万寿菊

 静蘭ジンランが睡蓮宮へ戻ると、出迎えたのは珠環ジューホアンだった。


「お帰りなさいませ、鬼王妃様」

小環シャオホアン黎月リーユエはどこ?」

「黎月様はまだお帰りになられていなくて……」


 霊玄リンシュエンからは黎月は今日には戻ってきていると聞いていたのだが。だがあの黎月の事だ。酒に酔い潰れてどこかで寝落ちなんて事も有り得る。いいや、その線が高い。黎月の強さは知っているし静蘭が心配するような事は無いだろう。

 しかし黎月は就寝の時になっても帰って来なかった。珠環も不安がっており、ここまでくると静蘭も心配になってくる。

 その時、寝所へ向かってくる足音が聞こえた。黎月かと思ったが、黎月はもっと日頃からドタバタとうるさいのに対してこの足音は静か且つ軽快なものだ。


「霊玄様?」


 静蘭がそう問うと霊玄とは違う声で返事が返ってきた。


「鬼王妃様、権玉シュエンユーです。直接参った御無礼をどうかお許しください。鬼王様からの伝言を仕っております」

「わかった、入って」


 権玉は相変わらず目の下に隈を付けており、凛々しく気品のある顔が台無しだ。確かに会う度に書類やら後始末やらに追われているようで今にももう一度死にそうな顔をしている。


「鬼王様曰く、面倒事が発生したため数日帰宅出来ないとの事。こちらで何か問題が発生したらこの権玉と黎月に頼んである、と」


 権玉は寝所を見回すも、黎月の姿が無い事に気が付いたようだ。


「黎月はどこへ?」

「それがまだ帰ってきていないみたいなんだ。権玉こそ黎月から何か聞いていない?」

「……何も聞いていませんね」


 また面倒事が発生した、と権玉がため息をつく。


「酒場をあたればどこかで寝落ちしているはずです。配下の者に回収に行かせますのでご安心を」


 権玉も静蘭もやはり考える事は同じだ。権玉に至っては黎月の扱いを十分に心得ており、黎月が主人の姪という事を知っていながらこの扱い様である。


「それでは私はこれで」

「わかった、ありがとう。小環ももう遅いから休んで」

「はい……」


 権玉も小珠も出て行くと、静蘭は閨の上にだらしなく寝転がる。そういえばここへ来てからは毎晩霊玄が隣にいたため、一人で眠るなんて久方ぶりだ。もう眠ろうとちゃんと閨に入って目を閉じるも、どこか物足りなさを感じてしまい眠れない。しばらく目を瞑って眠ろうとしたのだが、やはり寝付けなくて観念した静蘭は少し散歩をする事にした。

 軽装で睡蓮宮を出て、後宮あたりを一周する。よくよく考えてみれば静蘭の行動範囲はとても狭く、天趣城の全てを回った事は無い。後宮だって睡蓮宮より後ろには足を踏み入れた事すら無いのだ。奥の方に進むと、建物が多くなってくる。そういえば黎月が奥の方には侍女達の宿舎があると言っていた事を静蘭は思い出した。

 いくら静蘭とはいえ、皆が休んでいる静かなこの時間に宿舎あたりを彷徨くととんだ勘違いをされかねない。そう思った静蘭は足速に戻ろうと来た方向へと体を翻した時だ。


「鬼王妃様……?」

「黎月?帰っていたのか?」


 突如声をかけられ、後ろを振り返るとそこには俯いた黎月がいた。ただ、どこか雰囲気が違うように感じる。明るく天真爛漫でお転婆な黎月では無く、良く言えば落ち着いていて物静かになった黎月と言ったところか。どこか元気が無いように見えるのだ。二日酔いかと思ったが、そういうわけでも無さそうだ。


「どうした?何かあったのか?」


 静蘭が気を遣いつつそう聞くと、黎月はやっと顔を上げる。だが目は潤んでおり今にも泣き出しそうで、拳をぎゅっと握って何かと葛藤しているようにも見える。明らかに何かあったのだろう。慌てた静蘭が黎月に駆け寄り、少し屈んで顔を覗き込む。


