第2話
「先生、大変なことになりましたね」
リバティ教授の研究室で、助手のコッターはテレビを見ていた。
画面は世界中の様子を映す。何処も白い雪と氷に包まれていた。北も南も赤道付近も。誰がこんなことになると想像できたであろうか。国家反逆罪に問われているジャージャーマン元教授は行方不明だった。
ナンテは何をやっていたんだ。両手に力が入る。
「ええ、温暖化を食い止める研究は終わり。氷河期を解消させることを考えないと」
リバティ先生は紅茶を一口飲む。小指を立ててティーカップを持ち、穏やかな表情をしている。何が起ころうとも動じない人だ。頭脳明晰な上、美貌も持ち合わせている。
「まったくさぁ、G国のジャージャーマンの奴。何てことをしてくれるのよ。熱血のおっさんだけでなく、世界を転覆させる野望も持っていたのね。誠実なコッター君とは大違い」
「先生、それは言い過ぎです」嬉しいような、悲しいような。背中がぞわぞわする。
「冗談よ」人差し指を左右に振る。「ま、あと一歩のところで躓いたのね。彼にしては健闘したと思う」スマホの画面を向けた。「慰めのメールは打っておいた」
「ジャージャーマンにだけには、お優しいんですね」
「そうかしら」
頬が微かに赤くなったのを見逃さない。恋愛に無縁な人でもないんだ。同僚にパーティに誘われても断る。口説いてくる男に腹が立つそうだ。男には興味を示さないが、ジャージャーマンにだけはある種の感情があるようだ。
「さあ、ポンコツの下手をフォローするよ」
先生の輝く目に大きく頷く。助手になって一年が経とうとしていた。先生が何と考え、何をしようとするのか、既にわかっている。
「ねえ、コッター君、ジャージャーマンの作った装置を流用して、氷河期を脱出できるんじゃない? つまり、大気の温度を上げていく。あの装置って熱力学の法則に反しているから、できるんじゃないかと思うんだけど」
「理論的にはできますね。異次元から高温の二酸化炭素を取り戻すだけです」
先生は、エントロピー増大の法則を支配する科学者だ。思うがままに不安定な状態を安定にしたり、乱雑なもの整然にしたりできる。
「それでいきましょう。すぐに出張旅費を申請しないとね。美しい風景はお預けだけど、美味しい食事を取りながら、世界一周が楽しめる。ジャージャーマンのおかげでね」とサファイアブルーの瞳を細くした。
この人は、どんなときでもプラスに考える。このような人間に出会えて良かった。研究者ってこんな人が意外と多いのかもしれない。大失敗しても、笑って次に挑戦していく。
コッターはリバティ先生と世界中を飛び回って、装置を改造した。逆止弁の方向を百八十度変えるだけ。装置を扱えるのはコッターしかいなかった。セキュリティ上、誰が触ってもうんともすんともいわないようになっている。
作業の合間に、各国の美味しい食事をとった。幸せそうな表情をする先生に、何をするにしても楽しそうですね、と語り掛けると〝人生は永遠じゃない。限られた時間の中で如何に楽しむか。それが私の信条〟と微笑む。そうなのだ、四十年生きていても、三百万年以上生きていても、人生の楽しみ方は変わらない。どんなに苦しいことや辛いことがあっても、考え方次第で目の前の世界はどうにでもなる。
大気の温度は徐々に上がっていく。半年で地球は、ジャージャーマンが氷河期にする以前の温暖化環境になった。世界中の人々は少しがっかりしたようだ。
装置は全て壊れた。寿命がきたのだろう。逆止弁は熔けてしまった。分解して治そうとする者は誰もいない。けれど、ヒントは与えたのだ。誰かがいつか作り出すに違いない。
「温暖化の世界に戻ってしまいましたね」
「コッター君、手伝ってくれて、ありがとう。振り出しに戻っただけよ。これで、当初の研究が引き続きできるってことね」清々しい顔を見せる。
先生はいつでも明るくてポジティブだ。今後も良い方向にいくに違いない。
「本日でちょうど一年が経ちます。業務アシスタントの契約切れです。今後のご活躍を祈念します」
「今まで、サポートしてくれてありがとう。有意義で楽しい一年だった」
笑顔で握手を交わし、コッターは研究室を後にした。
今回も失敗。まあ、いいか。楽しかったし。
廊下を歩く途中、よれよれのジャケットをまとった男と擦れ違った。髪がくしゃくしゃ。どこかで見た顔だ。振り返ると覚束無い足取りをしている。
ああ、彼か……。
お幸せにと小さな声で男の背中に話し掛けた。
あの二人がくっつくとエントロピーはどうなるのだろう。
人気のない研究棟の裏に向かった。スマホを取り出す。
「終わった。頼むよ」
天を見上げる。灰色の雲に覆われていた。
時間とともに全てが変わっていく。この世界はフラクタルだ。今後どうなっていくかなんて、誰もわからない。だから面白い。
西の空から、白い輝きに包まれた物体が現れた。地球人がUFOと呼ぶ乗り物である。
コッターは光を浴びた。
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