『バッ』と僕から離れて、口をパクパクさせている。

 そして――。


「ほんっっと、に――意地悪なんだから!! でも凄く嬉しい!! よろしくね、こう君!!」


 僕の名を呼び、僕を見て咲かせた、その一輪の笑顔。

 その笑顔は――夏の花畑に咲くどの向日葵よりも眩しく輝いていた。


 僕は破顔一笑する美海を見て心から嬉しいと感じた。

 僕は美海と友達として、やっと始めることができた。


 そう確信できたから。


 第一章 〜完〜




【あとがき】

こんにちは。山吹です。

数ある作品の中、本作を見つけここまでお読みいただき、ありがとうございます。


少しでも面白いと思ってくれた方は、作品のフォローや評価欄から「★〜★★★」を付けての応援をお願いします!!


改めて、第一章を最後まで読まれた皆さま。

本当にありがとうございました。

第二章以降も引き続きお楽しみいただけたら幸いです。

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