「本当にどうしたんだ?体調でも悪い?」


 いつもよりも優しい声でそう問いかけるも、黎月はじっとしたまま口を開かない。いくら二人の仲とはいえ黎月は女子だ。不用心に女子に何か問いただし続けるのも気が利かないと思い、静蘭はそれ以上理由を聞くのを止めた。


「着いておいで。お茶を飲んで一度落ち着こうか」


 はっきりとは聞こえなかったが、そよ風のような小さな声で「はい」と聞こえたような気がしたので静蘭はそのまま睡蓮宮へと歩いた。道中、二人の間に会話は一切無かった。

 睡蓮宮へ辿り着くと、黎月が茶の準備をしようとしたので静蘭はそれを制止し座って待つように言う。静蘭は茶を淹れるのは得意であった。というのも静蘭の生い立ちがそうさせたのだが、自分でも上手いという自負があるくらいだ。しばらくして黎月に茶を差し出し、黎月はそれに口を付ける。


「……美味しい。鬼王妃様は本当に何でも出来るんですね」

「そうかな?ありがとう。でも何でも出来るなんて事は無い。霊玄様や黎月と違って私は男なのに戦力にもならない。神通力が使えるわけでもないし、ここに居たって正直生産性が無い存在だろう?」

「そんな事はありません!」


 静蘭が自虐を交ぜて話すと黎月が突然声を荒らげたと思えば、また押し黙ってしまった。こう見ると何百年生きていようと、まだまだ思春期の女子のように見える。

 だが、静蘭が先程言った事を気にしていたのは事実だ。黎月から否定してもらっただけで少し安堵した。

 すると黎月は細く震える声で静蘭に言った。


「鬼王妃様……私の母を助けていただけませんか?」

「母……黎月の?」


 静蘭は驚いた。確か黎月の母、つまり霊玄の妹の話は詳しくは知らない。だかてっきりもう亡くなって成仏しているのかと思っていたのだが、まさか彼女も鬼となったのだろうか。それにしても黎月が助けて欲しいなんて只事では無いのだろう。


「母上は鬼王妃様にお会いするだけで助かると言っていました」

「……お母上には一体何が?」


 理由を聞けば先程と同様黙りだ。何か話せない理由があるのか、話したくないデリケートな問題なのか。しかし後者の場合、何故静蘭に頼んだりするのだろうか。話せないような内容ならばわざわざ静蘭に助けてなんて言わない。

 静蘭も助けてあげたいのは山々なのだが、果たして役に立つのかどうかが分からない以上安易に頷く事は出来ない。気まずい空気に耐えかねた静蘭は、また高級そうな茶器をじっと見つめてどうしたものかと考える。


「一度霊玄様に相談してみては?権玉に知らせて……」


 静蘭がそこまで言うと、黎月は慌てた様子で否定した。


「い、いけません!」

「どうして?」

「………それは……それだけはいけません」


 黎月はそう言うと、何かを決意したかのように突然立ち上がった。


「すみません、鬼王妃様。絶対に悪いようにはしませんから」


 静蘭はだんだんと瞼が重くなっていくのを感じた。なぜだろうか。茶には何も入っていないはずだ。黎月も術を使ったような仕草は見せなかった。意識が途切れる寸前、黎月が足元に香が置いてあるのが見えた。香特有の匂いも一切していなかったが、これは何か特別な香なのだろうか。呑気にもそんな事を考え、静蘭は意識を手放した。


「あぁ……ごめんなさい鬼王妃様……ごめんなさい……!」


 黎月は眠らせた静蘭と共に、縮地の術でとある場所へ移動した。

 次に静蘭が目を覚ました時、静蘭は見知らぬ部屋で足枷を付けられていた。あまり意識がはっきりしていないものの、ここが睡蓮宮でも天趣城でもない事はわかる。

 やがて意識がはっきりし出すと、部屋を見渡す。簡素すぎる部屋で、生活感は一切感じられない。というより本当に静蘭以外は何も無い。ここに連れて来たのは黎月なのだろうか。

