L’Étranger

今回はフランスの作家 カミュのデビュー作「異邦人」の冒頭、主人公が養護老人ホームから受け取った電報の文章を扱います。作品を読んでからで無いと何のことかわからないと思いますし、著しいネタバレを含みますので、ご注意ください。


原文 Mère décédée. Enterrement demain. Sentiments distingués.


和訳 「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」 (訳:窪田啓作)


どうでしょうか。電報と言えば、カタカナ。そういうイメージは分からなくもないです。当時はまだ活字印刷ですから、カタカナだけで文字を打つ方が文字盤の数を減らせた為です。新潮文庫の「異邦人」が出版されたのは1963年。東京オリンピックが開催される1年前なので、だいぶんテレビや洗濯機などといった家電製品が、一般家庭にも普及している時期でしょう。ですが現在の私たちが思い浮かべるようなプリンターが登場するまでには、もう少し待たなければなりません。多種多様な記号を簡単にプリントできる技術が実用化された今となっては、漢字入りや写真付きの自由自在に送ることができます。


では、テキストの分析に入りましょう。


原文 Mère décédée. Enterrement demain. Sentiments distingués.


和訳 「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」 (訳:窪田啓作)


直訳 母死んだ。埋葬明日。敬具。


まず文意としては問題ないですね。主人公の母親が亡くなって、葬儀は明日行う。問題なく読み取ることができます。


で、す、が、この電報の中に含まれている “Sentiments distingués.” の裏に隠された意味がぼやけてしまっています。超重要なのです。なぜこの部分を落としてはいけないのか、さらに分析してみましょう。


Mère décédée. / décédéeは、décédérの直説法三人称単数女性現在です。つまり、お母さんが死ぬ。という主語と述語の文になっています。ここは字面通りですね。


Enterrement demain. / Enterrement の元になっている動詞の過去分詞である enterre は形容詞として “long-forgotten” 「長いこと忘れられていた」という意味を持ちます。主人公は、擁護老人ホームに母親を預けてから彼女に会っておらず、届いた訃報に対してもそこまで興味が無さそうな様子が描かれています。主人公は、つい今日か昨日に亡くなったらしい母親のことを、ずっと忘れていたんです。


Sentiments distingués. / この表現は手紙や電報の末尾に使う挨拶です。直訳すると「最上の心持ち」という感じでしょうか。英語で言えば “sincerely yours.” ですとか、日本語なら「敬具」に相当します。そして、 形容詞の複数形 distingués を、動詞 distinguer の直説法二人称単数男性現在と読み替えると、この文の目的語はSentiments で、手紙の受取人、つまり主人公のムルソーさんが、省略された主語として立ち上がってくるのです。


Tu distingués Sentiments.

= You distinguish sentiments.

= あなたは感情を消す。


sentiment の意味するところは、「感情」のほかに、「情感」、「情緒」、「情事」、総じて「人間らしさ」と表現できるかもしれません。具体例を挙げてみましょうか。


母親の死に対する悲しみ。→ムルソーさんは母親のことを忘れていて、しかも葬儀中ずっとウトウトとしていました。養護老人ホームの院長からも、母親の死を悲しんでいる様子は無かったと証言しています。


フィアンセのマリイさんに対する愛情。→彼女から結婚したいと言われた時に「君を愛してはいない」と明言しています。なお、性欲がムラムラと湧き起こっている描写は何箇所かに見られています。恋愛感情と、生理的な欲情とは、ムルソーさんの中で切り離されているのかもしれません。


殺人に対する罪悪感と、死刑判決に対する恐怖。→ムルソーさんは裁判中ずっと、何が起きているのかよく分かっていない様子です。弁護側の論説では「偶然」とか「不運」というワードが頻出しますし、ムルソーさん自身も「偶然」という言葉を自分の発言の中で使用しています。


ムルソーさんは裁判の中で、母親の死に対して無感動であったこと、母の葬儀の翌日にはマリイと会って情事に耽っていたこと、既に遺体となっているアラビア人に追加で4発も打ち込んだことを根拠として、感情がないサイコパスな人間であるという評価を下されています。


実際にムルソーさんには、人間であれば当然感じているべきとされている親の死に対する深い悲しみが欠如しています。そして彼は死刑によってマリイと結婚してラブロマンスが成就する未来が失われました。人殺しに対するためらいも欠如していますし、裁判の終盤まで自分が罪人であるという事実も分かっていませんでした。


