第20話 実家に帰りました

 帰り道、右手で自分の頭を撫でる。

 撫でた箇所は美空みくさんに撫でられたところ。

 今、思い出しても少し……いや、かなり照れくさい。

 誰かに頭を撫でられたことなど記憶に思い出せないくらい昔だ。

 そのため抵抗することなど出来ずに、されるが儘になってしまった。

 今後は……撫でられる機会はないかもしれないが、一応は抵抗できるように心の準備をしておこう。


 気を取り直して、道の外れに避けて携帯を取り出す。

 時刻は18時30分か。

 ひかりさんに電話を掛ける前に、本のお礼を言うため上近江かみおうみさんにショートメールを送信する。すぐに『どういたしまして』と返信が戻って来たことを確認して、次に光さんへ電話を掛ける――。


 だけど中々出ない。忙しい人だから仕方ないかもしれない。

 父さんが亡くなってからは、美波みなみに寂しい思いをさせないために仕事量を抑えているが、それでも基本的に忙しくしている。


 駄目なら諦めるが、もしも都合がつくなら今日のうちに身元保証人にサインを貰っておきたい。

 そのため一向に出る気配のない電話を切って、美波の方に掛けてみる。

 呼び出し音が鳴るとすぐに――。


『何――』


 ワンコールで出た。いや、ワンコール前かもしれない。

 たったひと言で冷たく感じるけど、言葉数が少ないのはいつものこと。

 コミュニケーションを取るのに初めは苦労したが、今では何となくひと言の裏に隠れた意味が分かるようになった。


『こんばんは美波。今日、光さんは仕事?』


『キッチン――』


『ああ、料理中なんだね。時間は取らせないから、今日少しだけそっちに行ってもいいか光さんに聞いてもらってもいい?』


『ママ――』


『あ、いや。聞いてくれるだけで――』


 代わらなくていいと伝えきる前に光さんが電話に出る。


『もしもし。こうり君ね?』


『はい。郡です。ご無沙汰しております。今少しだけお時間よろしいでしょうか』


『いいわよ。また書類か何か?』


 光さんはいつも察しがいい。良すぎるくらいでもあるけど。


『はい。たった数カ月で恐縮ですが、アルバイト先が変わったのでサインをお願いしたく電話いたしました』


『そう。今日はもう家にいるけど、あまり遅くならない時間に来てちょうだい』


『ありがとうございます。19時ころに伺います』


『分かったわ。美波に戻すわよ』


 僕が何か返事をする前より先に。


『ご飯――』


 さすがに、もう準備している途中で僕の分のご飯をお願いするわけにもいかない。


『いや、邪魔したら悪いしクロコも待っているからサインもらえたらすぐ帰るよ』


『切る――』


 そう言うと通話終了の音が携帯を通して耳に流れてくる。

 何も変わらない2人にどこか安心を覚えるが、時間もないので急いで向かうとする。


 僕の実家になる場所は、歩くと少し距離があるが自転車なら10分もあれば到着する。

 そのため一度自宅のマンションに戻り、駐輪場から自転車を取り出す。

 学校が近いため通学で自転車に乗ることはないが、駅前から離れたところにお買い得価格、それなのに新鮮な野菜が揃っている八百屋があるから、その時は自転車に乗ったりしている。