 動こうとするも、足枷が邪魔でどうにも一定の範囲以外は自由に歩く事が出来ない。


「黎月!黎月は無事か!」


 声を張って黎月を呼ぶも、何の反応も無い。彼女は無事なのだろうか。そもそも一体何が目的だ。静蘭を拐う理由なんて霊玄に恨みか何かがあるとしか思えない。静蘭自身には大きな利用価値は無いだろうから。

 静蘭の目が覚めて暫く経った時、襖の奥から声が聞こえた。


「あの女鬼は白虎の間にでも閉じ込めておきなさい」


 やがて足音が近付き、襖が開かれた。

 中に入ってきたのは薄桜の衣を羽織った美しい女だった。女は静蘭を視界に入れると蔑むように怪訝な顔をしたが、静蘭は女の姿を見た瞬間から驚きのあまり体が硬直して動かなくなっていた。


「は、母上……?」

「……」


 そう、その女とはリンだった。

 しばらくしてハッとすると、静蘭はとうとう自分の目がおかしくなったのかと思い、自分の頬を叩いた。だが目の前にいるのは紛れもなく死んだはずの母だ。そしてその後ろには同じく死んだはずの護衛の女が一人いる。


「何であなたも……母上、生きていたんですか……?」


 静蘭はもう一度母に会えた喜びと戸惑いでどうにかなってしまいそうだ。それに状況が読み込めない。


「お前の母はあの時死んだ。優しくて娘思いの母はあの時に死んだのだ」

「……え?」


 しかし返ってきた言葉は想像も絶する程冷たいものだった。琳は持っていた扇子を口元にあて、目を細めて静蘭を見下ろす。


「お前の側近を使ってここへ監禁させたのは私よ。死んだと思っていたのにまさか生きていたなんて。それもあの黒花状元こっかじょうげんの妃ですって?」

「母上、何を仰られているのです……?」


 静蘭の表情も段々と険しいものになってくる。自分の知っている母では無い。母の姿をした偽物だと信じたい。だけれど、目の前の母は本物の母だと本能なのか何なのかがそう言って聞かないのだ。


「もしお前が天界の神仙の目に触れられてもみたら、私が危ないじゃない。死んだと聞いた時は自ら手を下す手が空いたと思ったのに、結局手間をかけるのね」


 琳は静蘭の首を片手でいとも簡単に締め上げた。静蘭は琳の手を掴んだが、人とは思えない物凄い力でびくともかしない。琳の目は冷たく静蘭を捉えており、その瞳はさながら夜叉のようだ。

 静蘭は息が苦しくなり、段々と思考も疎かになっていく。静蘭の手が琳の手から離れて落ちた時、琳も静蘭の首から手を離す。解放された静蘭は激しく咳き込み、過呼吸のような状態になった。

 人間の女性とは思えないほどの力だった。いや、人間では無い。静蘭はそれに気が付いてしまった。母はあの時死んで鬼になったのか?後ろの侍従と共に。


「母上……母上は一体何者なのですか?」

「まだ私を母と呼べるの?大した精神力ね」


 琳は静蘭の質問に答える気は無いようだ。


「お前が自由に出歩いて天帝に見つかったら私が危ない。お前はもう外には出られないからな」


 そう言うと、琳は衣を翻して部屋を出ようとする。しかし静蘭はそれを呼び止めた。


「待って!黎月……私を連れてきた女はどこへ?無事なのですか?」

「ああ、あの女鬼?まあ生きてはいるけれど……あの子もそう簡単にここから出す訳にはいかないわ。黒花状元が乗り込んできたら困るし」

「……その女の母親は?」


 黎月は母親を助けて欲しいと言っていた。もし琳がその母親に関わっており、黎月が琳と静蘭の関係を知っていたのであれば、説得して欲しかったのかもしれない。

 だが、その考えは琳の言葉で打ち砕かれた。


「……ああ!あの女、本当に頭が弱いわよね。女の母親は私が骨灰を飲んで変化した姿だったのに。ちょっと演技して近付いたらすぐに騙されてくれて。おかげでスムーズに進んだわ」


 琳は何がおかしいのか、高笑いをしながらそう言った。

 静蘭は以前黎月から耳にした事があるのだが、黎月の母、玲霞リンシアはかつての永晴えいせい国の皇城跡に太子と共に眠っていたはずだ。まさかその遺骨を琳は掘り起こしたというのだろうか。