「太陽のせい」で人を殺した。ムルソーさんは裁判の場でそう発言し、恐らくそれが死刑の確定に繋がっています。太陽の、強い日差しによる暑さ。物語の中の季節は夏なので暑いのは当たり前なのですが、言われてみれば作品の初めから終わりを通してずーっと、暑さを凌ごうとする人々の様子や、暑さで意識が朦朧としているムルソーさんの様子が描写されています。


「太陽のせい」で人を殺した。


これは何のキザや詩的な感想でもなく、ムルソーさんは本当に、太陽に照り付けられて意識のレベルが低下しており、<感情を失った状態で> だったのです。無目的で無感情に、ただ生理的欲求などに基づいて意思決定を成しているので、逆に言えばその時その時の状況や、気分に応じて考えが変わるのです。


背表紙の作品紹介を読んでいると、ムルソーさんのことは「通常の論理的な一貫性が失われている男」という風に表現されています。つまり、逆にムルソーさんのキャラクターとして一貫しているのは、「一貫性が失われていること」と言えます。


裁判の間、ムルソーさんはずっと法廷内の暑さや、暑さを逃そうとうちわを仰ぐ陪審員たちや、自分の発言を排除して弁護士と裁判官と検察官だけで進行されていく審議のことに注目して、自分の運命が自分ではない人間の手によって定められつつあることに文句がありそうな様子が描写されていました。


が、ひとたび死刑判決が言い渡されると、ムルソーさんはいかに処刑されるべきか、どのように斬首刑を受け入れるべきかに考えの方向をシフトさせていき、判決破棄の手段も特別恩赦の請願も使わず、恩赦の余地があるかを判断する司祭の訪問も断って、お節介にもついに来てしまった司祭の思想の不合理性を怒鳴り散らして追い払い、死刑執行が不可避となった場面で物語の幕が閉じています。


もし自分が死刑囚という極悪人であるならば、民衆の憎しみの罵声を浴びながら処刑されることを喜びとするべきである。というような結論を以て、彼は死刑の運命を受け入れます。直前に、自分は死んでも死ななくても何も変わらない、とか、生きていることで社会に何も利益を及ぼさない、とか述べていることからも、彼は実際に死刑執行の場面になったら怖くなって逃げ出すといったことはせず、不気味な微笑みを浮かべたままに粗末なギロチンで殺されていることだろうと思います。


彼は何に対しても受動的です。母親の葬式に出席したのは電報が届いたからで、マリイとの結婚も彼女からプロポーズされたのを受け入れただけで、アラビア人を撃ち殺したのも相手が刃物を出してきたからでした。


彼の破滅を決定づけた行為は、非能動的なものでした。葬式に行きたくて出席したわけではありません。結婚したくて婚約したわけではありません。殺したくて殺したわけではありません。呼ばれたから来た、プロポーズされたから受けた、襲いかかってきたから撃ち殺した。それだけのことなのです。そこにムルソーさんの気持ちは全く関係ありません。


死刑が執行されれば、ムルソーさんという人間は消滅して、彼の人格は永久に失われることになります。そしてこの時にも、彼は死にたくて死ぬわけではありません。死刑を言い渡されたから死ぬのです。そこに彼の感情は関係ありません。


もうお分かりでしょうか。ムルソーさんは感情とは無関係に行動を決定する人物なんです。「通常の論理的な一貫性が失われている男」なのではなく、「感情が失われている男」なのです。


感情が失われているから、やることなすことが常に受動的で、プライドなく自分の意見を棄却・変更できてしまうのです。だから論理的な一貫性がないように見えるのです。


Sentiments distingués. 「あなたはセンチメントを消す。」


このフレーズは、単なる手紙末尾の挨拶であるように見せかけて、実はこの小説がどういう作品であるのかを、読者に予告していたのです。


それが伝わるように日本語に訳す方法、いい感じに訳す方法は、ちょっと思いつかないですね…。みなさんはどうでしょう。翻訳って本当に大変ですよね。


やっぱり、原文で読まないと味わえないおいしさっていうのは、あるのです。


以上です。ご読了ありがとうございました。

よいお年を

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よい翻訳ってなんだろー? 藤井由加 @fujiiyukadayo

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