もう大丈夫だ

 静蘭ジンラン憲英シエンインに言われた通り、ただ真っ直ぐ走っていった。騒ぎのせいか途中誰にも遭遇する事は無く突き当たりに出たのだが、曲がり角から誰かが歩いてくる足音が聞こえ、咄嗟に左手にあった部屋に逃げ込む。窓も一切なく、外からの光を遮断しており、何も見えない真っ暗な部屋だ。静蘭が一歩奥へ進むと、急に灯りがつく。他に誰かいるのかと振り返ったが、誰もおらず、蝋燭に火が灯されている。これもきっと法術の一種なのだろう。

 しかし、灯りがついた途端静蘭は目を見張った。この部屋には見慣れた物ばかりが置かれている。父が収集していた剣や刀、絵画、更に式典の際に着用していた衣裳が綺麗に保存されていた。それだけでは無い。静蘭が当時使用してい古琴や琵琶まで保存されているではないか。それもどれも綺麗な状態で、埃を一切被っていない。何も手入れせずとも今すぐ手を付けられそうだ。きっと誰かが定期的に手入れをしているのだろう。

 静蘭はつい懐かしくなり、それらに近づいてしまう。父の遺品は分かるのだが、何故自分の物まであるのだろうか。確かに父が与えてくれたものではあるが。

 その時、襖が勢いよく開く音がした。後ろを振り向くと、そこには刀をこちらに向けている女がいた。しかし、どうにもその女にも見覚えがある。


禅離シェンリー……だよね?」


 容姿は静蘭の知る護衛の禅離なのだが、どうにも雰囲気がおかしい。静蘭の知る禅離は人懐っこく元気な者なのだが、目の前の禅離と思われる女はただ無表情でこちらを見ており、まるで野良の狼のようだ。それに静蘭の事を認知していない。

 禅離は静蘭の問いに何か答えるでも無く、今にも飛びかかってきそうな構えだ。凍てつくような警戒心を向けられ、静蘭も一瞬躊躇ったが、心の中で父と手入れをしていた者に謝りながら念の為に一番近くにあった剣を握る。刃の部分に指に当てると、指先から赤い糸のような細い血の筋が流れる。斬れ味は問題無い。

 ここではもう以前の性格なんて宛にしない方がいいだろう。覚悟した静蘭は後退りしながら剣を握る手にぎゅっと力を込める。禅離は静蘭を一歩ずつ追い詰めていった。その間、お互い何も言葉を発する事は無く、ただ衣と衣が擦れる音と足音だけがとても鮮明に聞こえた。静蘭が何も無い壁まで追い詰められると、禅離は素早く剣を振りかざした。それはほんの一瞬で、剣を受け止められるのは才覚のある剣客のみと思わせられる完璧な攻撃だった。しかし静蘭は反射的に剣でそれを受け止め、更には流したのだ。その反動で禅離は一歩後退り、静蘭はその間に間合いを取る。

 さて、どうしたものか。まさか自分が禅離に勝てるとは思ってもいないが、戦いに慣れていない静蘭は加減を間違えてしまえば下手に傷付けかねない。かと言って本気でやらなければこちらがやられる。

 憲英はここの者は静蘭を殺せないと言ったが、この禅離は違うように感じる。表情もそうだが、動きから見てもまるで魂の無い傀儡のようだ。先程の一振は完全に追い詰めた獲物を仕留める動きだった。

 何とかして撒いて逃げ出したかったが、そうにもいかない。禅離は立て直すと再び静蘭に襲いかかってきた。瞬く間も無い程の剣撃を見せてくる。静蘭はそれを一つ一つ受け止めるも、静蘭からは一向に攻撃に移すことが出来ない。