「……母上、自分が何をされているのかわかっていますか?!」


 聞き捨て難い琳の行動に静蘭が思わず声を荒らげると、琳はそれすらも面白くないといった顔で再び静蘭を睨んだ。


「たかが侍従の母親の為にそこまで声を荒らげるの?」

「たかが侍従だなんて言わないでください。それに玲霞様は霊玄様の妹君です。この事を霊玄様が知ったら……」


 静蘭が霊玄の名を口に出した瞬間、琳は静蘭の頬を叩いた。


「仮にも私と血が繋がっているというのに、黒花状元に媚を売るな!不快だ!」


 琳は静蘭を叩くどころか叱った事すら無かった。それは静蘭が品行方正で大人の言う事をよく聞いていたのもあるが。月雨げつう国にいた頃の琳は温厚で声を荒らげる事は決してなく、常に落ち着いている人物であった。それが今目の前の琳は、狂乱状態のように声を荒らげ、善行を反する行動をした他にもあろう事かそれを咎めようとした静蘭に手をあげた。果たして本当に琳なのだろうか?静蘭は目の前の琳は母の姿をした別人だと信じたかった。


「……では黎月……私の側近を騙したのですか?黎月の母の姿になって、私を連れて来いとでも言ったのですか?」

「ええ、そうよ。やはり骨灰を飲めば仮相でも気配まで本物にする事が出来るようね。女鬼は胎児だと聞いていたからそこが心配だったけれど、なんて事無かったわ。気配だけで自分の母親だと気が付いたのは中々だけれど」


 琳は散々喋ると、絶望した顔の静蘭を放ってそのまま部屋から出て行ってしまった。

 静蘭には分からなかった。そもそも何故自分の存在が天帝に知られると琳の身が危ないのか。そして琳は先程静蘭の首を絞めた時、確かな殺意を込めていた。なのに何故途中で離してしまったのだろうか。どうやら今の琳にとって静蘭は都合の悪い存在で、それを始末したかったから黎月を騙して静蘭をここへ連れて来たのだろう。

 そもそも全ては琳が悪いのだが、それでも静蘭には罪悪感が残った。自分の母のせいで、自分の存在のせいで黎月と霊玄の大切な玲霞の遺骨を消し去ってしまった事。そして自分の母が黎月の母親に対する気持ちを利用した挙句、どうやら白虎の間とやらに同じく監禁されてしまったことについてだ。

 それに心のどこかで母親がまだ存在していた事に喜んでいる自分がいる。もうあの頃の琳とは似ても似つかないというのに。

 この部屋には窓も無いため時間の流れはわからない。だが食事が運ばれてくる以外はこの部屋に誰かが出入りする事は無く、あれから琳も姿を見せなかった。きっとここへ来てもう何日も経っているだろう。霊玄はこの事に気がついているだろうか。

 何度目かの食事が運ばれて来た時、静蘭は食事を運んできた侍女を呼び止めた。その侍女は狐のような面を被っており、顔は全く見えない。何も言葉を発さないし表情から感情を読み取る事は出来ないが、立ち止まってくれたと言う事は静蘭の話を聞いてくれるという事だろう。


「……母を呼んできてくれませんか?」


 その言葉を聞いた侍女は襖を開けて近くに誰もいないことを確認すると、面を取った。


「殿下……いや、静蘭様。理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」

憲英シエンイン……?!」


 そう、その侍女は月雨国で琳の侍女をしており、静蘭の世話係も仕っていた憲英だった。


「はい、静蘭様。憲英です」

「何故憲英がここに?まさかお前も鬼になったのか?」


 静蘭がそう言うと、憲英は伏し目がちになって答えた。


「いいえ、静蘭様。私は……私達は鬼ではありません」

「じゃあ一体何だというんだ?母上も鬼じゃないって事?」


 憲英は黙りだ。流石にそんなにベラベラと答えることは出来ないのだろう。しかし、この憲英は様子を見たところ静蘭に同情かそれに似た感情を抱いているようだ。その証拠にこうやって話を聞いてくれているし、一つは質問に答えてくれた。

