青春モラトリアム
由比 瑛
第1話 葵
「葵、お母さんもう出るからね」
ドアに阻まれたぼんやりとした声で目が覚める。
「学校行かなくてもいいから、いいかげん起きなね」
カーテンの裾から漏れる光の柱に目をぎゅっと閉じ、音を絞り出すようにして唸る。それを返事と取ったのか、溜息をついて母が部屋の前から離れていく。
呆れられているのだろうか。起きなくてはいけないとわかっているのに、どうもうまくいかない。身体のどこか内側のほうが溶けているようにどろりと重たく、頭も靄がかかり、体の制御がまるで機能しない。
心地よい微睡みの中に埋もれているとふいにスマホがメッセージの着信を知らせた。重い瞼が上がらないまま枕元を手探りで探すが何もない。そうしてようやく昨夜起き上がるための対策として勉強机にスマホを置いたことを思い出す。体を起こすと、ドクドクドクと急激に脈拍が上がった。頭に血液が巡り、じわじわと耳の中で体液が流れる音がする。一瞬、また頭がぼうっとして、徐々に意識がはっきりしていく。何度か欠伸をして目を潤し、深呼吸をする。慣れたものだ。学校に行けなくなって半年が経とうとしている。しかし私の体は元の調子を取り戻せないでいる。深く息を吐きながらスマホを手に取ってベッドに腰掛ける。
『起?冷蔵庫牛乳有』 7:34
信号の待ち時間にでも打ったのだろう端的な文面がトーク画面に浮いている。我が家ではこういったひらがなを省略した「なんちゃって中国語」を使う時がある。
『了解』 7:47 既読
画面をつけっぱなしにしているのか既読はついたが返事はない。座った状態からベッドに倒れ込む。学校に行かなくなってから、座り続ける力が減退している気がする。半分溶けているような重い体がベッドに吸収されていく。このままベッドに埋もれるみたいにして消えていなくなれればいいのに。引き合う磁石のように瞼が落ちていく。睡魔に負け、掴みかけていた朝を手放した。
***
再び目を覚ますとスマホの液晶のデジタル時計は10:56になっていた。起き上がって、またしばらくぼーっとして体が落ち着くのを待つ。ゆっくりと立ち上がり、体を反らして固まった筋肉を伸ばす-とまた動悸がして視界が揺らぐ。深く息を吸うことを意識して呼吸をする。
スマホを持ってリビングに行き、冷蔵庫から牛乳の入ったコップを取り出す。生白い液体が歩くたびに僅かに波打つ。やけにとろりとして見え、なんとも言えぬ独特な匂いに鼻の奥をぐむと閉じる。足が止まる。捨てようかな。一度そう考えてしまうと、コップ半分のこの液体を飲もうとは思えなくなった。
小さい頃から牛乳は嫌いだった。匂い、舌触り、喉ごし、飲み込んでも口内にぬるりと残る不快感、全てに嫌悪感を抱く。給食のメニューで他の何よりも嫌いだった。(そもそも白米に牛乳は合わないと思う。)自主的には飲みたくない。冷蔵庫にコップに注がれた状態で入っているのもこのためだ。どうしても一日一杯は飲ませたいらしい。
シンクに音を立てないように牛乳を捨て、溝に残った白を水で流す。空になったコップを水で軽くすすいで水をはって桶に入れる。そして別のコップに麦茶を注ぎ、ダイニングの椅子に背もたれに体重を預けて座る。ぼーっと今日のタスクを思い浮かべる。掃除機をかけて、ミールキットを外のボックスから取り出して、冷蔵庫にしまって、録画を消費して、図書館で借りた本を読んで、せっかくだから漫画を新刊に備えて読み返して、勉強もしなくちゃいけないよなあ。現国の課題があることだけは知ってるんだよな。出せるかはわからないけど。
あぁ、何してるんだろう。やらないと置いていかれるのに。
やればできるんだから、やり始めればノリに乗れるんだから、やればいいのに。
こうなるって分かってたのに。
