4. 喪失

 「忘れるものか」


陸はゆっくり立ち上がる。食器を水で軽く洗い流し、洗剤を手に取る。


「僕にとってもショックな出来事だった。あれから信号待ちが怖くて外を歩けなかった。登校すら厳しい状況に陥ったのは、きっと、僕一人だけじゃない」


水と洗剤を含んだスポンジから、ぐじゅぐじゅと泡立つ音が放たれる。


「あれから、宏樹くんのお母さんは宗教に縋りついた。全財産を手放して、家族も捨て、今は消息不明。宏樹くんのお父さんは、始めこそ、勝手なことをした宏樹くんのお母さんに怒っていたけど、息子も妻も失って、だんだん生きる意味さえわからなくなって……。五年前の夏、首を吊って、亡くなったんだ」


油汚れに苦戦しながら、陸は話す。


「そりゃあ、馬鹿馬鹿しいな」


天の言葉に、ピクリと反応する陸。


「馬鹿馬鹿しい、かな」


兄の方を向くことはない。まだ少し汚れの残る皿を見つめ、静かに言う。


「愛する息子を亡くして、愛する妻がおかしくなって、自分も気が狂ってしまう。これって、おかしいのかな。馬鹿馬鹿しいのかな」


怒ったようにも聞こえる。泣いているようにも聞こえる。顔の見えない弟に、天はゆっくりとした口調で探るように返す。


「自分の命を粗末にした時点で、馬鹿馬鹿しいに決まっている。家族と言えど、所詮は他人。道が閉ざされたなら、新たな道を進めば良い」


「お前は遭難した時、真っ先に自殺するのか」と問われれば、陸は口を閉す。陸は探すだろう、帰り道を。天はそこに住み着くかもしれない。どちらにしろ、彼ら兄弟に『自殺』という選択肢はない。


「人生を道に例える奴がいるが、まさに、その通りだ。例え道が閉ざされたとて、生きてさえいればどこかに道は繋がっている。自殺なんてくだらないことをするのは、決められた道のりをぼんやり歩いてきた、他の道に気づけない、視野の狭い、臆病な人間だけだ。馬鹿馬鹿しいだろう、簡単に死ぬなんて。自殺なんて、実にくだらない」


陸は答えなかった。

 静かな部屋に水の流れる音だけが響く。天は立てかけてあったメニュー表を不意に手に取ると、何をするともなく、その内容を眺めた。


 洗い物を終えた陸が戻ってくる頃には、天はうつらうつらしていた。


「大丈夫?」

「……問題ない」


食後の眠気に襲われているのだろう。目の下に濃い隈ができているところを見ると、長らく、充分な睡眠を取れていない様子である。


「寝る?」

「寝ない」

「眠れないの?」


天は答えられなかった。始めの問いは即答したにも関わらず、二つ目の問いには口を閉ざす。相変わらず嘘をつけない正直者の兄に、陸は少し安心したように笑った。


「そういうところは父さん似だよね」

「親父に? やめろよ、笑えない」


睨まれた陸は肩を跳ねた。


「俺を偽善者で愚か者の親父と一緒にするな。愛だの夢だの馬鹿馬鹿しい。そんなもの、皆、絵空事だ。俺は騙されない。騙されるものか。親父みたいには絶対にならない」


兄の目は鋭かった。先ほどのとろけるような瞳とはまるで違う。憎悪を秘めた色をしている。


「あいつのせいでどれだけ俺たちが苦労したと思っている。あいつの偽善で、俺は……ッ」


 昔、いじめに遭った。それは、陸も承知していた。



 天は優秀だった。顔立ちも良く、頭脳明晰、運動も人並みにできる。決して完璧な超人ではないものの、誰もが憧れを抱き尊敬するような人間だった。それは今も変わらない。

 しかし、そんな彼には、いじめに遭っていた時期がある。中学二年の頃である。ちょうど、彼の父が会社を辞めて食堂を始めた頃。始めの売れ行きはそこそこで、経営困難に陥ることはなかった。このままいけば、普通に暮らすことができていたはずだった。

 安寧を壊したのは、とある思いつきだった。金のない子どもたちが食に苦しむ、というものをテレビで観て以降、彼の父は「子ども、一食無料」というサービスを始めた。当然、そんなことをしていては赤字になる。特に食べ盛りの子どもたちにそんなサービスをしていたらとんでもない。だが、彼の父はそのサービスをやめようともしなかった。ついには、家計をも切り崩して店の経営を続けた。天も陸も新しい物を簡単には買ってもらえず、見るからに貧乏人、という姿に一変した。

 陸のクラスメイトは優しい人が多かったが、何も、優しいクラスメイトばかりではないのが現実である。天のクラスメイトが酷かった。元々、羨まれる人間であった天は、些細な変化に対し、ここぞとばかりに責められた。嫉妬が生んだ悲劇である。とはいえ天に悪いところはないため、父に対する罵倒が大半で、父のせいで辛い目に遭っているという状態である。故に天は父を恨むようになった。いじめっ子たちの言うように『父は偽善者の愚か者』だと信じて疑わなかった。



 「あんな大袈裟な番組に騙された親父が全部悪い。テレビなんて誇張してなんぼだろ。そのせいで家族を苦しめたら元も子もない。それに気づけない馬鹿が……。何が愛だ。何が愛だ。愛なんてクソ喰らえだ!」


兄の姿は見るに耐えなかった。兄をこうさせてしまったのは、他でもない、彼の周りの人間。陸もそのうちの一人である。昔はもっと優しさに理解があった。優しくすることに対し「良いことをしたな」と陸の頭を撫で、褒めてくれたことさえある。その兄が今はどうだ。善心全てを疑い、拒絶している。


 天の良心は遥か昔に失われていた。今の彼に残されていたのは、疑心と冷酷な心のみ。天の背は、陸から遠ざかるばかりだ。生きる世界が違うようで、同じ空間にいても陸は酷く不安になる。兄弟の絆さえも、分たれるようで……。


「それでも父さんは、兄さんのことを最後まで愛していたんだよ」


陸は必死に言葉を紡いだ。これが、兄と家族を繋ぎ留める最後のチャンスかもしれない。深く息を吸って、吐き出す。彼の心は過去最大の炎を宿して燃えていた。目眩がするほどに。

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