 だが否定するでもなく黙っているならばそれは肯定と取って良さそうだ。では人間でもなく鬼でもなければ妖か、または神仙か。

 静蘭は考え込みながら後者の線は薄いと思った。そもそも神仙なら何故天界ではなく下界にいた?鬼界へ来てからは下界を浮浪する神仙もいると聞いた事はあったが、それはどれも自分の管轄地であくまで監視や見回りが目的だ。後宮へ入った神仙だなんて聞いた事も無い。


「……状況が読み込めない。あの母上は本物?悪鬼に取り憑かれたとか?」

「本物の琳様です」

「ならば私の知ってる母上は全て作り物で、本当の母上じゃ無かったって事?ならば母上はどうして私を嫌うの?」

「……」


 憲英は言葉を詰まらせた。どう答えていいかわからないといったところか。


「憲英。お願い、教えて。どんな内容だって受け止めるから」


 心は酷く痛むが、それでも静蘭の中では思っていたより精神的なダメージは受けていないと感じていた。きっと少し前の静蘭ならば、受け入れられずに酷く心を病んでいただろう。だが、今の静蘭には母だけでは無い。霊玄を始めとした黒花領域の鬼達がいる。

 真っ直ぐな静蘭の視線に、憲英は恐る恐る琳の過去と現状を話した。


「……母が私を嫌いな理由は?父上を愛していたんでしょう?」

「それは……琳様の本当の心の内は私にもわかりません。ですが、国主の愛を一身に受けていた静蘭が憎いと仰っていたのを覚えています」

 琳と静蘭は容姿はかなり似ている。なのに清瑶は静蘭にばかり構い、琳には一切の関心を見せなかったことが悔しかったのだ。

 全てを聞いた静蘭は最初こそ驚愕の事実に動揺したものの、結局は琳の嫉妬が招いた事と悟り、半分呆れていた。だが、琳が清瑶チンヤオの事を本気で愛していたのは先程も伝わってきた。あの薄桜の衣をずっと身に纏っているからだ。


「話は戻りますが、何故琳様を?」

「少し話す事がある。お願い、連れて来てくれない?」

「来てくださるかはわかりませんが……琳様に掛け合ってみます」


 そう言うと憲英は部屋を後にした。ただ彼女は部屋を出る前、静蘭が怪我をした場所を治癒してくれた。憲英は昔と変わっていなかった事に安堵する反面、憲英が昔と変わらないからこそ今の琳が現実だと言う事を思い知らされて、心に棘を刺された気分にもなる。

 憲英が掛け合ってくれたおかげか、しばらくすると琳が部屋へ来た。


「さっさと用件を言いなさい。私はお前なんかに構っている暇は無いのよ」

「母上、私は母上の望む通りになります。死ねと命じるなら死にます。ですから、黎月は解放していただけないでしょうか?」

「……何故?あの女鬼はたかが護衛・侍従でしょう?命を賭す程大事な存在なわけ?」

「母上の心の内は私も知り得ません。ですが、これは私達の問題なんですよね?黎月は無関係なのに巻き込まれたんです。お願いですから解放してください」


 静蘭がそう言うと、琳は懐から短刀を取り出す。何をするつもりかと思えば、静蘭の前に置いた。


「ならばやってみなさいよ。私が死ねと言うなら死ぬんでしょう?」


 琳の表情からは若干の焦燥を感じられる。だが、静蘭は本気だ。霊玄の事を考えると短刀へ伸びる手を止めたくなるが、その霊玄と黎月の大切な人は琳に侮辱されたも同然だ。黎月だってそうだ。以前権玉から聞いた話だと、霊玄は何十年、何百年と黎月を探し続けたらしい。これ以上黎月を危険に晒すような事にはしたくない。

 そもそも琳は天帝に連れ戻される事、他の男の子を産んだ事を知られるのを恐れて静蘭を始末したいわけだ。その静蘭が死ねば黎月だってここにいる理由はもう無いだろう。

 静蘭が死んだとして、霊玄には代わりの妻はいくらでも用意出来るだろう。彼が静蘭に囁いた愛を偽物だと疑うわけでは無いが、今までも静蘭の容姿や上っ面に陶酔する者はごまんといたものの、最後には皆離れていった。そもそも霊玄が何故自分の事をあんなに好いているのか静蘭には検討も付かないし、今まで理由を聞いてもはぐらかされるばかりだった。蘇寧も時間が経てば静蘭になんて飽きて他の女に目移りしていただろう。世の中の愛なんて所詮そんなものだ。だから何も心配する事は無い。