学校に行ってやらなきゃいけない環境に身を置けばできるのに。
怠けてないで行かないといけないのに。
なんで自分ばかりしんどいと思って休んでるんだろう。みんな担任嫌い、あの先生嫌いって言っても頑張ってるのに。
みんなより努力しないといけないのに。
半年も立ち止まったまま、改善する行動もせずに、何してるんだろう。
日々の生活を思い返してみる。母に起こされ、二度寝し、11時前後に起きる、テレビを眺め、昼ごはんを食べ、眠くなって昼寝をする、起きておやつを食べ、本を読んでいると、19時過ぎに母と姉が帰ってくる。1時間ぐらいして夜ご飯を食べ、風呂へ入り、眠くならないからと深夜までまた本を読み、飽きて就寝。その繰り返し。たまに早く起きれても遅刻で学校に行くのが嫌でぐだぐだと似たような生活をする。もう高二になってしまった。ろくに勉強もせず、進路も決めず、学校にも行かず。
心臓のあたりに重い蟠りを感じる。霧散させようと深呼吸をしても、風船のように膨らんで軽くなった後、萎んで元に戻っていく。こころって本当に胸の辺りにあるんだな、とくだらないことを考えてみる。何の流れだったか「こころは頭にある」と中学の時の保健体育の先生が言っていたが、こころの在処は理屈では説明できないと実感している。
今やらなければならないことも沢山あるのに、将来も決めなくてはいけないなんて。いっそのこと、消えてなくなりたい。ドロップアウトだ。もともと私なんていなかったことになればいいのに。母、姉、友達、先生、クラスメイト、関わってきた人全員の記憶からいなくなってしまえればいいのに。そうしたら何もしなくていい。何もしないことを責められなくていい。
母さんも「怠けている」「お金の無駄」「めんどくさいやつ」「時間があるのに何もしていない」って思ってるだろう。姉だって頑張って勉強して帰ってきたらだらだらしてるやつがいて邪魔だろう。
いなくなれば誰の迷惑にもならないのに。
鼻の奥からつうんとした匂いがして、視界が滲む。体温で温まった涙がまだ洗っていないベタついた頬を伝う。負の感情が次々と涙となって溢れてくる。泣くのはいつぶりだろう。ふつと意識の対象が変わっても涙は止まらなかった。人目もないので、流れ続けるのもおかまいなしに考える。学校に行かなくなって1、2ヶ月ぐらいの時にも同じように連日泣いていた。母に話そうと口にしてはみるものの、喋れば喋るほど、こころとかけ離れていくような気がして、相談することを辞めた。言葉になりかけた胚が腐って澱のように胸に溜まっていった。
涙が伝う感触で頬や鼻がむずむずと痒い。いい加減泣き止もうとティッシュで涙を拭い、ついでに洟もかむ。波だった感情を押さえつけるように深く呼吸をする。しょっちゅう深呼吸をしている気がする。感情を荼毘に付すにも酸素がいるのだろうか。
洗面所で顔を洗い、リビングに戻ると時刻は12時ぴったりだった。気分転換にお昼ご飯にしよう。そのあと漫画を読んで、掃除機だけでもかけよう。もう今日は学校のことには触れないでおこう。
キッチンとの間のカウンターに置かれたおにぎりをレンジで温める。耳に指を突っ込んで塞ぐと直後に小さい音でレンジが鳴った。素で聞くにはレンジの音は攻撃力が高すぎるのだ。
席に戻っておにぎりを食べる。そういえば、お弁当を食べられなくなったのは学校に行けなくなった頃だった。弁当箱を開いた時に広がる、時間が経った食べ物のなんとも形容し難い、独特の匂い。あの匂いが受け付けなくなった。学校のお昼休憩の時間が地獄だった。約40人分の弁当箱から様々なあの匂いがするのだ。どうしても食べられなくて家に帰ってエチケット袋に入れて捨てたこともあった。母が冷凍食品の味を批評するたび、食べれないことが申し訳なくなった。そこから食欲が湧かないということにして、おにぎりだけにしてもらうようになった。真実半分、嘘半分だった。
