よい翻訳ってなんだろー?
藤井由加
Ticket to Ride
知ってますか?ビートルズの名曲。Help!の前に発表されたシングルの表題曲ですよね。邦題では「涙の乗車券」と呼ばれているのが一般的です。でも、ちょっと待ってください。
Ticket to Ride というフレーズの中に、「涙の」を意味する言葉はありません。直訳すれば「乗車券」になりますから、「涙の」は必要ないはずです。
じゃあ歌詞の内容の中に、「涙の」要素があるってことなんでしょうか?
ちょっと、引用して確認してみましょう。
I think I'm gonna be sad
I think it's today, yeah
The girl that's driving me mad is going away
歌い出しの1行目にもう、明確に [sad] という単語が見つかりましたね。直訳よりで和訳しますと、「いつかは悲しい思いをするとは考えていたけれど、それは今日だと思う。僕の情緒をめちゃくちゃにしている女の子がいなくなってしまうんだ。」という感じになります。歌詞の中に居る主人公は、彼女に振られて、逃げられそうになっている。そういう状況からこの歌は始まるんですね。
She's got a ticket to ride ×3
And she don't care
「彼女はチケットを買っちゃった。僕の事なんてちっとも気にせずに。」
(She's の 's は has が省略されています。現在完了です。)
そしてサビですね。同じ1文を3回も繰り返して。主人公にとって、彼女が既に乗車券を買ってしまっているという事実はどれだけ重大なことだったのかが伝わってくるようです。サビに入る度に3回ずつ「彼女はチケットを買ってしまったんだ!」と言ってるんですから、彼女に振られてしまうことは主人公にとってよっぽどの大事件なのでしょう。
She said that living with me
Was bringing her down, yeah
She would never be free
When I was around
「彼女は言った。『あなたと一緒に暮らすことには疲れたわ。あなたといると不自由でたまらないの。』」
こうなったらもう、終わりです。ご愁傷様でした。ずーっと一緒に居たら、相手のことを好きになっちゃうか、嫌いになっちゃうかのどっちかに転がっちゃうものですから。一緒にいる時間が長ければ長いほど、どっちつかずで振り切れない関係を保ち続けることは難しくなっていくんですよ。それで主人公の子は、残念な方に振り切れてしまった、ってことです。この曲は失恋の模様を歌っていますから、確かに「涙の乗車券」という翻訳は内容に即していると言えます。
I don't know why she's riding so high
「どうして彼女はあんなに嬉しそうなのか、分かりたくない。」
(be riding high で「自信が満ち溢れている」とか、「達成感に包まれている」みたいな意味になります。 Oxford Learner's Dictionary では、 "to be successful or very confident" として説明されています。)
ここで少し、「んっ!?」と思って頂きたいんですけど。何が引っかかって欲しいか分かりますかね?
I don't know why she's riding so high
傍点の使い方が気持ち悪くて申し訳ないです。カクヨムさんは下線機能の実装を早めにお願いします。
脱線しちゃいました。ここでの傍点部には、rideの現在分詞が使われていますね。ここでこの曲のタイトルに戻って欲しいんですけど、覚えていますか? "Ticket to Ride" でしたよね。その曲題の意味を改めて皆さんに考えて頂く間に、他の部分の歌詞から先に触れちゃいましょうか。シンキングタイムは私が「時間切れ」と宣告するテキストを貴方が読むまでです。では、お考えください。どうぞ。
She ought to think twice
She ought to do right by me
「あの子は考え直すべきだよ。僕と一緒に居るべきだよ。」
この歌詞もサビと同じくらい何度も繰り返し登場しますね。未練だらけの主人公が、ガールフレンドに僕を振らないで欲しいんだって負け言をぶつぶつ言っているイメージです。
Before she gets to saying goodbye
「彼女が僕にグッバイって言う前に――」
そしてさっきの主人公の負け言が繰り返されます。
My baby don't care
「僕の彼女は、僕の事なんて気にしてないんだ。」
これは曲がフェードアウトして聞こえなく無くなるまで無限に繰り返されます。主人公の子がどれだけ女の子に「行かないで」と頼み込んでも、それでも彼女は行ってしまうんだぜ。そんな悲しい曲・・・・・・としか捉えられなくなってしまう「涙の乗車券」というタイトルは、私的にはやっぱりダメダメだと思います。
何故かというとですね、改めて傍点部を見てくださいな。
I don't know why she's riding so high
「どうして彼女はあんなに嬉しそうなのか、分かりたくない。」
シンキングタイム終了。時間切れです。
主人公を捨てて鉄道で去っていく女の子にとって、"Ticket to Ride" は「涙の乗車券」ではなく、むしろ「喜びの乗車券」であると言えちゃいますね。主人公の子にとってのみ、この歌に歌われているのが「涙の」別れに見えているわけですが、乗車券を手にしている女の子からすれば、喜びの門出くらいな表現にするべきでしょう。
英語ではわざわざ "Ticket to Ride" つまり「乗車券」というタイトルにしているんですよ。その乗車券によって引き起こされるイベントが「涙の」お別れなのか、「喜びの」お別れなのか、はっきりとは示されていません。ぼやかされているんです。むしろその意味の二重性を利用したブリティッシュ・ジョークこそビートルズの魅力の1つでありますというのに、この作品にあんなダメダメな邦題を与えてしまった人はきっと男性です。自分が男性だから、女の子の立場に立ってこの作品を見返すことができてなくて、「涙の乗車券」が同時に「喜びの乗車券」でもあるという可能性に気づけなかったんですよ絶対に。想像力の幅が狭いんだったら創作の世界に関わるのやめた方が良いんじゃないですか?
推測で物を語るのは良くないって、探偵さんに言われたばかりでした。反省です。
では、まとめに入りましょう。
ビートルズの名曲 "Ticket to Ride" は、「涙の乗車券」という邦題で有名ですが、実は歌詞の中で登場する乗車券は、「喜びの乗車券」でもある、ということです。そして一般的な邦題では "Ticket to Ride" というタイトルの曖昧性を活かしきれていないので、あまり良い翻訳とは言えない、ということです。
じゃあ、良い翻訳ってなんなんでしょうね。それをこのシリーズではあれこれ考えていく次第でございます。では、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
よいお年を
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