 静蘭は意を決して短刀を握り、首筋にあてる。刃が静蘭の首にあたり、薄く血が滲んだ途端、手首に衝撃が走り、次の瞬間には短刀は静蘭の手から離れて少し離れた場所へ落ちていた。


「……一体何のつもりですか、母上。死ねと命じたのはあなただ」


 そう、琳は静蘭の血を見た途端、物凄い速さで静蘭の手首を叩き、短刀を離させたのだ。これには後ろの侍従も驚いたようで、琳に訴えかけた。


百花ひゃっか様!黒花状元の方はもってあと二日です。二日以内に手を下されなければ、もうどうしようもありません」

「うるさいわね……!わかってるわよ、そんなの!」


 目の前の琳は悲痛な面持ちで、それでも憎しみを込めた目で静蘭を見ていた。もう静蘭には琳が何をしたいのかがわからない。さっさと手を下せばいいものの、何を渋っている。傍から見れば、やるべき事を成せない上に何を目的としているのかもわからず、ぶれまくっている無能な君主だ。


「……百花様、まさか躊躇っているのですか?そんな必要は無いでしょう、百花様に少しでも害を及ぼす可能性がある者はどんな者でも排除してきたではありませんか。今更実子だからと情を棄てきれませんか?」

「……殺すだけじゃ足りないわ。この何も無い空間で時を過ごし、清瑶を奪われた私の気持ちを少しでも理解するといい。黒花状元には代わりの美女を贈れば大丈夫よ。いくら見た目は良くても男より女の方が良いに決まってる。きっと黒花状元は女を知らないから、こいつに惑わされているだけよ」


 侍従の者は納得いっていないようだが、琳の決めた事に逆らうつもりは無いのか、これ以上は何も言わなかった。琳が踵を返して部屋を後にすると侍従の者も後に続いた。結局、静蘭の交渉は失敗となってしまった。

 琳が部屋を出てしばらく経った時、今度は憲英が部屋に入って来た。


「……憲英、母上を呼んできてくれてありがとう」

「いえ。その……平気なんですか?」


 その質問に何と答えていいのか静蘭が悩んでいると、憲英ははっとして頭を下げた。


「ごめんなさい!平気じゃないに決まってますよね。私ったら何て冷たい事を」

「ちょ、ちょっと。大丈夫だから顔を上げて」


 平気じゃないと言えば平気では無いのだが、静蘭は母が生きていた事は純粋に嬉しかった。どんなに酷い事を言われ、母の本心を知ったところで嫌いにはなれないのだ。


「……私は霊玄様の所へは戻らないつもり。彼らにはたくさんの迷惑をかけてしまった。共に母の罪を償おうと思う」

「そんな!静蘭様は何も悪くないじゃないですか」

「……私は霊玄様に母を見捨てろと言われてもきっと見捨てる事は出来ない。多分、霊玄様が母を殺そうとしたら私は止めてしまう」


 話を聞いた以上、琳が天界へ連れて行かれてしまうのも避けたい。静蘭は既に天界の神仙達と顔を合わせてしまっているし、これ以上外で何か目立つ事をしないようにも人目は避けるべきだ。

 結局、静蘭は霊玄の事をそういった意味では慕っていなかったのだろう。霊玄の事は自分を守ってくれる存在で、自分の我儘も許してくれる、兄のように感じていたのだと思う。一度に全てを失って、見返りを求めずに愛してくれたその優しさに甘えていただけだ。国崩しの悪女と呼ばれた時期もあったが、悪女というのは案外その通りだと自分でも思った。全て流されて、結局は裏切る形となってしまった。

 どれほど経っただろうか。何もしないから時間の流れがとても遅く感じるのか、それとも本当に長い時間をここで過ごしているのかはわからない。しかし、静蘭が抵抗を辞めて大人しくなったためか、足枷は外された。と言ってもこの部屋から出る事は許されなかったが。

