3. 在りし日の思い出 〜金と命〜

 「ゴールデンウィーク中のことだった。宏樹と遊ぶ約束をしていた俺は、待ち合わせの公園であいつを待っていた。しかし、待ち合わせの十五分前にはいつも待ち合わせ場所に来ていたあいつは、珍しく集合時間になっても姿を見せなかった。五分、十分、十五分……お気に入りの腕時計の針は少しずつ動いて、とうとう円の半分まで針は進んだ。

 途中から『おかしいな』とは思った。だが、あいつにもあいつの事情があるだろうと、俺はあいつを待ち続けていた。しかし、一向に来る気配がない。不安になった俺は、ついに宏樹の家に行くことにした。これでもし寝ていたら、叩き起こしてやろう。そんな呑気なことを考えながら。


 宏樹の家に行く途中でパトカーを見つけた。警察が若い女性と話をしていて、それを横目に俺は歩いていた。意図せず、警察との会話が耳に入ってくる。

『ドライブレコーダーを確認しますね』

『本当なんです! 子どもが、信号を無視していきなり飛び出してきて……』

『えぇ、確認しますから』

人身事故が起きたのだと理解した。この時期は確かに事故が多いと聞く。長期休暇に浮かれる子ども、ようやく得た休暇で気の抜けた大人。皆が注意を怠りやすい時期だ。決して、他人事ではない。俺も気をつけよう。そう思いながら俺は宏樹の家を目指した。


 目的地に着くと、玄関の前で宏樹のじいさんがあいつの父さんに怒鳴りつけていた。なんとまぁ、入りづらい。だが、勇気を出さなければ目的は果たせない。俺は宏樹との約束があるのだから。そう意を決して、俺は家の敷地内へと足を踏み入れた。当然、来客に気がつく二人。

『天くん!』

宏樹の父さんは俺を認識すると、ガシッと肩を掴んで安堵のため息をついた。

『良かった。無事だったんだね』

その不穏な一言に、ふと数刻前の出来事を思い出した。

『宏樹、は……』

そこまでで限界だった。それ以上の言葉が出て来なかった。しかし、宏樹の父さんは俺の言葉に続けて言った。

『……あぁ。事故を起こして、今は病院だ』

 一瞬、信じられなかった。わかっていたはずなのに、信じることができなかった。

『大丈夫なんですか?!』

『それを今から見に行くところなんだ』

『先に現場に行け。今、警察が対応しているんだろう。宏樹は、美紀みきさんが見ていてくれる。加害者と話をすることも大事だ。お前はそっち優先だ』

『でも、宏樹は……』

『いいから行け、馬鹿者!』

怒鳴っていた理由はそれだったらしい。冷静さを保っているようで、そもそも失っていたあの父さんを見ていたら、妙に冷静になれた。

 あぁ、あいつはいないんだ。事故を起こしたから。今は病院で、遊ぶ約束は必然的に破棄。俺にできることはない。ここで、病院について行ったところで迷惑をかけるだけ。

 俺は諦めて家に帰ったよ。『お大事に。そうあいつに伝えてください』と残して。


 翌日の夜、八時半過ぎだったか。まだ髪から水滴が落ちるような状態で風呂から出てみると、母さんが神妙な面持ちで電話をしていた。静かにその横を通れば、途中で、母さんは俺に気づいたようで『代わります』と言った。

『もしもし』

誰からなのかすら伝えられないままに、電話を受ける。

『天くん』

相手は、あいつの父さんだった。

『宏樹のことだが』

雰囲気からして、嬉しい知らせではない様子。俺は息を飲むと、向こうも少し間を置いてから

『……亡くなった。ごめん』

ガシャン、と受話器を落とした。手に力が入らなかった。どうやらその後も何かを言っていたようだが、全て右から左へと抜けて、脳へ届くことはなかった。


 死んだ。宏樹が死んだ。数日前は元気だった宏樹が死んだ。昨日遊ぶ約束をしていた宏樹が死んだ。マラソンが得意だった宏樹が、給食でいつも一番に食べ終わる宏樹が、音楽が苦手で歌が下手だった宏樹が、誰とでも仲良くなれた宏樹が、風邪で学校を欠席することがなかった宏樹が、明るくて人気者だった宏樹が、唯一の俺の親友だった宏樹が、死んだ。死んだのだ。


 感情の処理が追いつかなかった。人は感情に限界が来ると無になるのだと、初めて知った。もっとも、知りたくもなかったことだが。

 怒りと、悲しみと、憎しみと、諦めと、後悔と……ぐちゃぐちゃになって、何かがプツリと切れてしまった。嫌に冷静になっていく頭が、これがまた恨めしくて。

 その日は、一睡もできなかったんだ。


 後日、宏樹の事故はニュースになった。俺は家に閉じ籠っていた。情報によると、ドライブレコーダーには信号待ちをしている宏樹の姿が映っていて、そこに女性の車が突っ込んだとのこと。つまり女性側に非があって、宏樹は何も悪くなかった。完全に被害者だった。

 しばらくして、裁判が始まった。かなり長いこと裁判をしていたが、案の定、女性側に罪が問われた。負けたのは女性の方。当たり前だ。そうでなくては困る。

 だが、まだ幼かった俺には、許せないことがあった。


 宏樹の命の賠償を、金で払ったことだ。


 金で償えるものなのか。あいつの命は、金で買えてしまうものなのか。壊した分の命を金で弁償しますと、それで良いのか。そんな、物のような扱いで良いのか。あいつにはまだ未来があって、この先、何十年も生きる予定で、その未来ではマラソンの選手になっていたかもしれなくて、良いお嫁さんをもらっていたかもしれなくて、子どもを産んで、幸せに暮らしていたかもしれなくて、良い父親として人気者になることができたかもしれなくて……。


 金で、買えるのか。

 そうか、そんなものか。世界って。


 それから俺はうだうだ考えることをやめた。この世は金が全てだ。それだけが事実だ。何を思っても、何をしても、金で塗り替えられる。それがこの世の真実だと、思い知った。

 無駄だったんだよ。正義だの、愛だの、全部無駄。いつか憧れたヒーローだって、アニメの中の空虚な妄想でしかない。あんなやつはこの世にいない。いたとしても、そいつは偽りだ。きっと、金を与えれば豹変する。金で買えないものはない。その正義も、愛も、買い取れる。


 金があるやつが全てだ。人の命すら金で買うことができた。地獄の沙汰も金次第。金があるやつが偉い。金があるやつだけが生き残れる。


 なぁ、そうだろう?」

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