第14話 情熱の青い薔薇

「ナァ~」


 寝起きだからなのか、今はまだ小さくて甘い鳴き声だ。


「…………」


「ナァ~」


 少し間を置いてから、今度はしっかり力のこもった鳴き声が聞こえてきた。


「…………」


「ナァ~ナァ~~」


 不満げな鳴き声に変わって、さらにお腹の上が重くなる。

 うっすらと目を開き時計を確認すると、時計の針は5時50分を差していた。

 つまり起床時間だ――。


 僕は登校日や休日関係なしに、毎朝6時に目覚ましが鳴るようにセットしている。

 そしてクロコは、朝の目覚ましが鳴る10分前になると必ず起こしにくる。

 初めは、毎朝決まった時間に目覚ましが鳴るものだから、僕の起床時間をクロコが覚えて、起こしに来てくれていると思っていた。


 だけどある日――。

 セット時間を変えたらどうなるのか気になり、いつもより10分早い5時50分にセットしてみた。

 不思議な事にクロコは5時40分に起こしにきたのだ。

 とても驚いたが、偶然かもしれないと考えた僕は、次の日は5時40分にセットしてみた。

 するとやっぱり、10分早い5時30分に起こしにきたのだ。

 これにはさすがに驚かされたが、クロコに尻尾しっぽはたかれ怒られたため、これ以後の僕の研究は途絶えることになった――。


 理由は全く分からない。

 だけど、僕はクロコのおかげで寝坊をしたことがない。

 そのため教室に到着するのもいつも一番だ。

 お礼と称してクロコの頭を撫でようとするも、黒くて綺麗な尻尾でまぶたを叩かれてしまう。

 きっと『いい加減に起きなさい』と言っているのだろう。

 残念に感じつつ、今日も鳴ることのない目覚ましを解除してからクロコに挨拶を送る。


「おはよう、クロコ。今日も起こしてくれてありがと」


「ナァ~」


 ようやく起きたことを確認すると、僕の枕の上に乗ってもうひと眠りするまでが、クロコの朝の日課となっている。

 つまりこれが意味するのは、お腹が減っているから僕を起こしている訳ではなくて、僕が朝寝坊しないためにクロコが起きてくれているということだ。


 僕の生活には欠かすことのできないクロコ。

 朝起こしてくれるからではない。

 今の僕があるのはクロコが傍にいてくれるからだ。

 恩人ならぬ恩猫。


 昔を懐かしみながら枕の上で寝ているクロコを一撫でしてから、ベッドから下りる。

 空気の入れ替えのため、カーテンと窓を開けたいが後にする。

 東から入る陽の光が、寝ているクロコに当たってしまうからな。

 陽の光は大好きだけど、今は求めていないだろう。

 働き者のクロコのため、今はゆっくり寝かせてあげよう。


 音を立てないように扉を閉め、洗面台へ移動する。

 歯を磨き、顔を洗い、日課でもある笑顔の練習をする。

 分かってはいるが――。


「1ミリも動かない」


 この顔との付き合いも、もう長い。だから特別落ち込んだりはしない。

 一切変わることのない自分の顔を確認してからは、キッチンへ移動して、朝食とお弁当の準備を進める。


「今日は何にしようか――」


 玉子焼きは固定だけど、日によって砂糖で甘くしたり塩胡椒で塩味にしたり、白だしで出汁巻き風にしたりと、飽きないように工夫している。

 そのため味付けで悩んだが……そうだな、今日も幸介が好きな甘い玉子焼きにしよう。

 友人の好きな味付け。そう決めかけたが――。


 いや待てよ。確か鳥むねひき肉が冷凍庫にあったはず。

 玉子焼きを止めて、そぼろにして二色丼にしよう。


 ――ごめん、幸介。


 と、心の中で謝罪してから、次の朝食メニューを考える。

 あまりお腹も減っていないし、朝食はトーストだけでいいかな。

 お弁当のおかずが余れば別だが、大抵はトーストで済ませてしまう。

 1人暮らしを始めたころは、ちょっとした憧れであった厚切り食パンを食べていた。

