第5話 眼鏡少女みえの身の上話

 みえは、交換日記に

「ええっ、三千円で食べ歩きするの? できるわけないじゃない」

 中学二年にとっては、三千円は大金である。

 みえは、どんな贅沢な生活を送っているのだろうか。

 

 ある日、みえは珍しく眼鏡を外して、私に懇願してきた。

「私がなぜ、眼鏡をかけるようになったわかる?」

 私はわかる筈がないので、キョトンとした表情になった。

 みえは、身の上話をするように

「私は小学校六年のとき、両親が離婚して母親に引き取られたの。

 そのとき運悪く、交通事故にあってしまって、足と目を怪我したの。

 相手の車は逃げ去っていった。

 それ以来、私は視力が悪くなって、眼鏡生活なの。

 ときどき、勉強家と間違えられるけど、私は勉強は苦手なの」

 私は少々の同情を感じた。


 みえとは、隣のクラスだったが、みえの悪評は私にまで伝わってきた。

 みえはほら吹きであり、人の同情をひくためには、平気で嘘をつく。

 それに第一、みえは学校をさぼり、中年男と腕を組んで地元のレトロ喫茶に入り浸っている。

 そのレトロ喫茶は、奥は麻雀ルームになっていて、一元の客は寄り付きもしない。

 もうみえとは、関わらない方が身のためだよという、忠告を受け始めていた。

 しかし、私にはみえが、根っからの悪党とはどうしても思えなかった。

 ひとつは、みえが眼鏡少女であったからかもしれない。


 交換日記を始めて二週間たった頃、みえは私に二千円貸してほしいともちかけてきた。

 当時の中学年性にとって、二千円とは大金である。

 しかし、みえの絶対に一週間以内に返すという言葉を信じ、私はお年玉の二千円をみえに貸してしまった。


 みえとは隣のクラスであったが、ほとんど登校していないとのうわさであった。

 私はそろそろ交換日記に、二千円返してほしいと書いた。

 すると、みえの返事は

「あの二千円は一週間以内に絶対に返す。だからこのこと、誰にも言わないで。

 この噂が広まったら、私、クビをくくって死んでやる。そうしたら化けてでてやる」

 私は死んでやるという言葉に、恐怖を感じた。

 そして、二千円貸与のことを誰にも言わずじまいにした。

 

 それから約束の一週間後、私はみえに二千円請求の日記を渡した。

 そうすると、信じられない返事が返ってきた。

「ひかる、なにを言ってるの?

 二千円は一週間も前に返したよ。忘れてるんじゃないの?」

 私はあっけにとられた。

 もうこれは、何を言っても無駄だ。

 みえとは交換日記はこれで、最後になり、その翌日からみえは、月に二、三度しか登校しなくなった。


 みえには、たちのよくないヒモ男がついているのだろうか?

 よくあるパターンであるが、なにもできない孤独な人には、人は同情を感じ、面倒をみてやろうとする。

 しかし、その孤独な人がいったん牙をむいて、悪の世界に入ると、もう誰からも相手にされなくなる。

 悪の代償として警察に逮捕されるか、世間からは排除されるかどちらかである。

 ちなみに女性受刑者は全員が男がらみ、半数は既婚者だという。

 みえもそのパターンになりつつあるのだろうか?