 そこで静蘭は攻撃を受け止めながら自然に遺品を置いてある台の方へ歩み寄り、被せられていた紅い布を左手で引き抜くとその台の上に乗り、上から禅離へ投げ被せた。

 この布は中々の厚さと長さであるため、ほんの僅かな時間ではあるが禅離でも布を剥がすのに少々手こずってしまう。静蘭はその一瞬で剣の柄の方を禅離に向け、首の頚椎に打撃を入れた。

 一瞬禅離の動きが止まったと思えば、まるで糸が切れた操り人形のようにプツンとその場に倒れてしまった。

 ……もしや、やり過ぎたのでは?流れからして彼女も人間では無いだろう。ならば簡単には死なない……というか致命傷にはならないとは思う。だがこんなにあっさりいくとは思ってもいなかった。

 恐る恐る禅離に近づくも反応は何も無い。瞬時に禅離の手から剣を抜き取り、たまたまその辺に落ちていた適当な縄で彼女の手を縛った。


「ごめんね禅離。ちゃんと助けは呼んでくるから」


 これ以上暴れられても困るため、一応身動きを取れない状態にしてから静蘭は部屋を後にした。

 今度こそ突き当たりに出ると、憲英が行っていた通り見張りらしき男が二人立っている。心を落ち着かせ、ゆっくり歩いていくと男達は静蘭に気がついて頭を下げた。


「公主殿下、どちらへ行かれるのですか?お部屋へお戻りください」


 さて、何と言い訳をしようか。外の様子が気になった?それだと大丈夫だからと部屋へ戻されてしまう。母はどこにいるか?それこそ誰かが琳を呼びに行ってしまう。禅離のようにいっその事武力行使で何とかするか?いや、流石に二人相手は無理だと思う。憲英には我儘でどうにかしろと言われたものの、肝心な時に限ってその我儘が何も出て来ない。

 静蘭は心を決めると、何を思ったのか走り出した。

 そう、静蘭は強行突破を選択したのだ。見張りの男達は一瞬何が起こったのかときょとんとしたが、事態を把握すると追いかけてきた。よくよく見れば静蘭は剣を手に持っているではないか。


「殿下!お戻りください!今外に出られては危険ですよ!」

「まさか脱走するおつもりですか?!」

「殿下!何でこんなに速いんだ?!」


 静蘭はこの十九年間、これまでに走った事があっただろうか?いいや、これが初めてだ。このまま霊玄リンシュエンを見つけるまで走れというのだろうか。それもあまりにも無謀すぎる話だ。だが今はそんな事を考えている余裕も無く、とにかくあの男たちを撒くのに必死だ。

 途中、履物が邪魔で脱ぎ捨てると、はしたなく思う気持ちを捨て置いて無我夢中でとにかく走った。それにしても何て広い建物なのだろうか。

 どのくらい走ったか自分でもわからず、後ろを振り返るともう男達はいない。ホッと一息をつくと、前方に轟々と燃え盛っている建物を見付けた。

 あそこに霊玄がいる。何故だかわからないが、静蘭の直感がそう言って聞かない。

 もうどうにでもなれ!そう重い、静蘭は燃え盛る建物へと再び足を進めた。近付いてみると、どうにも悪寒がする。身体中の血液が逆流するような感覚まで感じられる。建物の周りでは鬼達がわあわあと喚いているが、静蘭が気にせず中へ入ろうとしたら急に衣の裾を掴まれた。


「お嬢さん、まさかこの中に入るつもりかい?やめておきな、中では百花ひゃっか様と黒花状元こっかじょうげんが激しく争っている」

「そうだよ!黒花状元の奴、急に乗り込んできたと思ったら火まで放ちやがった!」

「百花様が直々に出向かれたが、玄武の間の罪人を連れ去られてしまったらしい!」


 玄武の間、という事は黎月は既に救出されたようだ。静蘭は少しホッとすると、鬼達の手を払って建物へ近づいて行く。


「何考えてるんだあの女?!気が狂っちまったのか?!」

「……ちょっと待て、あの女、百花様に似てないか?もしや百花様の分身なのでは?」


 ここでは琳は随分と慕われているらしい。鬼の一人がそう言うと、皆は静蘭に向かって次々に喝采をあげる。後ろを振り向いて否定したいところだが、生憎今はそんなものに構っている暇は無い。

 しかし、こんな燃え盛る建物にいてあの二人は大丈夫なのだろうか?当然だが、少し近付いただけでもかなり熱い。中は蒸し焼き状態になっているのでは?

