間章:プロローグ

13 プロローグ:奇病


 何年か前のことです。

 森のなだらかな丘の上、一本の大木の根元にある小屋に、私はお母さんと二人で住んでいました。

 元は廃墟だったそうですが、我が家は頑丈な石造りで、居間に寝室、台所にお母さんの仕事場と、暮らしていくのに十分な広さがありました。


 お母さんは薬師でした。

 毎日森へ出かけては、薬の材料を取ってきて。

 たまに遠出をしては、薬を売り、買い物をしてきて。

 それでも足りない時は森で狩りをして、私を育ててくれました。

 女性一人と、その娘の二人暮らしは、裕福なものとは言えませんでしたが、お母さんのおかげで、私は幸せに暮らしていました。


 そうして何年か経ったある日、私はいつものように目を覚ましました。

 半開きな目を擦り、立ち上がると、小さな違和感。

 見てみると、隣のベッドにお母さんの姿がありませんでした。


 とは言っても、それ自体はいつもの事でした。

 毎日、起きるのはお母さんの方が早かったですから。

 朝起きて、寝室にいないときはいつも、お母さんは台所の方で朝食の準備をしていました。


 しかし、その日は違いました。

 朝食の準備をしているならなにかしらの物音がするはずですが、家の中はとても静かでした。

 念のため寝室を出て居間を抜け、台所のドアを開けてみましたが、お母さんの姿はありませんでした。


 となれば、別の可能性でした。

 お母さんの仕事場には、寝室とは別にベッドが置かれていました。

 それは、長時間作業する際の休憩用ではありましたが、お母さんは夜遅くまで作業した後、そのまま仕事場のベッドで寝てしまうということもたまにありました。


 前日は丁度、買い出しの日でした。

 お母さんが帰って来た後、ずっと作業をしていたのなら、まだ寝ていてもおかしくはありません。

 そんなことを考えながら、私はゆっくりと仕事場の扉を開けました。


 予想通り、仕事場の隅にあるベッドにはお母さんの姿がありました。

 このままお母さんが起きるまで待とうかとも思いましたが、私がお母さんよりも早く起きられる事など滅多にありませんでした。


 私はせっかくなので、お母さんを起こしてみることにしました。

 いつもは起こされる側なので、お母さんも驚くはず。

 私は仕事場の物に触れないよう、慎重にベッドに近付きました。



「お母さん」



 私はベッドの横に立つと、私はお母さんの肩を軽く揺すりました。



「…………」



 しかし、帰って来る反応はありませんでした。

 私はかなりぐっすり眠ってるのかな、なんて考えながら、再びお母さんの肩をゆすりました。



「お母さん、起きて」



 少し大きめに肩を揺すっても、帰って来る反応はありませんでした。

 ベッドの上のお母さんは、無表情で、寝息一つ立てず、静かに眠っていました。

 少し、嫌な予感がしました。



「お母さん……?」



 私はお母さんの肩から手を離し、頬を触りました。

 お母さんの顔は、氷のように冷たくなっていました。



「っ!?」



 大声で呼びかけようとしましたが、息が詰まり、うまく声が出ませんでした。

 代わりに私は、何度もお母さんの体をゆすりましたが、お母さんは目を覚ましませんでした。


 最初に頭に浮かんだのは、過労でした。

 ですが、お母さんは活力に溢れた人で、何年も一人で私を育ててくれていました。

 確かに前日、買い出しには出掛けていましたが、帰って来た時、特別疲れたような様子もありませんでしたし、何より何年も続けてきたことですから、今更倒れるとも思えませんでした。


 では、何があったのでしょうか。

 私の少ない知識で辿り着いた答えは、病気でした。

 私にとって病気と言えば、肌が冷たくなるどころか熱が出たり、動かなくなるどころか咳が止まらなくなったりするものでしたが、世の中にはいろいろな奇病が存在すると、お母さんに聞いたことがありました。


 肌が冷たくなり、それこそ、死んだようになる。

 そんな奇病だって存在するかもしれない。

 それにお母さんがかかってしまったのかもしれない。

 このまま放っておけば、死んでしまうかもしれない。


 混乱した頭で、私は自分にできることはないか、考えました。

 薬の調合は見せてもらった事はありましたし、簡単な薬なら作ることもできましたが、こうなってしまったお母さんを治せる薬は思い当たりませんでした。

 そもそも、全く知らない病気なのですから。

 それなら、私にできることは一つでした。



「お医者さんを呼んでこなきゃ……!」



 誰か、お母さんを治せる人を連れてくるしかない。

 そう考えて、私は家を飛び出しました。

 その時の私は、軽いパニックに陥っていました。

 そのせいで、外に出る時は必ず持たされていた、獣除けの粉と、護身用のナイフを忘れてしまっていました。


 それだけなら良かったのです。

 私の家のある森の、北と西には、それぞれ川が流れていました。

 目的地は西の川を越えた先、何度かお母さんに連れていって貰った、人の集まる大きなキャンプでした。


 もしも私が、西の川の流れに沿って南へしばらく歩いて行けば、小さな道と橋があり、それを渡って川を越えれば、確実にキャンプにたどり着くことができたのですが、家から南西のキャンプに行くには、やや遠回りな道でもありました。


 結局、焦っていた私は、近道を通ることにしました。

 いつか、お母さんが言っていた道。

 しかし、危ないからと使わないように言われていた道。

 西の川を越えて、真っ直ぐにキャンプへ向かうのです。


 ですがその時の、混乱した私の頭の中には、『川を超えればキャンプにたどり着く』という言葉しかありませんでした。

 その結果私は、街の方向にある西の川ではなく、いつも水汲みに行っていた、より近い川。

 北の川へと、向かってしまったのです。

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