2. 朝食

 翌朝、天は陸と共に一階へ降りた。『休業』という手書きの木製看板が玄関にぶら下がり、稀に風に揺られて音を立てている。陸は朝食にしては随分と豪華なセットを二つ用意すると、静かに兄の目の前の席に座った。


「胃もたれしそうだ」


天が言うと、陸は「毎日しっかり食べていないなら、これで胃もたれするかもね」と苦笑して手を合わせた。小さく「いただきます」と呟く陸に、天も続く。挨拶だけはしっかりと。それが彼らの家のルールだった。


「昔はこうして一緒に朝ごはん食べて、学校に行ってさ。お腹を空かして帰って来たら、家に夜ご飯が用意されていて、またみんなで一緒に食べて。でも……もう、叶わないんだよね」


目玉焼きに箸を入れながら陸は話す。「突然どうした」と問えば、「どうもしない」と返す。陸は「ただ、昔話がしたくなって」と笑って、話を続けた。


「ご飯って、人と人を繋ぐものだと思うんだ。農家さんから、料理人から、お客さんへ。僕はそんな食事の時間が好きだよ。こうして兄さんとまたご飯を食べることができたのも、奇跡に近いことだって思っている」


崩れていく黄身。頂上から流れるそれは、白身を染め、レタスを染め、ベーコンを染め……。その上に少し醤油を垂らすと、陸は伏し目がちに白身を箸で掴み、口の中へと放り込んだ。


「時間は有限だなんて、子どもの頃は思ってもいなかった。今になって後悔ばかりするんだ。あの時ああしていたら、この時こうしていたらって」

「だからあれほど言ったんだ。合理的に考えろって」

「……そう、なのかもしれない」


俯いた弟の表情はよく見えなかった。


「未だに僕は、やりたいことが見つからない。自分の本心がどこにあるか、わからないんだ」


味噌汁を口に含んでいた天は、その言葉に手を止める。


「あんなにいろいろやったのにか?」

「うん」


天はお椀を置くと、大きなため息を漏らした。陸は再び苦々しい笑みを浮かべる。控えめで、欲のない弟のことを、兄は心底哀れに思った。


「でも、今が幸せだってことは確かだ」


陸は白菜の漬物に手を伸ばしながら、そう話す。一方、天は全て食べ終わり、箸を置くと、弟の話に耳を傾けた。


「兄さんが思っている以上に、食堂を営むのは悪くないと思うんだ。そこでできた縁が、僕にとってかけがえのない宝になった」

「俺を否定するか。良い度胸じゃないか」

「違うよ。ただ、幸せの形は人それぞれだっていう話」

「いいや、同じだ。散々俺が馬鹿にした親父のちっぽけな幸せの方が正しいと、お前は思ったわけだ。それは対極の位置にいる俺を否定していることと同じだね」

「違うって」

「違うものか」


静かに置かれた湯呑み。向けられる冷たく鋭い視線。陸は咎められた犬のようにしゅんとすると、魚の煮付けの最後の一欠片を口の中に放り込み、以降、少々食事の手を止める。


「どうしてそこまで父さんを嫌悪するんだよ」


弟からの問いに、天は一瞬だけピタリと動きを止める。しかし、少し考えてから、


「愛と金、どっちが大事かというものがある。俺は後者だと思っている」

「どうして?」

「余裕、つまり金がなければ何も生まれない。親父は、何も持たないくせに愛だけは人一倍に欲しがった。無償の愛を求める親父の姿は乞食同然で、酷く滑稽だったな」


「ああはなりたくないね」と嘲笑する兄に陸の開いた口は塞がらなかった。


「良いか、世の中は金だ。地獄の沙汰も金次第という言葉があるように、金がなければ何一つできやしない。逆に金さえあればなんでも手に入る。愛も、幸福も、金で買える。これは実証済みだ」


悔しいが反論の余地はない。現に、天は誰もが憧れるエリートだった。営業成績トップの座を譲ったことはない。天の妻も、その息子・娘も天の身内であるというだけで羨まれていた。何一つ、不自由のない暮らしが保証されている。それを幸せと言わずになんと呼ぶだろう。


「愛なんてものは弱者の空虚な妄想だ。無償の愛が存在すると言うのなら、ぜひこの目で見てみたいね。愛なんて、金の力で簡単に歪む。愛を信じるなんて馬鹿馬鹿しい。人間社会というものは、お前が思うほど綺麗なものじゃない」


天は堂々と言い切った。


「金が人を安定させ、金が人を狂わせるんだ」


そうして、ようやく陸が最後のデザート、苺を胃の中に収めた時、天はその考えに至るまでの経緯を語り出した。


「覚えているか、俺たちが小学生の頃のこと。俺のクラスメイト……宏樹ひろきが事故で死んだ時の話だ」

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