第8話 「だから平民は」
デート明けの週明けの朝。
エメリアのアパートまで迎えに来てくれたオスカーは、傍目から分かるくらいにご機嫌だった。
「おはよう、エメリア! デート、楽しかったな」
「……っ、は、はい」
改めて言われると照れてしまうが、エメリアはこっくりと頷く。もちろん彼女も楽しかったからだ。
「俺に付き合ってくれて本当にありがとう。君が受け入れてくれて、幸せだ」
「――ッ」
オスカーがこうして気持ちを伝えてくれることは初めてではないし、嘘告だと分かってはいるけれど、どうしてかむずがゆくて聞いていられない。
(は、恥ずかしい〜〜!!)
真っ赤になったエメリアは、照れ隠しに持っていた鞄をぐいっとオスカーに押しつけた。鞄を受け取った彼が爽やかな笑い声をあげる。
「お預かりいたしますお嬢様」
「〜〜っ、よろしく、お願いしますっ」
「では騎士団の詰め所までエスコートさせていただきます。足元にご注意を」
「ふふっ」
冗談まじりの彼の言葉に、我慢できず笑みが溢れる。そんなエメリアを見つめるオスカーの表情が一層優しげになった。
「昨日は何をしていたんだ?」
「たいしたことはしていませんよ。部屋の掃除と……――」
二人でいるのにもすっかり慣れてきて、話も自然と弾む。
オスカーと肩を並べて歩いている間中、エメリアの心はずっと温かいものに満ちていた。
もうすぐ詰め所が見えてくる――という段になってオスカーが切り出した。
「ああ、もうすぐ着いてしまうな。エメリア、今日は午後に隣町の騎士団に顔を出しに行く予定になっていてね。きっと遅くなるから、共に帰れないと思う」
エメリアはすぐに頷く。
「承知しました」
「うん。君を家まで送れないのは、俺が辛い。だが仕事だから仕方ない。耐える」
はあ、とオスカーがため息をつく。
「エメリア、帰り道にはくれぐれも気をつけるんだよ?」
まるで親のように心配してくれるオスカーの言葉が、なんだか嬉しい。
「ご心配いただき、ありがとうございます」
「約束だよ?」
「はい、約束します」
「じゃあ、はい」
彼が差し出してきたのは鞄を持っていない、手袋をはめた左手の小指で。
彼を見上げると、オスカーは意外に真剣な表情を浮かべて、エメリアの反応を待っている。
嘘告を受けた日だったら考えられないけれど――エメリアは自分の左手を伸ばして、小指を絡めた。彼の指の温度を感じると、どきどきと鼓動が高鳴った。
(大きな手だな)
「約束、します」
そう言えば、オスカーがくしゃりと表情を緩めてから、微笑んだ。
◇◇◇
オスカーと入口で別れて、人気のない詰め所の廊下を歩いて経理部にたどり着いたエメリアは、いつもは誰もいないはずの室内に、金色の巻き髪の令嬢と、ぎゅっと固く結い上げている亜麻色の髪の令嬢が仁王立ちしているのに気づいて、その場で立ち止まった。
(えっ、なんでこの二人が……?)
まるで待ち構えているみたいだ。
嫌な予感がすると同時に、どくどくと動悸が激しくなる。
「信じられない。貴女、シュワルツ様のなんなの……?」
ひゅっと変な音がエメリアの喉から漏れる。
その反応で確信を持ったのか、忌々しそうにセオドラがエメリアを睨みつける。
「この前二人で帰っていくのを見たときはまさかって思ったけど、今朝も一緒に来るなんて――信じられないくらい、身の程しらず」
「どうせ、貴女から言い寄っているんでしょう?」
セオドラにナディナが同調する。
(もう……バレたんだ……)
さあっとエメリアの顔から血の気が引く。
けれど、まともに取り合わないのが一番だということは、経験上分かっている。エメリアは会釈だけをすると、あとは素知らぬふりで彼女たちの前を通り過ぎて自分の席に行こうとした。
だが。
ぱしっと腕をセオドラに取られてしまい、足を止めるしかなかった。
「……なんでしょう?」
セオドラの顔を見上げると、彼女が両目を細める。
「なんですか、じゃないわよ。貴女、シュワルツ様に取り合ってもらってるって思ってるわけ? どうせ遊びよ、遊び」
エメリアはぐっと口元を噛み締めた。
(そんなの、わかってる。だって、嘘告だものっ……!)
ずきんと胸は痛む。けれど、オスカーの笑顔を思い出し、自然と心の中で続けた。
(嘘告でも、オスカー様はとても親切にしてくださってるわ……っ)
優しい眼差しや言動は――嘘告だったとしても、思いやりに満ちている。それで十分だ。自分だって思い出を作りたいがために彼を利用している。決して彼を責められる立場じゃないから。
「あーあ、シュワルツ様も結局はただの男だったのね、いくら後腐れがないからって、こーんな民草に手を出すなんて趣味が悪い」
オスカーのことを貶められると、エメリアは我慢ならなくなった。
「―――ッ、さすがにその言葉は聞き捨てなりません……っ、シュワルツ様は高潔な方です」
言い返すと、セオドラの瞳にさっと怒りの感情が横切った。
「なんなの、生意気すぎじゃない? 貴女、私たちと身分が同じとでも思ってるの? なんでシュワルツ様に近づくのよ、高潔な人を陥れてるのは貴女じゃない。あーあ、いいわよね、男漁りしていても、平民ってだけで見逃してもらえて」
「……っ」
「平民のくせに生意気なのよ」
騎士団では、表面上は《身分の違い》が出世に関わってはいけないとされている。騎士も文官も広く門戸を開き、それぞれ必要な試験を経た上で採用されている。
――だが。
平民出身の女性の文官は、エメリアだけ。
経理部でも、取りまとめている二人は侯爵家出身だが、その他の三人はそれぞれ伯爵家と子爵家出身。
そしてキーナンとマイケルが、オスカーに偉そうな顔をするのも、ただ彼らの方が家格が上だから。
目に見えない差別は、はびこっている。
平民のくせに。
貴族たちの領域である王都セントラル騎士団に入り込んできて。
それは、経理部に配属されてからずっと彼女たちに言われ続けてきている侮蔑の言葉だ。
平民のくせに、平民だからいいわよね、平民、平民……。
(生まれだけは自分でどうにもならないのに……っ)
言い返そうとして、我に返って、口をつぐんだ。
今言い返したら――、きっと何倍にもなって不愉快な言葉が戻ってくるだけだ。エメリアの心をずたずたに切り裂く
(私……、弱虫だな……)
保身に走った自分を自嘲する。
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