14 プロローグ:薄暗い森の中


 必死で川を越えたはずなのに、進めば進むほど暗くなっていく辺り。

 違和感に気付いた時には、帰り道さえ分からなくなっていました。

 まだ日は出ているはずなのに、森の中は鬱蒼としていて薄暗く、引き返しているはずなのに、逆にもっと奥地へ進んでいるのではとさえ思えてきました。


 早くしなければお母さんが手遅れになってしまうかもしれないという焦りと、全く知らない土地に踏み込んでしまったという動揺と恐怖で、私は泣きそうになっていました。



『グルル…………』



 そして、追い打ちをかけるようにその声は聞こえました。

 私はとっさに近くの木の根本にしゃがみ込むと、息を殺しました。

 おそらくは、獲物を探している、飢えた獣のうめき声。



(お願いだから早くどこかに行って……!)



 そんな私の願いとは裏腹に、少しずつうめき声は近付き、足音まで聞こえるようになってしまいました。

 身を守るための道具は全て忘れてしまいました。

 守ってくれるお母さんもここにはいません。


 心臓の鼓動が早まり、目の焦点がずれ、私の頭は恐怖で満たされていきます。

 私はただ、できる限り身を縮め、それが過ぎ去るのを待つことしかできませんでした。



『…………』



 永遠にも思える時間が過ぎた後、ふと、うめき声が止んでいることに気が付きました。

 目を閉じたまま、聴覚を研ぎ澄ましますが、足音は聞こえませんでした。


 その日の森は風も穏やかで、木の葉が揺れる音すらほとんど聞こえませんでした。

 高まった心拍の音だけが、私の耳に響きました。



『…………』



 それから少ししても、やはり静かでした。

 心臓の音以外、何も聞えませんでした。

 獣は何処かへ行ったのでしょうか?

 やり過ごす事ができたのでしょうか?


 そんなことを考えながら、私は丸まったまま、静止していましたが、心臓の音以外、特に何も聞こえることはありませんでした。

 しばらく経っても、心臓の音は響いたままでした。



『……ドクン……ドクン……』



 やがて、私の中に違和感が生まれました。

 どうして、これだけの時間、静寂が続いているのに、心臓の音は早まったまま、この耳に響いているのでしょうか?

 どうして、そろそろ落ち着いてもいいはずなのに、血液の脈動する音が、両耳にはっきりと聞こえるのでしょうか?



『……ドクン……ドクン……!ドクン!』



 どうして、体の中からではなく、両耳から聞こえるのでしょうか?



『ドクン!ドクン!ドクン!』



 私は、ゆっくりと目を開けました。



「あっ……あっ……」



 私の眼の前には、悪魔のように醜悪に笑った、狼に似た獣の顔がありました。



「ッあ! ああああああああああ!!」



 考えるよりも先に、私は悲鳴を上げて走り出しました。

 あまりの恐怖で靴が片方脱げてしまいましたが、気にしている暇などありませんでした。

 ふと後ろを振り返ると、醜悪な笑顔のまま、獣が迫って来ていました。

 私はすぐに視界を前方に戻し、逃げることだけを考えました。


 地面のぬかるみにはまって倒れそうになると、後ろから唸り声が聞こえました。

 咄嗟に右に倒れこむと、すぐ横から何かが強く閉じられたような音が聞こえました。


 目の前に倒れた若木が現れると、後ろから咆哮が聞こえました。

 走り続けたまま木の幹を飛び越えると、すぐ後ろから何かが折れたような音が聞こえました。


 一体どれだけ走り続けたのでしょうか。

 もしかすると、長く感じただけで実際には数分、あるいは数十秒だったのかもしれませんが。

 とにかく、私は後ろを振り返ることもなく、ひたすらに走り続けましたが、ついに足をもつれさせ、大きく転んでしまいました。



『グルルルル……』



 もしかしたら、振り切れているかもしれない。

 そんな淡い期待は、即座に聞こえたうめき声によって砕かれました。


 すぐに立ち上がり、逃げ出そうとしましたが、次の瞬間、私の左足を激痛が襲いました。

 靴の脱げた左足。

 先程転んだ際に挫いてしまったのです。

 痛みに耐えられず、私はうつ伏せに倒れてしまいました。



「あっ……」



 体を仰向けに反転させ、身を起こした私の目の前には、逃げる前と同じ、醜悪に笑った狼の顔がありました。

 いえ、よく見ればそこには、大きく背中が歪み、首が異常なほど肥大化してドクンドクンと脈動し、額には一本の角が生え、笑っているように見えた口は、信じられないほど長く、大きく、目元ほどまで裂けている、もはや狼とは言えない、異形の姿がありました。



『グルオオオオオオオオオオオ!!!!』



 異形は信じられないほど口を大きく開き、聴覚を破壊するほどの大声で吠えました。

 顔に唾液がかかり、私の頬は焼けるように痛みましたが、それどころではありませんでした。


 私は少しでも逃げようと後退りしましたが、咆哮を終えた異形も少しずつ近付いてきていました。

 走って逃げようにも左足の痛みで立てず、そのうち、後退りも大きな木の根に阻まれて、できなくなってしまいました。



「うっ……」



 もう助からない。

 そんな言葉が私の頭に浮かびました。

 実際に、それほど絶望的な状況でした。


 同時に、私は思い出していました。

 毎朝、私よりも早く起きて朝食を作ってくれていたお母さん。

 私が勝手に仕事場に入っても、怒らずに薬の調合を教えてくれたお母さん。

 私が難しい本を読んだり、ご飯を作ったりしたら、褒めてくれたお母さん。

 朝起きると、冷たくなってしまっていたお母さん。


 それはもしかすると、走馬灯に近いものだったのかも知れません。

 ですが、私がここで死んでしまえば、きっとお母さんも助からない。

 私は、どうにもならないと分かりつつも、涙で滲んだ視界の中に、しっかりと異形の姿を捉えました。

 きっと死んでしまうとわかりつつも、両手の拳を握り、恐怖を押し殺しました。

 それでも異形は容赦なく迫り、前足が地面に突き立てられました。


 そして、薄暗い森の中でもはっきりと見えるほど近くに。

 体を前に倒せば、触れてしまいそうなほど近くに。

 異形の姿が現れ、首を傾け、私を丸ごと飲み込めてしまいそうなほど大きく口を開け。

 無数の刃の突き出す赤い壁が、私に向けて跳び、私を押しつぶそうとするように迫り。

 私はただ、それを、しっかりと視界に捉え、背中を木の根に押し付け、拳を握ることしかできず。


 それでも瞼を開き続け、目に焼き付けたのは



「飛んでいけ!!」



 麻痺した聴覚に、はっきりと響いた声と共に



「えっ……?」



 眼前の異形が、何かに打たれ、吹き飛んだ。

 その光景でした。

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