関数人間
@yyyy108
関数人間
ルールに則って、規則に従って、秩序が守られている。それ以上に美しいものは無いと心から信じていた。
数学の授業中、方眼紙の上をシャーペンが、数式の示す通りにスルスルと滑っていく。定期試験も乗り越えた数瀬有理は思う存分に曲線と遊んでいた。
「なあ、何だよそのノート。」
隣の席の積田が机上を覗き込んだ。
「ああ、好きなんだ、数学。」
「へー。」
そう言うなり、積田はゲームを再開した。高校にも慣れて、すっかり気が緩みきっている。先日の試験でも赤点ギリギリだったらしい。注意するための息を吸ったが、少し迷って止めた。ため息にならないように吐き出して、頭を授業に切り替えた。
「じゃあ……和田。この座標、分かるか。」
「3カンマ、1です。」
対して積田のさらに隣の席、和田は授業に熱心だった。頭脳明晰で、試験では僅差で負けた。その上かなりの努力家で、受験の熱が抜けていないのか、数学は既に高校二年の範囲まで予習しているそうだ。三ヶ月前、積田が話しかけてくれたのをきっかけに有理たちは互いを知り合うようになった。
あと数日で夏休みというところで、授業も午前中に終わった。梅雨は明け切っていない。雲行きは怪しく、埃のような湿ったにおいが鼻についた。帰り道は和田、それに積田も一緒だった。
「久しぶりにラーメン、行くか。」
下り坂で自転車を制していた積田が提案する。
「いいね、どこ行く?」
和田が乗っかる中、有理は断った。
「僕は……帰るよ。」
その理由は、温かいご飯を用意して待っている母の姿が脳裏に浮かんだ、というものだった。ただ、何かが引っかかる。有理は帰る以外の行動をする自分のイメージが掴めずにいた。
「オッケー」
「りょーかい」
有理は仕方がなかった。決まっていることだった。いつもはこのまま家に帰るから。有理は道中、言い表せないような悔しさや、負い目を背中に感じたまま歩き、改札をくぐった。電車は丁度来ていた。ドアに近い端の席に座る。きっと、皆と本心で分かり合える点があるとするならば、それは無限に遠いのだろう。まさにそれは無限遠点で、有理は漸近線だ。電車に揺られながら、有理はそう感じた。ホームの階段を降り、改札を出る。見ると、雨雲は仄暗く広がり、家路には格子点のような街灯が灯っていた。有理は一直線に歩き出そうとした。が、ふいに何かを思い出したように、法則や規則正しさが恋しくなって足を止めた。ベンチに向かい鞄を降ろし、さっきの数学のノートを眺める。やっぱり、曲線は綺麗だった。秩序はいつも平静をもたらしてくれる。今日のページをめくったときには、有理の視界は涙で満たされていた。
程なくして拭うと、有理は真っ白な世界にただ一人、立ち尽くしていることに気がついた。というより、体を動かせなかった。わけの分からない空間と、動けない自分が怖い。ここはどこで、何がこのような状況にしたのだろうか。
〈点Pは上式を満たしながら動く。〉
どこからか、ぼんやりと聞こえてきた。声の元を探っているうちに体が意図せず動き出した。体が、とは言ったが、下を向いてもそこには何も無かった。地面からは少し距離があり、あたりを俯瞰することができた。見渡せば、床には白地に等間隔に引かれた少し青みがかった線と、足元に伸びる果てのない黒い曲線。所々に列をなして散りばめられた数字。これでようやく確信した。平らな格子の世界で、有理は点Pになってしまったのだ。
次元の一つや二つが削ぎ落とされたような感覚の中、“そと”からの命令を受け、有理は頭上に張り付いた数式を満たして動いていた。徐々に原点が遠ざかる。全身で感じる風と、それが伝えるほんの少しの鉛の匂い。そこは全てが決まりきっていて、完璧だった。授業中にゲームをする隣の人を注意するべきか、とか、母の料理よりラーメンに行くべきか、とか、いちいち決めなくていい。敷かれたレールの上をどこまでも進んでいきたいと思える不可思議な感覚があった。有理はしばらくの思考の必要が無い旅の後、優しい光りに包まれ微睡んだ。
目を開けると有理の体は、床に広げられたノートの上に立っていた。靴のにおいの隙間から流れ込む、温かなご飯のにおい。鉛の匂いはもうそこにはなかった。母の呼ぶ声が廊下に響く。我が家だ。有理は元に戻ったのだ。先刻の体験と、駅から移動していたという謎よりも、体が戻ったことと、母に伝えた時間通りに家に到着できたことへの安堵のほうが大きかった。
翌朝六時〇〇分、アラームを止めた。六時三〇分には朝食を終え、七時〇〇分に家を出た。電車はあと二〇分。時間厳守。起きたら、支度をして、学校に向かう。今日も決められたことをする。学校に着いたら、授業を受けてそれなりに話して、部活の後家に帰るだけだ。有理の日々は、毎日がそうだった。
「……ってことがあってさ。」
「あってたまるかよ。」
「本当だよ。」
