海と残響とレモンソーダ

「海レモン、食べない?」

 唐突にシアンがそんなことを言い出した。


 それはなに、と私が訊くと、彼は面倒臭がらずに説明してくれる。

「海で獲れるレモンだよ。甘さと酸味の具合が絶妙でさ、海水で作るレモンは陸のレモンより甘いんだ。海レモンを絞ったソーダは海の名物なんだけど、あれだけは毎年食べたくなるくらい好きなんだよね」

 普段テンションが低いシアンが少し明るい。


 そんな珍しい様子のシアンに誘われ、私たちは列車に乗って海へ向かった。

 夏の日差しが窓から差し込む。日の当たる場所は列車が進むにつれて変わっていき、光に当てられると陰にくすんだ列車内が明るい色に変わった。

 海辺の駅を降りた瞬間、吹きつけた生温い夏の風に潮の匂いが混じっていることに気づいた。駅を出て少し歩くと、もう海だった。人の足跡が刻まれた砂浜に、心を洗うような清らかな波音が押し寄せてくる。


 砂浜に座ってのんびりしている人、海に入って遊んでいる人、向こうのワゴンカーの前で何かを飲んでいる人などが海辺に散らばっていた。こんなにたくさんの人がいる空間に出るのが久しぶりな気がする。焼けつくような熱気と相まって少し頭がくらくらする。

 海を見て固まった私を、フードをかぶったシアンが怪訝そうに覗き込む。

「海は初めてだった?」

「ううん。行ったことはあるはずだけど……」


 海に連れて行ってもらった記憶はある。でも私は積極的に泳いだり遊んだりするタイプではなかった。海が楽しかった思い出なんてほとんどなくて、海が新鮮に感じるだけだ。

「泳ぎたかったら泳いでもいいよ」

「……いい。得意じゃ、ないから」

 シアンはそう、と言って例の飲み物が売っている店へ案内してくれた。

 彼はこういうとき、せっかく来たんだから泳げばいいのにとか、子供はかくあるべし、のような押しつけはしてこない。ある程度距離を取ってくれているのが私にはありがたい。


 砂浜には下りずに海沿いの道路を少し歩くと、白いワゴンカーが目に入ってきた。傍に看板が立っている。青い文字で「海レモンソーダ」と書かれている。

 シアンは真っ先にワゴンカーに向かっていく。私はスタンドに集まる人の明るい声に気圧されて、ついていくのが憚られた。


 本当に人が多い。他の人の弾けるような笑い声や楽しそうな声が、身体の中でわんわんと残響する。顎から伝った汗が砂浜に落ちた。

 夏の太陽が頭上を焼くように熱くて、声が響くだけで頭がぐるぐる回る。

「シースイ、大丈夫? 具合悪いの?」

 戻ってきたシアンは持ってきたグラスをひとつ私に手渡すと、私の額に手の甲を当てた。


「へいき」

「僕には正直に言って」

「…………ちょっと、くらくらする」

「人に酔ったか、日差しが強いせいかな」

 シアンはグラスを二つとも私に持たせ、そのまま私を抱え上げた。渡されたグラスを両手で持つとひんやり冷たく、触れたところから水滴が滴った。


 いつもと同じパーカー姿のシアンと触れ合っているせいでひどく暑く感じる。汗が止まらない。子供みたいに抱えられるなんて恥ずかしいけれど、頭がくらくらするせいで今はシアンに包まれていると落ち着く。

「辛いときは言っていいんだよ」

「……そうなんだ」

 出かけた先で疲れていたり具合が悪かったりしたら、せっかく来たのにとか、いい加減にしろとか、怒られるのに。言っていいんだ。


 人混みから離れていく。駅から遠ざかるだけで人の声が遠くなっていく。

 人の姿も声もまばらになり、身体への残響も少し収まっていった。

 人のいない場所まで来ると、砂浜へ降りるための階段に座らせられる。シアンはパーカーを脱いで私の頭にかぶせた。日差しを遮るためだろう。暑いけれど、頭に庇があるとふしぎと頭だけは涼しく感じた。頭と視界が回りそうな気分が少しだけ薄らいだ。