ふとスマホの画面を見るとまた母からのメッセージの通知が来ていた。タップしてメッセージを開く。
『朝担任電話来、葵直接会話求為、夕方電話』
『既電話番号伝達、忍耐』 12:15
『何時』 12:15 既読
『十七時前後』 12:16
『嫌嫌嫌、頑張』 12:16 既読
『応援』 12:16
スマホを半ば投げ出すようにして置き、開きっぱなしにしているクローゼットから掃除機を取り出す。コードを最大限伸ばしてコンセントにさす。カチカチカチ、とスイッチをスライドさせて起動させる。大きなモーター音が耳を侵す。不快感で体の内側が刺立つのが分かる。全身が沸騰したみたいにぐつぐつと荒れている。
止まったはずの涙がまた湧いてくる。鬱陶しくなって頬を掻きむしり、服の袖で湿った顔を拭う。
二ヶ月も放っておいて今更、直接話が聞きたい、か。めんどくさいなら放っておいてほしい。お前とする話なんてない。だいたいお前が-。
長いストロークで乱雑に掃除機をかける。寝室、廊下、脱衣所、リビング、畳、トイレを順々に回って、ゴミ箱の裏、テレビ台の下、カーペットと隅々まで思い切り掃除機をかけていく。一通り掃除を済ませてゴミ箱の近くで胡座をかいて座る。ウェットティッシュでヘッドのブラシに絡んだ長い髪の毛を取り除いていく。一枚目を捨て、二枚目でヘッド全体を丁寧に拭いて捨てる。勢いよく溜息をつきながら立ち上がり掃除機を元あった場所へと戻す。手を石鹸でよく洗い、べだっと音を立てて畳に寝転がる。
目を閉じる。嵐が勢いを無くして去っていく。また戻ってこないようにと、肺を大きく膨らませ、ゆっくり萎ませる。起きようと思ったが、瞼が縫い合わされたように動かない。感情のメーターが大きく振れたせいでこころが疲れた。仮眠を取ろう。すっきりして、余裕を持って、電話に対応すればいい。
***
ぼんやりと目が覚めて起き上がる。耳の奥で体液がめぐる音がする。体内の音が静まると同時に秒針の音が耳に入ってくる。時計を見ると十七時半過ぎだった。やってしまったとダイニングテーブルからスマホを取り上げ液晶をつけると通知は何もなかった。ロックを解除して着信履歴を見ても不在着信はない。まだかかってきていないのか。安堵と憤慨とで複雑な気分になる。
プルルルル…プルルルル…
電話の音に身が竦む。受話器のマークをスライドしてスマホを耳に当てる。失礼を承知で数秒無言でいると「鶴谷さん?」と男の声がした。
「っはい」
掠れた声が無理やり飛び出す。一瞬にして緊張で喉が閉じてしまったらしい。
「久しぶりだね。元気?」
「…はぁ」
馴れ馴れしい口調に辟易しながら曖昧に応答する。気にならないのか口調の変化もなく言葉が続けられた。スマホを耳から離して音を聴く。
「しばらく学校来れてないけど、最近はどう? 朝は起きれてる?」
「…あ、いえ…そこからダメで…」
「なるほど、そうなんですね。体調が悪い?」
「えっと…体がだるくて起き上がれない、です」
「あー、なるほど。日中は? 活動できてる?」
「あ、えっと、起きて、しばらくすると、だいぶマシになります」
「ほぉ…」吐息でぼわっとした音が鳴り、さらに耳からスマホを離す。「勉強はできてる?」
「……え、っと、やる気が出なくて、できてないです。やらないと、とはおもってるんですけど」
「なるほど…ちなみに日中は何してるの?」
「え、っと…読書したり、テレビ眺めてたり…です」
「なるほど、うーん…まあそれぐらいなら学校来て、勉強してもいいんじゃないですか? 学校までどれぐらいだっけ」
「……15分くらい、です」
答えつつ、また「なるほど」か、と揚げ足をとる。口癖なのだ。