 入口も見つけられなかったため、静蘭は再び剣を握り締め、比較的火が燃え移っていない場所を選び、壁をぶち抜いた。すると運が良いのか悪いのか、そこはちょうど琳と霊玄がやりあっている場所だった。

 中は結界が張られているのか燃えておらず、思っていたより熱くも無い。その代わり各部屋に別れていたであろう内装は一つの部屋になっていて、どれだけ激しく争ったが目に見えるほど部屋はぐちゃぐちゃだ。

 突然の静蘭の登場に霊玄は目を丸くしたが、何を思ったのか次には鬼のような形相で琳を睨んだ。


「貴様のような者が神仙の類だったとは、天界も堕ちたな」

「それは私も十分感じているわ」


 だが、どうやら優勢なのは霊玄のようだ。琳は所々に傷を負っているものの、霊玄は衣に汚れ一つ無い。動きの一つ一つに余裕を感じられる。

 次にお互いが攻撃態勢に入った時、静蘭は咄嗟に二人の間に入ってしまった。


「なっ……!」


 二人はギリギリで踏みとどまる。


「母上!今回の件は全て母上に非がありますよね?なのになに逆上しているんですか!」

「は……?」


 琳は呆気に取られたかのように静蘭を見つめる。まさかここまで来てそんな事を言いに来たのかとでも言いたいようだ。


「確かに想い人があんな態度だったらそりゃあ悲しくなるとは思いますけど……!それでも他人を巻き込むのは違います」


 静蘭がそう言った瞬間、琳は静蘭の頬を叩いた。それを見た霊玄は動こうとしたが、静蘭によって止められる。だが次の瞬間、静蘭は琳の頬を叩き返した。

 その静蘭の行動には叩かれた琳も、後ろで見ていた霊玄も呆気に取られる。暫くの間沈黙が澱む。まさか静蘭があれほど大雪に思っていた母を打つなんて。


「お前に何がわかるっていうのよ?!あんたは良いわよね、無理に嫁がされたとしても相手を愛せて、その相手からも愛されるなんて!恵まれたお前に私の気持ちがわかってたまるか!」

「確かに私は恵まれています!母上の言い分もわかりますよ、私はきっと母上の苦悩の三割も理解が出来ていないでしょう。でもそれと物の善悪が付かないのは別でしょう?私が憎いとはいえ周りを巻き込まないでくださいと言っているんです」


 壮絶な親子喧嘩だ。双方がキャンキャンとまるで子犬のように言い合う姿を霊玄は一歩下がって俯瞰して見ていたが、もう待ちくたびれたかと言うように間に入る。


「百花四神。お前の言い分はよく分かった。だが俺はお前に同情は出来ないようだ。これ以上静蘭を傷付けるのなら、俺は容赦なくお前の命を貰う」


 霊玄の無情な物言いに静蘭も流石に固まってしまう。違う、自分は母を憎んではいない。静蘭は再び剣を向ける霊玄を宥めるように言う。


「待ってください。話し合いで解決しましょう?母上、私はあなたを憎んでいないし嫌いにもなれません。でも今回の事はいけないと言っているんです。共に霊玄様に謝りましょう」

「お前が謝る必要は無いだろう?それに百花四神には謝罪なんて求めていない。ただ己のした事を償え。それだけだ」


 静蘭は琳を真っ直ぐに捉えてそう言ったが、それを琳は鼻で笑うように返した。


「誰がそんな事をするか」


 琳は霊玄の隠しきれていない殺気を目前にしても取り乱すことは無く、それどころか毅然とした態度を一貫している。流石の霊玄もそれには腹が立っているらしく、自分の前に立つ静蘭の裾を軽く引っ張り自分の後ろへやると、再び剣を持ち構えた。


