第2話 恒誠
ガチャ、バタン…ガタン、カチャン…
両親の出かけていく音で目が覚める。仰向けから横になり、目覚まし時計を見る。6時半か。また仰向けに戻って、ぐうーっと全身を伸ばし、弛緩させる。少し勢いをつけて体を起こす。3ヶ月経って朝に強くなった気がする。もっと早くに慣れていれば良かったが。ベッドを降り、音を立ててカーテンを開ける。瑞々しい光が体に吸収されていく。大きく息を吸って吐く。
「よし、起動完了」
一人だと独り言も言い放題だ。階段を降りてキッチンに向かう。冷凍庫からカチカチに凍った食パンを取り出し、トースターに入れる。タイマーを回して焼き始める。その間に電気ポットで湯を沸かし、食器棚から平たい皿とマグカップを取り出す。マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、ほどよく湯が沸いたらスイッチを手動で切り、マグに注ぐ。ふんわり湯気が立つ。香ばしい苦めの香りが鼻腔を満たす。慎重にすすってみるとちょうど良い温かさだった。熱湯は飲めるまでに時間が必要なので途中で沸かすのを止めるのだ。
トースターを覗き、きつね色になったパンを皿に乗せ、マーガリンを塗って半分にシナモンをかける。まるい甘い香りがゆらめく。食器棚と冷蔵庫の間の隙間から取り出した折り畳み椅子に座りトーストを食べる。
「なあにしよっかなあ…」
ネトフリで映画見て、店手伝いに行って、夕飯作って、風呂に入って寝る。時間があるっていいなと思う。少なくとも、思いつきで行動する自分には合っている。時間がないとあれもこれも…となって優先順位を決められない。予定がないって最高。有意義な休暇なんて過ごしたことないと思う。休暇は休んでこそ。
パンくずのついた皿とコーヒーが輪っかに残ったマグを洗う。ついでに両親が残していった食器も洗って一緒に乾かす。
「人に食べたら早く洗えっていうくせに、自分は洗わんよな…」
濡れた手を側にかかっているてぬぐいで拭き、リビングのソファにどっかり座る。テレビをつけて適当に選んだ映画を流し、漫画を読む。どっちも適当に摂取するぐらいがちょうど良かった。
***
だいたい二時間が経ち、映画一本と漫画5冊を見終わった。
パジャマのままであったことに気づき、自分の部屋に戻る。服は上下3着ずつしか持っていない。それで十分だ。鈍いパープルネイビーのスウェTにネイビーのアンクルパンツを合わせる。このゆるくテーパードした型とストレッチ感が楽でよく履いている。姿見の前に立ち軽く整える。きゅっとした足首、肩幅に対して細めの腰、薄い肩、長めの首。父さんにはよくひょろいと言われるが自分的にはこの体型は気に入っているほうだ。タッパはあるし、手足もそこそこ。中学で辞めてしまったが約十年続けたバスケのおかげだと思う。あと遺伝。父さんは今でこそムーミンパパみたいな体型だが背は高い。母さんも歳の割にはすらっとしている。
両親もそうだが、昔から人運的なところは恵まれていた。ここまで大きなトラブルもなく、何ならハッピー多めに過ごしてきた。自分のペースでいても誰にも何も責められなかったし、何か始めるにしても、誰かが程よい距離感で支えてくれ、チームメイトにもうまいこと打ち解けられた。
本当に恵まれていると思う。何もなかったはずだ。
だからこそ自分でもこうなった原因が判らない。でも判らないままでもいい気がしている。何を思い詰めているわけでも、鬱憤が溜まっているわけでもない。こころ的にも、身体的にも辛くない。来月から通信制に転校するし、何より若いし!