日の差し込む朝の教室で、積田は苦笑した。和田も、数学Cの問題集をすっかり閉じて耳を傾けている。教室にはこの三人のみ。授業が始まるにはまだ時間があった。
「点ということは君は零次元だった。けど、感覚はあった、か。」
和田が首を傾げているのを尻目に、ノートを開いた。
「このページなんだけど……」
「何も起きねえじゃんか。」
積田が覗き込む。
「あんまり詳しいことは覚えてないけど。」
と、あたりが明るくなった。眩しい、目を閉じる。まぶた越しの光はさらに強くなっていった。
〈点Xは定点P,Qからの距離の和が6となるように動く。〉
聞き覚えのあるぼんやりとした声が聞こえてきた。目を開けてみると、昨日の、あの不可思議な世界だ。仮定より、今度は完全に動くことはできなさそうだ。有理はまた点Pになった。だとしたら、点Qも同様に誰かの変わり果てた姿なのだろうか。
「何なんだよ、これ!」
少し離れたところで恐らく、点Qの声がした。このしゃがれ声は積田だ。
「僕だよ積田。命令に従うんだ。聞こえた?さっきの」
「……数瀬か?……お前は何で平気なんだ」
「慣れた。言ったでしょ、本当だって」
「……」
「座標は、今どこに立ってる?」
「……座標?……床には『1』ってあるぞ」
点Qの口調は戸惑いを隠せずにいた。無理も無いだろう。誰だって、次元の異なる人になった時には驚き、慄く。点Pの座標は「-1」。x軸上の二点はy軸対称だった。
「僕は『-1』だ。だから……とりあえず『3』で距離の和が6になる。そこに点をイメージしてみよう。」
点Qが頷いたのを感じてから少しすると、案の定、「3」に錆びた鉄杭が生えてきたのが点Q越しに見えた。そして、二点の頭上にそれぞれ数字が浮かんだ。点Pは4で、点Qは2だ。
「……すげえ。……本当に、何だよこれ」
「何でもできるね。でも、この後はどうすれば……」
持てる様々な式や図形を思い浮かべてみても、次にするべきことが分からない。思考は完全に立ち止まってしまった。和田が居てくれたら、と心で嘆く。しばしば言われる『数学は役に立たない』という意見への、極めて異端な反例を身に沁みて感じた。少しの沈黙の後、点Qが閃いた。
「ひもが使えるかもな」
イメージして長さ6のひもを得ると、鉄杭にそれをかけた。点Qはその一端を持ち、もう一端をこちらに向けてきた。
「なるほど。二人でひもを持てば、鉄杭との距離の和はずっと6だ。」
「ひもをたるませないように、動かすイメージで。」
鉄杭はyの正方向に動き出した。ひもに制御されつつ、じわじわと地面に線を残しながら移動していく。実に滑らかな挙動だった。ひものお陰で進行方向も徐々に変わっていく。鉄杭は、既にy軸の「2√2」を通過しようとしていた。
「よく思いついたね、ひも。」
「だろ。……照れねえな、点だから。」
首の後ろをポリポリ掻いているのを感じた。口に微笑が滲み、二点の数字が共に3になった。確かに、照れない。お互いに点であるゆえ、どこを向いているのかさえ分からない。まるで通話中の二人のようだ。
「あの声の通りにすれば戻るのか?」
「多分。昨日は最初から動いてたけど」
そうこうしていると、一周してきた鉄杭が「3」に止まり、地面に埋まった。ひもはx軸と同化して消え、頭上の数字もひっこんだ。ひもを使った、積田オリジナルの解法は成功した。二点は自分たちの成した軌跡に目を輝かせていた。姿が点であろうと、その輝きは確かに伝わってきた。
「積田、すごいね」
「今回は俺の勝ちだ。」
点だからなのか、積田はいつもより口が軽い。
「……あと……有理はもっと自分を出していいんじゃないか?昨日だって、メシ、本当は行きたかったんだろ。」
積田は少し真剣になって言った。
「そうかもね。」
この時、色々なものが軽くなった。次元が落ちるような感覚とはまた違ったものだった。これまで一体何に縛られてきたのだろかと、有理は考える。もう、いつまでもこの姿でいたいとは思わなかった。しかし、積田との会話に関しては逆だ。この世で一番温かい楕円の中で、二人は談笑していた。と、突然朗らかな声が、サラウンドに聞こえてきた。その方向を目で追う。
「この円の上を隈なく回ってみても、僕と君たちとの距離の和はきちんと6になっている。」
円上の任意の声は止まった。間もなくして、逆も成立したことをいいことに、彼らの点としての役目の終了が知らされた。
〈Q.E.D.〉
方眼紙の上をシャーペンが、感情の赴くままスルスルと滑っていく。
「なあ、どう描くんだよそんな上手いグラフ。」
積田が机上を覗き込んだ。
「ああ、コツはね、方眼を利用するんだ。格子点を意識して…」
和田の朗らかな笑顔をバックに、ノートに曲線美を求める積田。それを見る有理の表情は、一つや二つ、厚みを持ったようだった。
関数人間 @yyyy108
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