 だけどすぐに、いつも食べていた8枚切りの食パンに戻すことになった。

 小腹が空いた時など8枚切の方が、勝手がいいのだ――。


 そんなことを思い出しつつ、出来上がった肉そぼろと玉子そぼろを味見する。


「少し、甘かったかな?」


 多少甘い気もしたが尋常なく甘い訳でもないため、これでいいかと納得させる。

 冷めるのを待っている間、食パンを焼きインスタントコーヒーを淹れて、朝のニュースを確認するためテレビの電源を入れる。


 最高気温35度。降水確率約40パーセント。

 今日も暑くなりそうだ。湿度もあって過ごしにくそうな天気だな。

 それに、雨が降る確率もそこそこ高い。一応折りたたみ傘を持っていこう。

 天気予報の後に流れたニュースでも特に大きな報道もなかったため、そのままテレビの電源を落とす。

 時刻は7時になるところだから、そろそろかな――。


「ナァ~」


 今日も時間通りにクロコが二度寝から起きて来る。

 前足を伸ばしお尻を突き上げるようにして、全身で伸びをしている。


「おはよう、クロコ」


 クロコに2回目の挨拶をして、ひと通りスキンシップを取ってからご飯を用意する。

 食べている間にクロコ用の水を入れ替え、部屋に戻り窓を開けて換気をする。

 5分ほど換気してから、各部屋の窓の鍵を確認して回る。

 お弁当も詰めたしガスの元栓も大丈夫。

 クロコに今日も遅くなるかもしれないことを伝える。

 そして、玄関まで見送りに来てくれたクロコに行ってきますと告げる。


「じゃあ、行ってくるね。お留守番よろしくねクロコ」


「ナァ~」


 脱走の心配もないので、無警戒に玄関を出て鍵を閉める。

 無警戒と言うのは、元々野良猫だったクロコだけど今は脱走したりしないからだ。

 僕が小さいころは1日家に帰ってこない日も多々あったが、何か嫌なことがあったからか、気が付いたら外には1歩も出なくなっていた。


 ドアノブを回してしっかり施錠せじょうされたか確認、そうしたら登校開始となる

 学校までは歩いて7分、8分くらい。

 信号のタイミングが合えば、5分もあれば到着する。


 学校までの道のりは複雑な道もなく迷う心配はないが、名花めいか高校は普通の高校より少し変わっているため、入学式の日は迷わず校内に辿り着けるか心配でもあった。

 今では慣れたものだが、もしも案内板や案内係がいなかったら迷っていた可能性もある。


 その一風変わった名花高校だが、場所は駅前の商業ビル。

 その5階から11階部分に学校が組み込まれている。

 校門は1階に専用入口があって、中を進むと5階まで直通となる2基の専用エレベーターがある。

 1階から5階までは非常用階段しかないため、校内へは専用エレベーターでないと入ることが出来ない。

 だけど5階から11階に限っては、2か所ある表階段と裏階段で各階を移動することが出来る。

 後はそうだな……他の高校と変わっているところと言えば、校庭やプールがないことかもしれない。

 その代わり5階のほとんどが体育館となっていて、十分な広さがあり室内競技や体育祭なども問題なく行うことが出来るそうだ。


 学校自体、比較的新しいため教室なんかも綺麗だし駅前なので色々と便利である。

 学校部分から外れた商業ビルの最上階には、プラネタリウムや展望デッキがあり、デートスポットにもなっている。

 人生で一度もプラネタリウムを見たことがないから試しに行ってみたりもしたが、カップルが多くて敢え無く撤退することとなった。

 在学中にはリベンジを果たしたいが、僕には難しいかもしれない――。


 そんなことを思い出している間に、校門に到着した。

 そのまま校門を越え、エレベーターに乗ってAクラスがある7階まで移動する。

 その7階は1年生の教室と職員室がある。

 すれ違った先生と挨拶を交わしながら、誰もいない教室に入りいつもと同じように乱れた机や椅子を整えていく。