 向かい風の中、自転車を漕ぎ進め、うっすらと額に汗がにじむ頃に目的地であるマンションに到着する。

 鍵は預かったままだけど、インターホンを鳴らす。

 もちろん汗を拭いて身だしなみを整えてからだ。

 僕が気になるのもあるけど、光さんが身だしなみにとても厳しいのだ。


『鍵――』


 オートロックのドアが開く。

 きっと、玄関の鍵は持っている鍵で入れということだ。

 エレベーターに乗り、目的の階で降りる。

 そのまま玄関前まで移動して、鍵で扉を開け中に入るが、母娘おやこ2人揃って玄関に並んで待っていた。


「こんばんは。ご夕飯時にすみません。学校に提出する分とアルバイト先に提出する分です。お願いします」


「確認するから少し待ってなさい」


 光さんは契約事に関わる仕事をしているから、こういった書類はしっかり確認するのだ。


義兄にいさん――」


 そう言ってコップに入っている冷えたアイスティを行儀よく両手で手渡してくれる。

 今までこの家には、紅茶はなかった。

 もしかしたら、この間の長電話で紅茶にはまっていると教えたから、僕がいつ来ても渡せるように、用意してくれたのかもしれない。


「ありがとう美波。ちょうど喉が渇いていたところだから助かるよ。いただくね。それと、今日もその髪型は美波によく似合っているね」


 嬉しそうにコクッと頷く美波をひと目見てから、喉を潤す。

 手を伸ばした美波に、『美味しかったよ、ご馳走様』と礼を言ってグラスをお願いする。

 それにしても本当によく似合っているな。

 中学生の頃のある日、光さんに髪をセットしてもらった美波が褒めてと言わんばかりに見せてくれた。

 ハーフアップにした髪型でとても似合っていた。だから素直な感想として、


「美波の綺麗な金色の髪によく似合っているね」


 と、褒めたのだ。

 それが嬉しかったのか、その日から毎日変わることなく同じ髪型にしている。

 よっぽど気に入ったのだろう。

 美波は言葉が少ないけど、ちゃんと気持ちが表情に出るので嬉しそうにしているのがよく分かる。


「おやすみ――」


「またね美波。おやすみ」


 まだ寝るには早い時間だけど、この後僕はクロコが待つマンションに戻るし話すこともないから、先におやすみと伝えたのだろう。

 去っていく美波を見ていると――。


「待たせたわね。確認してちょうだい」


 中身はすてに確認済みなので、サインだけ目を通す。


「ありがとうございます。問題ないです」


「そう。だらしのない生活はしてないでしょうね?」


「はい。規則正しく生活するように心がけています」


「そう……」


 ん? 珍しく歯切れが悪いなと思っていると。


「今度のアルバイトが続くようなら、美波とお店まで行くわ。その時連絡するから今日は早く帰りなさい」


「はい、いつでも連絡ください。光さん、今日はありがとうございました。それでは、おやすみなさい」


 そう言って玄関の外に出ると、すぐに鍵の閉める音とチェーンロックが掛かる音が聞こえた。

 これは、父さんと4人で暮らしていた頃からの光さんの癖のようなものだ。

 物騒な世の中だし、女性2人だけだから警戒するのは当然だ。

 それよりも、最後に言っていたことが気になるな……。

 社交辞令かもしれないけど、気には止めておこう。


 マンションを出ると、今にも雨が降り出しそうなどんよりとした空が目に映る。

 自転車に乗り、急いで帰路につこうと思ったが――。


大槻おおつき先輩、今日は出勤だったよな」


 昨日、最後に挨拶できなかったから、帰宅する前にお店を覗いてみる事にする。

 僕の無断欠勤のせいで昨日出勤しているから、今日は休みに変わっている可能性も考えられるが、3年生の教室に行かずに済むならその方がいい。

 それに、寄るだけならそこまで時間が掛かることもないからな――。


 おかしい――。来るときが向かい風だったから帰りは追い風かと思ったのに、何故か向かい風となっている。

 自転車あるある不思議な所だ。

 そして、またうっすらと汗をかいた頃に、お店の前に到着したが中を確認するまでもなく大槻先輩がいないことが分かる。

 シャッターが下りてお店が閉まっていたからだ。

 この店に定休日はなく、年末年始以外は店が閉まる事がないはず。

 シフトが出た時点では、臨時休業の予定も入っていなかったので不思議だと考えていると、パラパラと雨が降り始めてきた。

 また体調を崩すといけないとは思ったが、本降りではないので傘は差さずに急いで帰路につく。


「ナァ~」


 玄関を開けるとクロコが出迎えてくれた。

 寂しかったのかなと思いつつ、先にシャワーを浴びてからクロコを撫でる。

 ご飯をあげて、次に自分が食べる夜ごはんを考える。

 今日はたくさんの人と話して疲れたから、冷凍うどんをレンジで解凍して簡単に済ませることに決める。

 少し味気ないが、具材はきゅうりとみょうがだけ切って済まそう――。


 食後は美空さんに借りてきた本を読むが、クロコが本に前足を掛けて邪魔して来たため、お菓子の箱に付いていた紐に持ち替えて、少し遊んでもらうことにしたが。

 クロコも歳だからすぐに『グテンッ』と横になり毛づくろいを始めた。

 自由だなと言って、クロコの鼻先をちょんとつついてから、美空さんに借りた本を読み始める。

 少し読み進めたところで眠気を感じたため、歯を磨き、ベッドに入り明日のことを考えるが――。


「……気が重いな」


 正直言えばアルバイトは楽しみだ。

 だけど、アルバイトが始まると大槻先輩に挨拶に行く時間がなくなる。

 行けるとしたら、バイトが休みである来週の月曜になってしまう。


「それだと遅いよな――」


 明日を逃すと、いよいよ3年生の教室に行くことになりそうで気が重いのだ。

 その憂鬱ゆううつな気分を紛らわせるかのように、僕のお腹の上に乗りお尻を向けているクロコを撫でて『ゴゥロ、ゴォロ』と喉を鳴らす声を聞きながら眠りについたのだ。

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