 シアンは私の隣に座って、私に預けていたグラスをひとつ手に取った。

「飲んでごらん」

 シアンはそう言いながらストローに口をつけた。


 両手で持っていたグラスを見下ろす。上の方は淡いレモン色なのに、底にいくにつれて深い青色になっている。日に透かすと透明感があってきれいな色合いだった。

 たくさんの氷、表面にはミントと輪切りレモン、それに小振りのバニラアイスが入っている。見た目からも人気が出そうな飲み物だった。

 ストローで軽く混ぜると氷の軽やかな音がした。ストローに口をつける。冷たくて、酸っぱさと甘さがちょうどいい。普通のレモンソーダより甘みが強い気がするが、これが海レモンの味なのだろうか。すぐにソーダのしゅわしゅわとした食感が広がった。こんな暑い日に冷たいソーダを飲むとその喉越しにさっぱりする。


 頭の痛みが少し引いた。アイスもこの暑さにすぐに溶けて、ストローで混ぜてからまた飲むとクリーミーになって風味が変わる。自分で思っていたよりずっと喉が渇いていたみたいだ。気がつくとグラスの中は氷だけになった。溶け残った氷がからんとグラスに当たる。

 普段は見た目がおしゃれな飲み物なんて飲まないけれど、冷たさとソーダの食感でこんなに気分がすっきりするなら、たまにはこういうのもいいかもしれない。


「そろそろ海が満ちる時間だから、暑いとちょうどいいかもね」

「え……?」

 気づいたときには、既に砂浜はみんな海になっていた。

 足の先が海水に触れていて、下半身まであっという間に冷たい海水に浸かった。

「これ、なに? 何で? 満潮か何か?」

 私の慌てようとは別にシアンは落ち着き払っている。

「満潮とは違うよ。夏に一度は、この辺り一帯に海が満ちる。暑いときに全身水に浸かると気持ちいいよ。こんな暑い中、人混みに来る価値はあるね」


 話している間にも海は満ちていき、すぐに私の背を海面が追い越した。音がくぐもる。頭からつま先まで、冷たい水に包まれる。あんなに暑かったのが嘘のようだ。

「目を開けてみて」

 シアンの声が聞こえて、私はそっと目を開ける。

 目を開けても平気だし、息もできる。一面に青い膜がかかったようだった。

 日差しが差し込んで明るい。水面の白い網の目模様の光が砂浜に落ちて揺らいでいる。


 シアンのパーカーがどこかに浚われていかないように掴む。鈍った日差しと水の感触に全身が包まれて、頭がかなりすっきりした。

 しばらく水に包まれていた。身体がふわりと浮いていくような気持ちよさに身を浸して、ずっとこのままがいいなんて思っていたところで、海水が引いていった。

 波の音、日差し、少し遠い人の声、全部が元通りになっていく。


「びしょ濡れだね」

「日差しですぐ乾くよ」

 心地よさから立ち返っても、まだ身体が浮いているような錯覚がする。

 突然シアンがぽつりと口を開いた。

「……ごめんね。僕が海レモンを食べたいって言って、強引に連れてきちゃったから」

 私の具合が悪くなったから、きっと責任を感じているのだ。

「きっと、久しぶりの人混みに酔っただけ。もう大丈夫だから」


 シアンは濡れた髪はそのままに、私の額についた水滴を指でやさしく拭った。ほっとしたようなシアンの顔を見ると、私も安心する。

 溶けた氷が水になっていたので、それを飲むと薄いソーダの味がした。

 海が満ちている間はグラスも海に浸かっていたのに、海水の味はふしぎとしなかった。

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試読「私と死んだ心が森の中」 葛野鹿乃子 @tonakaiforest

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