「あ、じゃあ全然近いんじゃない! ちょっと遅くても間に合うよ」
距離は関係ない。それでハードルが低いと思われているのか。無言でいるとしつこく質問が続く。
「何時ぐらいに起きてるの?」
「…9時か、10時ぐらい、です」
後ろめたさから誤差の範囲で嘘をつく。こんな人に見栄を張らなくてもいいと分かっていても、なけなしの自尊心が割って出てくる。
「何時に寝てる?」
「…12時、は、過ぎてます」
また,息をするように嘘をつく。私の自尊心はどんな人であっても、どうしても、失望されたくないらしい。
「うーん…もっと早く寝れるといいよね。9時ぐらいなら遅刻で午前の授業受けれると思うんだけど」
浅慮な物言いにかえって感情が死んでいく。あぁこいつ、やっぱりこの程度なんだな。聞くだけ、話すだけ、無駄かもしれない。
「朝起きた時ってぼーっとした感じかな」
「…あ、え、っと、そうですね」
「しんどい?」
「はい」
「なるほど…もしかすると、鶴谷さんの症状は起立性調節障害かもしれませんね…知ってる?」
『ち』とサ行の音で細い息のノイズが入っていることに気がつく。つくづく鬱陶しい喋り方だと思う。
「…はい、調べました」
「おお、そっか。診断を受けないことには分からないけど、この年頃だとね、結構いるんですよ」
起立性調節障害のメカニズムとつらつらと話し始める。この不調の原因を自分で散々調べたので知っている。面倒だな。スピーカーにしてテーブルに置く。
「…まあ、規則正しい生活をして、水分をとって…ちょっとずつ来れるようになるといいね」
よく言うな、と思う。何がきっかけで不調が始まったのか予想もつかないのか。
「もし、教室来るのがあれなら、保健室に登校してもいいし。そうしたら、私の方に
連絡が来て出席つけれるので」
はい、と相槌を打ちながら心の中で毒吐く。あなたに連絡がいってしまうから、保健室にも行きたくないんだよ。どうせ訪ねてくるんでしょ。
「単位もあるし、行ったほうがいいとは思ってるんでしょ?」
「…あ、はい」
「じゃあ、遅刻からでも来なよ」
素直に返事をしないでいるとこれ以上話す気はないのか、話題が移る。
「お母さん、いつもどれぐらいに帰ってくるの?」
「あー、7時過ぎぐらいですかね…」
「なるほど、お忙しいね」
「…はい」
「明日はどうする? いっつも朝の時点の気分で決めちゃってるみたいだけど。朝から来るか、遅刻してくるか、休むか…どうするつもりか教えて」
「……なるべく起きて、朝から行きます…遅くなっても、遅刻して行きます」
「今までこれてなかったのに、いきなり行くのは難しいと思うけど。ちゃんとできる目標を設定しないとあとあと辛くなるのは自分だからね」
「…はい」
「来るんだね?」
弱い応答に念を押すように確かめてくる。「お大事に」して欲しいのか、圧力をかけて悪化させたいのか、よく分からない。
「…ぁい」
「じゃあ待ってるからね。保健室でもいいから」
「…はい」
早く終われ、早く終われと何度唱えただろう。長い沈黙のあと向こうが口を開く。
「じゃあ…おやすみ」
ぞわり、と鳥肌が立つ。瞬時に電話を切ってスマホを落とす。耳から真下の顎の端へ、首へ、全身へとゾワゾワした何かが巡っていった。
放心状態で眺めるようにしてテレビを見ていると、道すがらで会ったのか母と姉が一緒に帰ってきた。いつも通り、20時過ぎに夜ご飯を食べ、風呂に入ると、母がダイニングの席についたまま待っていた。そこから電話の概要を話し「なんだか疲れた」と言うと「慣れない電話に、嫌な相手だったからね」と母が苦笑した。力無く笑い返し、いつもより早く眠りについた。
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