 誰かが静蘭を誘拐するのを防ぐためか、外からは強力な結界が張られている。憲英は静蘭の世話係に命じられたのか、身の回りの事はほとんど憲英がしてくれる。

 ある時、屋敷が大きな音と共に揺れた。一瞬地震かと思ったのだが、ここは空域だ。地震なんて起こるはずが無い。

 何やら部屋の外も騒がしいし、何かがあったのだろう。


「何事?」


 襖越しに静蘭がそう聞くも、誰からの返事も無い。結界があるからこちらの声が遮断されているようだ。それからも何度か揺れたが、次第に外は静かになっていった。


「静蘭様」

「憲英、外で何かあったの?」


 憲英は焦った様子で部屋に入って来た。何かがあったのは間違いない、一目でわかる。憲英は冷や汗を拭うと、静蘭に言った。


「帰ってください」

「え?」

「お迎えが来ましたよ、帰ってください」


 憲英は周りに誰もいないことを確認すると、静蘭の手を引いて立ち上がる。迎えなんて寄越すのは一人しかいない。


「私じゃなくて黎月を迎えに来たんだ」

「違います!黒花状元は静蘭様を迎えに来たんです!」


 動こうとしない静蘭に痺れを切らしたのか、憲英は少し声を荒らげる。


「私はもうあの人に合わす顔がない」

「もう会いたくないんですか?静蘭様は黒花状元と一緒にいて幸せそうにしていたと聞いていましたが」


 琳は静蘭の様子を見ると、恵まれて幸せそうにしている静蘭が憎いと悪口を叩いていた。四神も同情するような形で琳を慰めていたが、憲英だけは違って見えたのだ。琳は静蘭が憎いのかもしれない。だがただ憎いだけじゃなく、その中には羨望も含まれてる。琳が静蘭に向ける感情は負の感情だけでは無いのを知っていた。


「私は幸せだった。見返りを求めず愛してくれる存在がいて、私はそれを自分がいる場所として良いように使っていただけだったから」

「それの何がいけないんですか?黒花状元もそれで幸せだったからこうやって武力を行使してでも静蘭様を取り戻しに来たんでしょう?」


 静蘭が言い返す暇もなく憲英は続ける。


「それとも静蘭様はもう黒花状元に会いたくないんですか?黒花状元の事が嫌い?」

「……そんなわけないだろう」


 そう答えた静蘭の声は微風のように微かな声だったが、静まり返ったこの部屋の中でははっきりと聞こえた。


「ならば早く黒花状元の元へ行ってください!琳様がここへ来る前に!」

「でも……」

「でもじゃない!」


 憲英がここまで声を荒らげるのは初めて見るため、静蘭はつい弱気になってしまっていた。普段温厚な人ほど怒ると怖いというのは本当だと身をもって知る。


「頑固な人ですね!いいですか、責任がどうのこうの言っていますが静蘭様に責任なんて何一つありませんから。何ならあなたは実の息子に嫉妬するクソみたいな母親のクソみたいな理由に振り回されているだけ。あなたがそのクソみたいな母親の罪を共に背負うなんて、何と馬鹿馬鹿しい事か」

「し、憲英?」


 ここまで主人の事を悪く言う従者が他に一体どこにいるのだろうか。まさか温厚な憲英がこんな賊のような言葉で琳を罵るとは。呆気に取られていると、憲英は力ずくで静蘭を部屋の外に出す。


「いいですか?私は怪しまれないように自分の持ち場戻らなければいけません。ここをずっと真っ直ぐ行けば、突き当たりに縁側があります。見張りはいるでしょうが、口上手く騙して外に出てくださいね」

「口上手くって一体……」

「何でもいいんです!静蘭様に傷を負わせる事は無いでしょうから、いつもの我儘で何とか通してください!」


 そう言うと、憲英は静蘭の背中を押した。


「……この憲英は静蘭様が生まれた時から世話をしていました。恐れながら、静蘭様の事は本当の息子のように思っています。どうか、静蘭様は幸せになってください」

「……ありがとう、憲英」


 静蘭が憲英を抱き締めると、前を向いて進んで行った。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る