 それに加えて、今日は黒板も板書されたままだ。

 昨日の日直が消し忘れて、そのまま帰ったのだろう。

 あ、いや、クラスの男の子同士の相合傘が書いてあるから、悪戯して放置したのか。

 まるで小学生みたいだ――。


 問答無用で、書かれた悪戯ごと消し去ってから席に座る。

 まだ読み途中のミステリー小説でも読もうかと考えたが、せっかくカフェで働くのだから、図書室で何か関係する本でも探してみようかと考え直す。


 ――ガラガラガラッ。


 と、後ろ側の扉が開いた。


八千代やちよ君、おはようございます。いつも朝からありがとうございます」


古町ふるまち先生、おはようございます。いえ、ついでですので。それより珍しいですね?」


「たまには顔を出そうと思いまして。八千代君、何か困っていることはありませんか?」


「そうですね……」


 この時間に教室に来るのは珍しいと思ったが、どうやら僕の様子を見に来てくれたようだ。

 入学してすぐ、古町先生が整理整頓している横でただ座っていることに気まずさを覚えて整理整頓を申し出た僕だが、古町先生は当たり前に譲ってくれなかった。

 だけど気が休まらないため、僕は言い方を変えて古町先生に交換条件を願い出た――。


 ――僕が整理整頓する代わり、僕が何か困っていたら助けてください。


 と。

 呆気にとられた古町先生だったが『ふむ』のひと言だけ呟いて、了承してくれた。

 きっと僕の意図が伝わったのだろう。

 さらに、高校生の時の古町先生とさと店長は先輩後輩の仲だったらしい。

 その妙な縁で僕の事情もある程度説明してあるため、余計に気に掛けてくれているのかもしれない。

 まあ、とりあえず今は返事を戻すとしよう。


「いえ、特にはないですね。いつも気使っていただきありがとうございます」


「失礼。実は昨夜、里から『こうりの様子を教えてほしい』と連絡があったのです。ですから、何かあったのでは? と、勘ぐってしまいました」


 そういうことか。

 昨日、上近江かみおうみさんのお姉さんが携帯電話の電源を落としたから、慌てて古町先生に連絡をしたのかもしれない。

 ただ……もしかして、古町先生は上近江さんのお姉さんとも知り合いなのでは?

 詳しい年齢は分からないけど、3人とも年齢的に同じくらいだろうしな。


「そうだったのですね、ご迷惑おかけしました。少し事情がありまして、昨日店長……里さんのお店を退職したんです」


 アルバイトを辞めたことを伝えると、眉をひそめながら僕に言う。


「……詳しいことはわかりませんが、いずれにしても里が悪いでしょう。私から里には後で説教しておきます」


 店長が先輩なはずだけれど、今の言葉だけで2人の関係性が見えてくる。

 まあ、里店長だから仕方ない。

 そう思えてしまうから、何とも言えない感情が湧いてくる。

 ただ今回に関しては、里店長に非がないと思うから否定しておく。


「いえ、里さんは悪くありません。それに次のアルバイト先も見つかりましたので大丈夫です」


「そうですか。ですが、里には確認だけしておきます。アルバイト先が変わったならば、アルバイト申請書を提出しなければなりません。のちほどお持ちしますね。ちなみに次はどちらで?」


 結局、里店長は古町先生に厳しく詰められそうだなと思いつつ、さっき浮かんだ疑問も一緒に聞いてみる。


「縁がありまして……上近江さんのお姉さんのお店でアルバイトをすることになりました。勘違いかもしれませんが、古町先生は上近江さんのお姉さんともお知り合いだったりしますか?」


 すると、古町先生はいつもよりほんの少しだけ目を見開き驚いていた様子をみせた。


「驚きましたが……妙に納得も出来ました。上近江の姉の美空と私は、小学生の頃から今も続く友人です。高校も同じなので幼馴染という関係でしょう。学校ですから公私の区別はつけますが、美海みうのことは実の妹のように思っています」