 たちのよくないヒモ男ほど、つきまとう女性を放さないという。

 まさにみえが、そうなりつつあるのだろうか。

 私はみえが、別世界の哀れな不幸道まっしぐらに感じた。

 まるでYの字のように、私とみえとは、もう接点のない別々の世界を生きることになった。


 私の想像だが、みえについているヒモ男は、みえが交換日記で私に助けを求めにくると思ったのだろうか。

 そうすると、みえを利用いや売春などに悪用することは難しくなる。

 だから、外堀を埋めるように、みえの身近な友人をみえから引き離そうとしたのであろう。

 みえとの交換日記はこれで終わりを告げた。


 みえは、一か月に数回しか登校しなかった。

 ある日、私はみえが、クラスメートの男子の股間に手を当てているのを見た。

 もうみえとは、別世界に生きる私は、内心呆れたが、見て見ぬふりをしていた。


 そんな中学二年のときの回想が蘇ってきた私は我にかえった。

 なんと眼鏡をかけたみえの方から、私に駆け寄ってきた。

「ひかりじゃない? 私、ひかりを忘れたことはなかったわ。

 中学二年のとき、最初で最後の交換日記をしたたった一人の友達だものね」

 みえは眼鏡の奥から、目を細めた。

 中学の卒業式のとき、みえはたどたどしい仕草で、卒業証書を受け取った。

 もちろん、高校進学は果たしていなかった。


「ああ、みえ。みえが今までどんな人生を送ってたのなんて野暮なことは聞かない。

 まあ、私はOL生活をしていたわ」

 みえはため息をついた。

「OL生活なんて私には夢のそのまた夢、雲の上の世界よ。

 そういえば、ひかりは中学二年から文学少女だったものね。

 ひかりの交換日記の文章には、なんとなく文才が感じられたわ。

 あの交換日記、今でも部屋にしまってあるのよ」

 私は、あっけにとられた。

 もしかして、交換日記をしていた中学二年までが、みえにとっては、唯一まともな社会生活を営み、まともな人間関係を築いていた幸せな時代だったかもしれない。


 みえは自嘲気味に言った。

「実は私、タバコの吸い過ぎで、甲状腺をやられ、バゼドウ病になり、今は心筋梗塞なの。もう、命は限られてるわ」

 眼鏡の奥から見えるみえの目は、充血していた。

 私は、少々哲学的なことを口走ってしまった。

「人は、生きているんじゃなくて、生かされている。

 残された命を精一杯生きるしかないね。

 あっ、これは私のことでもあるのよ。

 私もあと何年生きるかは、誰も保証の限りではないわ」

 みえは、黙ってうなづいた。

「いつか、ひかりに謝ろうと思ってた。

 あの頃、中学二年のときの私は、母親との彼氏とうまくいかなかったんだ。

 もちろん、相談相手もいない。

 ヒモだけが、私の頼る相手だったんだ。

 その夢がかなうとは、これも運命だね」

 みえは、なぜか心臓を手で覆いながら、作り笑いをして背を向けて去って行った。

 それから風の噂でなんと翌日、みえが心筋梗塞で急死したという。

 私は、みえの冥福を祈ったと同時に、私も家庭環境が一歩間違えれば、みえのようになっていたかもしれないと、背筋がゾッとする思いだった。


 翌日、私は相変らず、繁華街の路地裏に立っていた。

 できたら、第二のみえを出したくないという思いで一杯だった。

 突然、野口氏が、立ちんぼ女性の腕を掴んで言った。

「あっ、警察がやってきた。その前に、あなたを保護します」

 こういった場合、取り締まりの対象はなぜか立ちんぼ女性オンリーである。

 男性客は、取り締まりの対象にはならない。


 その前に立ちんぼ女性を保護することが、先決であるというのがNPO法人の対策法である。

 女性は、野口氏に連れられ、野口氏が経営するNPO法人のビルの一室に保護されることになった。

 その一室には、ミネラルウォーターとパンが置かれていて、四十代の地味な容姿の女性ー君江が常時いて、話相手になったりする。

 実は君江も、ほんの十五年前までは、地方の風俗でナンバー1で、風俗雑誌に掲載されたほどであり、当時の風俗界では有名人だったという壮絶な過去をもつ女性である。

 君江は、派手な顔立ちの美人ではなく、平凡な地味な顔立ちであったが、サービス精神旺盛の人の良さで、売れっ子風俗嬢だった。


 君江も、大抵の立ちんぼ女性と変わりなく、男性に利用された過去があった。

 君江は、高校卒業してから都会のデパートに勤務していた。

 そのとき、知り合ったのが洒落たスーツに身を包んだキャッチセールスの男性ー悠馬だった。

 毎日、客として顔を合わす程度であったが、ある日、ブルーのメモ書きを渡された。

「商売抜きで、帰りにカフェでも。

 僕、パスタの美味しい洒落たカフェ、知ってるんですよ。

 でも、男性一人では敷居が高くて、ぜひ、ご一緒して下さい。

 あっ、僕はノンアルコールだから、あなたもそのつもりで来てね」

というメモ書きには、日時が指定してあった。

 君江は、さっそく仕事帰りに悠馬と悠馬推薦のカフェで待ち合わせした。

 なんとそのカフェは、君江には手の届かないホテルのロビーにある高級志向のカフェだった。

 客は、全員がスーツ姿のサラリーマンばかり。

 生活に追われ、節約ばかりを考えていた君江にとっては別世界の空間であり、自分の格が一段上がったような気がした。


 悠馬はその時点では、借金まみれのキャッチセールスであることを隠していた。

 あくまでも、宝石販売と名乗っていたが、いつも敬語で上品な物腰の悠馬に君江は魅かれていった。

 ある日、悠馬は君江に、細いネックレスと指輪のセットをプレゼントした。

 これは、婚約指輪に違いないと君江は舞い上がり、悠馬と下町の小さなアパートで同棲を始めることにした。


 悠馬が借金だらけであるということに気付いたのは、同棲してから翌日のことだった。

 人のいい君江は、自分が悠馬を助けたいという一心で、水商売を始めることにした。

 最初はスナックであったが、徐々に実入りのいいキャバクラに変わっていった。

 君江はあまり話術が得意ではなく、甘言で人を騙すことなどできなかったので、身体一つの風俗へと流れていった。

 個室風俗というのは、金とためとはいえ辛い仕事であったが、君江は本来の人の良さから断ることはできなかった。

 いつしか風俗雑誌に人気ナンバー1キャストと紹介されるようになってからは、君江は素顔で街を歩けなくなった。


 君江はキャッチセールスの男とは別れを告げ、元反社の男性と付き合いだした。

「俺もカタギになるから、お前もカタギになって、堂々と街を歩け」

 その言葉につられ、君江は風俗の世界から足を洗い、元反社との間に、一人娘をもうけた。

 後に元反社は、抗争に巻き込まれ、君江と娘を残して死亡した。

 

 君江はいつ自分が風俗嬢であることを暴露するのか、不安で仕方がなかった。

 一歩外出するときは、サングラスとマスクで顔を隠すようになり、風俗時代の源氏名で呼ばれないか常にビクビクしていた。

 

 そんなとき、野口氏と知り合った。

 野口氏は、クリスチャンであり、毎週日曜日には教会に通っていた。

 元反社牧師の牧会する教会には、少年院出であるとか、元風俗嬢であるという過去のある人も通い、聖書の御言葉を聞き、イエスキリストに祈りを捧げていた。

 

 

 


 

 

 

 

 


 

 

 


 

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