「女にも容赦しないっていうの?噂通り無情な男ね」


 くくく、と奇妙な笑い声をあげてそう言う琳はとうとう気が触れたのだろうか。


「鬼と神仙となれば男女の差はあまり関係無いだろう。ましてやお前は静蘭を傷付けた」

「何よ、傷なんて付けてないじゃない。それに元々私の息子よ!産んでやったんだから私がどうしようと勝手でしう!」

「……もう良い、口を開くな。不快極まりない」


 静蘭は二人のやり取りを後ろでただ見ていただけだが、霊玄の背後からはとてつもない殺気を感じ取れる。先程も殺気を隠していなかったが、今は数日ぶりに檻から出された腹を空かせた虎のように理性があまり働いていないようにも見える。静蘭が止めようとするよりも早く霊玄は動き、琳の足の腱あたりに太刀を入れる。何が起こったのか一瞬の間で、琳も静蘭も何が起こったのか頭での処理が追いつかない。琳はその場に力なく倒れ込み、やがて自身の置かれている状況を理解したようだ。琳の顔の血色が一気に引いていく。

 琳は霊玄がここまでだとは思っていなかった。五百年間彼とは一切の接触は無く、噂を耳にするだけだった。それはどれも残虐非道な噂話ばかりだったが、どれも無知で無力な人間共に対する噂話だ。それに結局何度も天帝により封印されかけているとか。噂話は噂話に過ぎないが、それでも神仙の力を持つ自分には勝てるわけがないと考えていた。

 霊玄は琳の鼻先に触れるか触れないかの距離で剣を止めるが、ふと我に返ったように呟く。


「……しまった」


 それは何に対するしまったなのだろう。静蘭が止めたにも関わらずやり過ぎた事へのしまったなのか、それとも琳とは関係していない事で何か思い出したのか。だが、それはすぐに知る事となる。


「大方聞いていた通りのようだけれど……百花殿。これは一体どういう状況なの?」


 静蘭と霊玄の背後からは零れ桜のようにか細く、また澄んだ上品な声が聞こえる。静蘭はその声にどうも聞き覚えがある。


「……真光ジングァン将軍?」

「あら、静蘭殿。お久しぶりですね、何故あなたがこんな所に?」


 その声の主とは正しく武神・真光将軍もとい盛翠艶ションスイイエンであった。静蘭は翠艶の問いかけに何と答えたら良いのかすぐに思い浮かばず、なんとも言えない苦笑いを顔に浮かべる。翠艶は険しい表情を浮かべると、霊玄の方を睨んだ。すると静蘭は慌てて否定する。


「違うんです、真光将軍。この百花……私の母は私と彼の身内を騙して誘拐し、酷い仕打ちを。彼女が罪を認めないため双方争っているのです」


 翠艶は霊玄と琳の双方の様子を伺うと、未だ琳に向けられている霊玄の剣に自身の薙刀を乗せて下ろすように促す。霊玄も特に何か反応を示すでもなく、素直に剣を下ろし、宙に投げる。すると不思議な事に剣は霧のように消えていった。


「静蘭殿、大丈夫ですよ。私は水伯から事の発端から全てを聞いていますから。私は彼女を連行する為にここへ参ったのです」


 水伯だって?何故水伯が事の発端から全てを知っているんだ?そうは思ったものの、それよりも今の発言は静蘭にとって聞き捨てならないものだった。


「母を連れて行くって……天界へですか?」


 いつの間にか琳は神通力封じの術を掛けられており、手首には神通力で編み出された特殊な手枷が掛けられている。琳は顔色を真っ青にしており、僅かに震えているのが目に映る。