再び一階へ降りる。洗面所で歯を磨き、顔を洗って、化粧水と乳液で保湿する。しばらくおいてから、顔がギトギトにならないようにおでこと鼻を中心にパウダーをはたく。ふと一週間前のことを思い出す。あの時まではこのルーティーンもこそこそやっていた。
:
「なんや化粧か」
と背後から歯ブラシを取りにきたムーミンパパが言った。心臓がどきりと跳ねる。親に見られたのは初めてだった。何か言われるんだろうか。何も悪いことはしていないはずなのに、何か後ろめたい気持ちになる。出かける日は毎日していることだ。パウダーも自分のお金で買った。何も悪くはない。そもそもこれは化粧に入るのだろうか。
「まあ今時、男も清潔感やよな。いやでもムサくなってくるしな…」
太い腕がぬうんと伸びて歯ブラシと歯磨き粉を取る。歯磨き粉をつけた歯ブラシを口に咥え、また腕をぬうんと伸ばして歯磨き粉を戻す。
「そんなこそこそせんでもいいやろ。身だしなみ気にするのはいいことやし」
特に返事も求めず、ムーミンパパが去っていった。体の力が抜けていく。何を緊張していたのだろう。こういう人じゃないか。「男のくせに化粧して」「色気付きやがって」なんて言われるとでも思っていたのか。我が家に限って、それはないだろう。父さんはあんな感じだし、母さんだってきっと「それだけでいいのが羨ましいわ〜」って言うだけだ。
この家でよかったな、としみじみ思った。
:
身支度を済ませ、肩掛けカバンを下げて両親がやっているカフェへと向かう。まだ5月だと言うのに夏真っ盛りのように日差しが強く、暑い。カフェまでは30分ほどかかる。すれ違う人には日傘を持った人もちらほらいた。
初夏の木々の新緑が匂い立つように艶やかだ。歩道と車道を分けるよう街路樹が植っている。伸びた枝葉で歩道にさまざまな形の影ができている。まだ梅雨の気配のしない、かろやかな風が素肌を滑っていく。服の中に風が入ると気持ちがいい。車道をたくさんのさまざまな大きさ、形、色の車が走っていく。
「え、」
車が途切れたその向こうの歩道に見覚えのある、よい姿勢をみつける。ぶわり、と耳の辺りを何かが駆けていった。道を戻ってタイミングの良い青信号で横断歩道を渡る。崩れた髪を押さえつけながら歩み寄る。その人が足元からこちらに顔をあげる。
「…鶴谷、だよね?」
恐る恐る声をかけると、マスクをした顔が驚いた表情を浮かべた。艶やかな黒髪がセミロングからショートに短くなっているが、懐かしい顔だ。思わず笑みがこぼれる。
「恒誠?…え、久しぶり」
驚いてもなお、落ち着いた声のトーンに心臓のあたりがきゅうっとする。
身長は伸びていないんだろうか。こんなに差があっただろうかと僅かに上向いてこちらを見る顔を見つめ返す。
「小学校卒業ぶり?」
訊きながら隣に並んで来た道を辿る。
「だよね、健康そうでなにより」
信号で止まり、鶴谷が奥二重の切長の目を細めてマスク越しにニッと笑う。「最近どう?元気?」と聞かないあたりに改めて好感を持つ。
「うん、健康!」
続く言葉に迷っていると鶴谷が先回りして口をひらく。
「いろいろあって…久しぶりに散歩してるとこ」
「そっか、こっちは店行くとこでさ…そうや、よかったら来ない?」
「solitude?久々にお邪魔しようかな…」
と思い出すように宙を眺める。
「外装変わって、小綺麗になってん」
「そうなんだ。前のやつも雰囲気あって綺麗だったと思うけど」
「雰囲気は俺も好きやってんけど、ほら、例の台風でさ」
「風、物凄かったもんね」
続けて色々な思い出話をしながら進んでいくと、「solitude」と筆記体の看板に出迎えられる。最近になってようやく深い緑色の壁に記憶が馴染んできた。ウッド調のドアを開けて店に入る。店内には何人かのお客さんの姿があった。店の名の通り1人で来る人もいれば、自分たちのように2〜3人で来る人もいる。ほんのりビターな香りを肺いっぱいに吸い込む。この店の空気が好きだ。
斜め後ろを見ると鶴谷が強張った顔をしていた。とりあえずカウンターの席へ案内し、母さんに声をかける。
「上、使っていい?」
「もちろん、何か飲み物持って行こうか?」
「いや、今はいいや。必要になったら取りに来るわ」
「おっけー」
と言ってエプロンのポケットから鍵の束を取り出す。礼を言って受け取り、鶴谷の側に寄る。
「鶴谷、上行かん?」
意図を汲み取ったのか鶴谷がうなづく。キッチンから外に出、階段を上がる。母さんから借りた鍵束から一番攻撃力が高そうな鍵を取り出し、鍵穴に刺して回す。ガチリ、と重たい音がして鍵が開く。休憩室を通り抜け、居住スペースに入る。
「小学生の時よくここで宿題やったよね。懐かしい」
鶴谷がそう言いながら、その懐かしのちゃぶ台の定位置に座る。向かい側に座り、窓の外を眺める。どう切り出したらいいんだろう。おそらく、気になっていて話したいことは同じ、なはず。きっと。
「…変わらないね」
「え?」
唐突に鶴谷がそう呟いたので間抜けな声が出る。
「考えて、考えて、途方に暮れた時、いつもそうやって窓の外を見てた気がする」
「…よく覚とるね」
深い黒の瞳と目が合う。まっすぐな視線にピリッと僅かな電流が流れたように感じる。射抜くような、心の動きを見透かされているような、確かに記憶の中にある真摯な目だった。
「…なんで学校行ってないか、語らおっか…俺が話したいだけかもしれんけど」
「うん」
単刀直入な言い方が可笑しかったのか、鶴谷が顔に笑みを滲ませる。
じゃあ私から、と言って鶴谷が話し出した-。
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