 ただの知り合いでなくて、幼馴染的な関係に僕こそ驚いた。

 上近江さんと古町先生が仲良く話している姿など、見かけたことすらなかったし噂にもなっていないからな。


「時間をとらせました。私は戻りますが、八千代君この後は? 特に急ぎの用事がないようなら申請書をお渡したいので一緒に職員室に来てもらえないでしょうか」


 図書室に行こうと思っていたけど、特に急ぎではないので了承する。


「調べものがしたくて図書室に行こうかと思いましたが、急ぎでもないので古町先生について行きます」


「今の時間図書室は開いていませんよ。ですが……ふむ。とりあえずついて来て下さい」


 朝、図書室に行くことがなかったため知らなかったが、よく考えたら司書の女池めいけ先生が9時出勤だと言っていたかもしれない。

 それと、なんだろうか。古町先生が何か1人で頷いていたことが気になるが、置いて行かれる前に古町先生の後について行こう――。


 職員室の前でBクラスの添田そえた先生や、他の先生方に挨拶をしながら待っていると『ガラガラガラッ』と古町先生が出て来る。


「お待たせしました。申請書です。記入が済みましたら、私に直接提出して下さい。それと、これを――」


 申請書と一緒に渡された物は鍵だ。

 どこの鍵か疑問に思いながら一緒に受け取る。


「図書室の合鍵です。卒業まで貸出しましょう。八千代君貴方の普段の行いを信用して渡しますので、取り扱いにはくれぐれも注意して下さい。八千代君を信頼して教えますが、名花高校の図書室には希少な本も多数あります。そのため監視カメラが設置してありますが唯一、廊下側の席は映りません。内緒ですよ? それと司書の女池先生には私から伝えておきますが、八千代君からも挨拶には行くようにして下さい」


「信用して預けて頂き、ありがとうございます。扱いには重々気を付けいたします。女池先生には昼休みにでも挨拶に伺います」


「それがよろしいかと。では、私はこれで」


「はい。お時間ありがとうございました」


 そう言うと、古町先生は一瞬微笑んでから職員室へ入って行った。

 古町先生の笑った顔は初めて見た気がする。滅多に表情を崩さない美人が微笑むと、そうだな……凄い破壊力だった。

 まあ、兎に角。合鍵を一時的ではなく卒業するまで貸してくれることに驚かされた。

 普段の行いで信用されたのなら、毎朝机と椅子を整理整頓したり、率先して雑用を手伝ったかいもあるものだ。

 良い行いはしておくものだな。

 だけど、カメラの映らない場所は言わない方が良かったのではと思う――。


 さて、早速だが使わせてもらおう。

 図書室は6階。

 今より1つだけ下の階だから、エレベーターは使用せず階段で移動する。

 図書室入口まで到着するが、中を見ると奥の1か所だけ電気がついている。

 消し忘れか?

 と、思いながら鍵穴に鍵を差し込み回す。

 しっかり音を立てて鍵が開いたので、消し忘れだと確信してその場所に向かう。

 すると、笑いをかみ殺したような声が段々と聞こえてきて――。


「え…………や、ちよ、くんっっ!? どうして……ここに?? 鍵は閉まっていたよね?」


「………………」


 どうやら、古町先生に一杯食わされたのかもしれない。

 僕の目の前には上近江さんがいる。

 手に持っている本は、情熱の青い薔薇で有名な4コマ漫画『わたしンち』である。

 僕の視線の先に気付いて、持っていた本を『バッ』と後ろに隠した。


「「………………」」


 とても気まずい空気が流れている。


「「………………」」


 先に沈黙を破ったのは上近江さんだ。


「私ばっかり恥ずかしい思いしてる……八千代くんの意地悪」


 両耳を赤く染め俯きながら、上近江さんは『ぼそっ』と不満を口にしたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る