第2話

 普段はゆっくり歩く通学路を今日は、猛ダッシュした。風を切って家へ急いだ。心配なことがあるときはいつもそうしている。自分の思い過ごしなのか、彼女は何者なのか。やはり彼女のことを思うと疑問ばかりが湧いてくる。


 ようやく家に着いた。肺が張り裂けそうなほど息切れしていて、初夏とはいえ日差しが強く、滝のような汗をかいている。


 家に着くと「ただいま」も言わず、荷物も置かずに診察室へ駆け込んだ。室内はクーラーが効いていて冷えた空気が充満している。冷気を取り入れようとしても深く息を吸い込めない。


「お父さん…! あの子はどうやったん!?」


「落ち着きなさい、蒼空そら。あの子は無事だよ。意識が戻った後すぐに寝てしまったから蒼空の部屋で寝かしてある。」


「そ、そうか! どうして僕の部屋なん?」


「ここでは他の患者さんを診ないといけないし、病床も限りあるからね…健康なねぼすけさんは置いておけないんだよ。」


 そうかと納得はしたが、まだ父親に翼のこととか聞きたいことは山ほどあった。しかし診察室には他の患者もいるし、何より自分自身がもっと落ち着く必要があると思った。


 そういうわけで疑問を保留にすることにした。患者を第一に考える父の背中は偉大だ。何事にも冷静で物事を捉える…僕の憧れの人物像だ。


——


「ほんまにおった…」


 自室の扉を開けると、そこには寝ている少女がいた。ピュアな白い羽と美しい顔。僕は驚きのあまりとても息をするのも忘れてしまった。もしかして夢かもと思い、目をこすっても天使のような少女はそこにいた。その姿はまるで絵画のようで美しかった。空いている窓に寄り添って僕は静かに彼女を見守った。


 外の風が心地よく入ってくる。遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。静かな部屋で気持ちが落ち着いてきた。天使のような存在がそっと微笑んでいるような気がしてふと隣を見る。


 彼女はまだ眠っているようだ。窓越しに光が差し込んできて暖かさを感じる。このまま眠りにつきたい…心地よい時間が流れている。部屋にいるだけで僕は幸福を感じる。


 しばらくぼんやりしていると遠くから鐘の音が聞こえてきた。その音色には何とも言えない美しさがあって、胸が締め付けられるような感覚に包まれた。


 ふと、その音に導かれるように隣を見ると、澄んだ空気と共に少女の純白の翼が広がっていた。その瞬間に鐘の音が鳴り響き心の奥まで届いてくるようだった。その美しい鐘の音を聴きながら僕はこの幸せな時間を一瞬の間に感じ取ったのだった。


 あの少女が目を覚また。うーんと伸びをして、目を擦っている。長い間眠っていたせいかまだ気だるそうな顔をしていて、きょとんとしている。


 僕は温かいタオルと水を用意して再び彼女の元へと戻ってきた。


「ほら、これで顔をふきな、喉が渇いてるならこれ飲めばいいからな。」


 彼女は消えてしまいそうなほどの細い声を出して感謝を伝えた。手渡したタオルで顔だけでなく、体も拭き始めたので目のやり場に困った。目を両手で隠して、みてませんアピールをしながら指の隙間からじっくりと見つめていた。白くて細い肌にタオルが沿っていく。流石にこの先はまずいと思って僕は、後ろを向いた。


 しばらくすると少女は僕の背中をこつんとたたいた。もう一度感謝を伝えた少女は僕の部屋の物にさまざまな視線を送っている。かと思えば急に自分の手をグーパーしはじめた。まるで生まれたての赤子のようだ。


「なぁ、ここがどこだか分かる?」


「わからない…」


「じゃあ自分の名前は?」


「それも…わからない。」


「その背中のやつ…それは何?」


「思い出せない…でも、とても大事なものって分かる」


 ほんのり涙を浮かべた少女の肩は震えていた。僕は自分の知識欲に負けて質問攻めをしてしまっていた。記憶のない少女にとってはここは急に連れてこられた場所であり、目の前にいる人が誰なのか、自分が何者なのかすら分からない…不安に決まっているよな。


「その、ごめん! いろいろ聞きすぎちゃったな。そっちもゆっくりでいいから知りたいことがあったら聞いてくれ」


「うん! わかった。」


 やっぱり笑顔がよく似合う。彼女の笑顔を見ていると小さい頃にばあちゃんの言っていたことが思い出される。


 おばあちゃんは、天使はその美しい笑顔で人々を幸せにする存在だと言う。彼女らの笑顔はまるで光のように周りを照らし暗い気持ちを吹き飛ばしてくれる。彼女らの笑顔を見ると心が温かくなり生活の中に希望が湧いてくるそうだ。それだけでなく、天使の笑顔は人間たちに勇気や力を与えてくれるのだ。


 それから僕と天使のような少女はたくさん話した。家族のこと、この村のこと、学校のこと、そして天使のこと。


 しばらく話していると、静かで穏やかな夕方の空気が入ってきた。太陽が沈んでいくと同時に村はだんだんと静寂に包まれていく。風が心地よく吹く中で木々の葉がざわめきだす。だんだんと夜へと変わっていく光景に心が奪われていく。


「蒼空、良かったら私にも名前をつけてほしい!」と、少女は言う。彼女の瞳には期待が映っていた。


「いいのか? 僕が決めても」


「うん、蒼空に決めてほしいんだ」


「わかった、じゃあちょっと考えさせてくれ」


「嬉しいな! ありがとう…!」


 天使みたいだから天子? 流石に安直すぎるか…? 白いから白…? それもまた安直だな…どうしようか笑顔? みんなを照らす…


「じゃあ陽菜ひなはどうだ? みんなを照らす太陽から取ってきたんだ。笑顔が素敵な君によく合うんじゃないかと思ってさ。」


「ひな…陽菜! うん、私は陽菜! ありがとう名付けてくれて!」


 眩しいな…僕はやっぱりこの笑顔が好きだ。















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る