 琳に対してどうしても情を捨てきれない静蘭は翠艶に向かって頭を下げた。


「真光将軍……お願いです、母に寛大な処分を」


 翠艶は比較的若い神仙であり、花伯・百花四神の貶謫事件についてはあまり詳しくない。まして琳が天帝の汚点とも言える部分の被害者とあらば、現天界で真実を知る者が一体何人いると言えよう。

 それにこんなに怯えて震える母を見るのは初めての事で、天界での生活は想像に絶する程暗い記憶なのだろう。やってしまった事は間違っていたとしても見捨てる事は出来ない。

 ただじっと静蘭だけを見つめていた霊玄がここでようやく言葉を発した。


「真光将軍。その女は__」


 静蘭に代わり霊玄が琳の事情について全て話した。実の所、霊玄にも思う所が無いわけでは無い。琳の今回の行動や言動は全て許し難いものではあるが、霊玄もかつて明皇大帝から被害を受けていた側の者だ。再び奴の元へ帰るなら彼女はまだ命を差し出した方が良いのだろう。その気持ちだけは十分に理解出来る。

 それに腐っても静蘭の実母で霊玄の義母だ。先程まで痛め付けたのは事実だし、実際黎月に大した怪我は無かった。静蘭が手負いなのは何より許し難い事だが。


「……あいつ、勝手な行動をしやがって」


 霊玄はそう小さく呟くと、翠艶と向き合った。


「この事を他に知る者は?」

「ここにいる者と水伯だけ」

「ならば真光将軍。俺と取引をしよう」


 翠艶は一瞬驚いたような表情を見せたが、固唾を呑んで霊玄に言った。


「取引?それは天界と?私個人と?」

「将軍個人とだ」


 しかし、霊玄の予想とは裏腹に翠艶は首を横に振った。


「いけません。私に利点があったとしてもそれはお引き受け出来ません。私は意外と保身的なので」


 翠艶と霊玄が個人的な取引をしたとする。だがそれが他の神仙、もし明皇ミンホアンの耳に入ってしまえば翠艶は果たして追放だけで済むだろうか?いいや、翠艶だけじゃない。夫である南方風師ナンファンフォンシーも懲罰をくらう事になるだろう。それに翠艶も霊玄の言う取引の内容は大方予想がついている。

 目の前の琳の身柄と処分はこちらに任せろという内容だろう。そもそもこの事については天界は直接関わっていない。全て霊玄とその周り、そして琳との間に起こったことなので関与する必要は無いのだ。だがしかし、その琳がまさか明皇が長年探していた琳だったとなると話は別だ。前々から百花四神が怪しいと明皇は目を付けており、翠艶は王菱ワンリンに頼まれて度々百花領域へ訪れていた。もちろん琳本人に天界で行われる元宵節の宴に招待すると持ち掛けたのも翠艶なのだが、琳はどんな条件を出そうと首を縦には振らなかった。

 だが明皇はほぼ確実に百花四神が探していた琳だという事に気が付いており、霊玄がこうやって琳を攻めていなければ遠くない未来明皇は百花領域に襲撃を仕掛けていただろう。なのに先に霊玄にその琳を先に奪われたと明皇が知れば、とんだ大事になりかねない。

 一時的に神通力を封じられた琳は静かに涙を流していた。これならもっと早くに死んでおくべきだったと後悔しながら。その琳の表情はどれだけ暗く悲痛なものだったのだろうか。翠艶はそんな琳の様子を目に入れてしまい、心の中で葛藤が生まれる。

 そもそも神とは一体何なのだ。自分は何のために女でありながら武器を取り、戦うことを選んだ?自分は何のために飛昇し、神になった?

 衆生を救うなんて馬鹿馬鹿しいと、いとも簡単に言い放った明皇に対して翠艶は絶望したのを覚えている。それと同時に自分は神の身でありながら、この世に神はいないのだと悟った。

 翠艶は段々自分の呼吸が荒くなるのを感じる。心の中で葛藤の末、翠艶は覚悟を決めて言い放った。


「……やはり彼女の身柄は……あなた達に任せます」


 結局、彼女は目の前の弱き女を助けた。大事になった時はその時だ。


「感謝する。取引の内容を言っていなかったが、この女の処分と身柄をこちらに任せる代わりに、明皇大帝には俺から挨拶を入れておこう。その水伯とやらは口が堅いのか?」


 翠艶は段々と心が晴れていく感覚がする。翠艶の予想とは少し違い、霊玄の取引の内容とは翠艶がこれに関わってしまった事実を隠蔽する事だった。それならば翠艶の周りに直接被害が及ぶ事は無い。


「さあ。水伯は普段姿を現さないんです。多分その姿を知っているのは天界でも極一部で謎多き人物ですから」


 翠艶は今回の事について水伯の使者から聞いたもので、水伯と顔を合した訳では無い。ただ明皇は水伯に絶大な信頼を寄せているのは事実のようで、本来の水神としての役割の他に表沙汰に出来ないような仕事を受け持っているという噂は聞いた事があった。


「まあいい。今回の事については他言無用で頼む」

「水伯は既に帝君に話してしまっているかもしれませんよ?」

「それは無い。安心しろ」


 一体霊玄は何を根拠にそう言えるのかは分からないが、何となくこの者がそこまで言うなら大丈夫かと翠艶は思えた。

 琳は自分に一筋の光が差し込むと涙を止めたが、霊玄に捕えられるというのが屈辱的らしい。今度は歯を食いしばって静蘭を睨み付けている。

 霊玄がその事に気が付くと琳に向かって掌から軽い一撃を放った。


「勘違いするな。お前を天界へ引き渡さなかったのはまだ聞き足りない事が山ほどあるからだ。助かったと思うなよ」


 琳は神通力を封じられた以上抵抗する気は無いようで、更に霊玄に一撃を入れられてかなり大人しくなった。ようやく諦めたようだ。

 翠艶はもう自分の出る幕は無いと判断すると、霊玄と静蘭に向かって拱手をし、百花領域を後にした。

 霊玄は琳に近付き、無抵抗の琳の首筋に人差し指と中指を当てる。すると次の瞬間、琳はその場へ倒れ込んだ。

 静蘭が心配そうに琳の顔を覗き込むと、後ろから霊玄に艶やかな深紅の外套を被せられる。


「大丈夫、少しの間眠らせているだけだ。目覚めたら傷も全て癒えている」


 霊玄はそう言うと、軽々と静蘭を抱き上げた。


「な、何してるんですか?」

「何故履物を履いていない?足から血が出ている」


 静蘭は気が付いていなかったが、その白玉のような綺麗な足からは血が出ており、しとうずは一部が血で赤く染まっていた。きっと履物を脱ぎ捨てた後、走っているうちに足を傷付けてしまっていたのだろう。


「見張りから逃げている途中、履物が邪魔だったので脱ぎ捨てて走ったんです。でも痛くないし、大した傷じゃありません。自分で歩けます」


 一件落着……とはいかないが、一段落ついた所で静蘭はようやく傍に霊玄がいることを実感する。一体どのくらいの時間が経っていたのかはわからないが、かなり久しぶりのように感じてどこか緊張してしまう。なのにこんな風にいきなり抱き上げられると心臓に悪い。静蘭は降りようと霊玄の腕の中で藻掻くが、力強く抱かれており、びくともしなかった。


「ダメに決まっているだろう。大した傷じゃないだと?血がこんなに出ているのに。帰ったらちゃんと治療しなければ」


 霊玄は縮地の術を使って壁と天趣城を繋げる。そして静蘭を抱いていないもう片方の手で枝垂れ柳のような鞭を召喚すると、それを眠っている琳に巻き付かせ、歪んだ空間の中へ足を踏み入れた。

 

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