ナンテとコッター
辻村奏汰
第1話
「どうすれば、地球を救えるのだ」
悲鳴のようなジャージャーマン先生の声が聞こえてくる。
研究室に隣接するガラス張りの実験ベンチにいたナンテは、実験装置の組み立てを中断した。机を何度も叩いている先生に歩み寄った。
「このままでは、地球温暖化で人類は滅びてしまう」
自暴自棄にもみえるヒステリックな声に、また始まったと呆れながらコーヒーを淹れた。
助手になって一年が経つ。とんでもないところに来てしまった。後悔の念が日に日に高まっていく。
先生のことは大抵わかる。
一種の発作なのだ。
膨大な知識が頭の中にあり、データを整理する過程でオーバーヒートをおこす。すると、いても立ってもいられなくなり、暴れだすのだ。机を叩いている今日はまだ大人しいほうだ。いつだったか、ワーッと叫びながらこの研究棟二階の窓を突き破って、飛び降りたことがある。左足の骨折だけで済んだのは幸いだった。鉄格子が入った窓に目をやる。そのうちここは、野獣を閉じ込めるための檻になるのではなかろうか。最近セキュリティという名目で、廊下に監視カメラがついた。部屋にも隠しカメラがついているかも知れない。
奇怪な行動を取る、地球環境を研究する教授は、工科大学内の皆にクレージー・マンと陰口をたたかれている。そんな先生にコーヒーを飲ませて、落ち着かせるのが役目の一つだ。カフェインが興奮した心を和らげてくれる。
ナンテは「そうでしょうか?」と緑のカップを手渡した。
ジャージャーマン先生は「君は、のんきだね」と右眉毛を吊り上げながら一口飲んだ。
「緊急事態だったら皆、真剣に考えていませんか」
「ふん、地球環境と経済を秤に掛けて経済優先と言い出す不届き者がいる。環境ビジネスで儲けようとする金の亡者もいる」
そこまでいうかな。攻撃しだすと止まらない。研究室外で吠えないだけまだましか。
「第三者団体がちゃんと監視していますので」
「世界の全人類がお気楽なんだ――待てよ」顔をほころばせて天井を眺めた。「全てというのは言い過ぎか。A国のリバティ先生が私と同じ研究をしている。去年にスウェーデンでの学会で意見を交わしたよ。とてもユニークな女性研究者だった。初対面ながら意気投合して、お互いの健闘をたたえ合った。彼女は別格だね」と口角があがった。
「好敵手って奴ですね」
「そうだよ。彼女には負けられない」カップを片手に立ち上がった。「ところで、二酸化炭素の大気中濃度と地球温暖化は因果関係にあることがわかっていた。しかしだ、調査データを整理すると、二酸化炭素の排出量を抑えても温暖化が止まらないという結果が出てきている」と歯軋りする。
地球温暖化の要因は二酸化炭素の濃度だけではないのに。先生はいつも極端なのだ。
「温度上昇がすぐにおさまらないのは、ほかの要因があるからかもしれませんね。温暖化物質であるメタンの影響も考えられますよね。牛のげっぷです」
「ナンテ君は、ネットに載っている台詞しか述べられないのかね」と口をへの字に曲げる。
「あとは、二酸化炭素の排出が低下するだけでなく、それ以上に温暖化抑制物質の排出量も減っているかもしれませんね。たとえば、硫黄酸化物とか」
「うむ、ありえる」とニヒルな笑顔をみせる。
「さらに、人間の人口増と温暖化の因果関係もありそうですよね」
「君は、人口を減らせというのか」と目が吊り上がる。
「いえいえ、そのような過激な発言はしません。ただ因果関係がありそうだと言っているだけですので」
慌てて否定してみたが、そもそも二酸化炭素や牛のげっぷだって、元を辿れば人間が関わっているのだ。つまり、温暖化を引き起こしているのは人間であり、経済活動の結果なのだ。熱力学第二の法則、エントロピー増大の法則に従っている。
「くだらん」とそっぽを向いた。「私は、科学の力で解決したいのだよ。それが科学者の使命だろ。政策を語ってどうするのだ」と狼のような噛みつかん顔をする。
「すみません」
先生の顔色七変化を食らってしまった。今夜夢に出てきそうだ。
「我々科学者は世のため人のために、真理を追究する。加えて私は地球を救う使命をおびているのだ」
皆、先生のような信念を持っていたら世の中が良いほうに変わるのかも知れない。長年研究していると自己顕示欲だけでなく、私利私欲に傾いてしまう科学者を目の当たりにした。科学力の向上ではなく、自分の狭いフィールド内でいかに金を儲けるか、皆に注目されるか、そんなことを目指してしまう。仕方がない面もある。自身もしくは研究テーマの限界を悟って、方向を見誤ってしまうのだ。さらに、生き残るために政治力を磨こうとする。そのような科学者たちに反する純粋なジャージャーマン先生は大学内で敵視され、浮いた存在になっている。残念なことだ。助手になってから、幾度か研究に没頭する姿に胸を打たれるものがあった。G国で三本の指に入る地球環境の研究者で、熱意が人並み以上にあるだけ。決してクレージーではない。けれど、人間たちのなかで正しい存在かどうかはわからない。
「妙案がここまで出掛かっているんだ」
首の下を何度も叩く。
「はっきりするといいですね」
実験装置の組み立てを再開した。
そろそろ手を差し伸べるか、とベンチから先生を眺めた。カフェインが効いたのか、ノートを広げて、計算に熱中している。
この褐色の装置もいい線いっている。モーターで駆動するタービン部に手を当てた。ジェット機のようなエンジンで大気を吸う。排出口に向かう間に捕獲網で二酸化炭素だけを大気から分離し、タンクに貯蔵する。溜めた二酸化炭素をどう処理するかが課題でもあった。
もう一捻りが足りない。現代科学では到達できない知識が必要だ。これでは、温暖化は解決しない。
本当にこの科学者に託して良いものだろうか。
過去を振り返っても答えがでない。
仕方がない。負けられないしな。
つなぎのポケットから弁を取り出す。一方向にだけ流れる逆止弁だ。二酸化炭素の回収タンクを外し、弁を取り付ける。
これで解決する。
予定通り、十七時に組み立てが終わった。部屋の片隅にあるロッカーを開けて、つなぎからジャケットに着替えた。
「組み立てが完了しましたので、お先に失礼します」
「ああ、ご苦労さん。明日、試運転を頼むよ」
爽やかな笑顔を振りまいてくる。もじゃもじゃ頭でそんな表情をされると、こっちも笑顔になる。
先生の顔は一日中様々に変化する。見ていて飽きない。
「承知しました」
ナンテは研究室を後にした。
自宅は車で十分走らせた所にある。
途中、スーパーマーケットで夕食と朝食の買い物をした。
集合住宅の二階に我が家がある。住人は全員、大学の関係者だ。
外灯だけがわびしく灯る、静まり返った廊下で解錠した。乾いた音が廊下に響く。孤独を感じるこの瞬間が気に入っている。
部屋には、冷蔵庫、電気コンロ、ダイニングテーブルだけ。ベッドはなく、床にマットをひいて寝ている。淡々と暮らすナンテにとって不満は一切無い。ジャージャーマン先生の研究が成功すれば良い、という使命感だけ。
日本製のカップラーメンを食べ終えると、カーテンのない窓から夜空を眺めた。
昔、ここの空は、幾多の星が輝いていたのに、こんなにも少なくなってしまった……なぜこうなってしまったのだろう。なぜ人々は、それを悲しく思わないのだろうか。
朝、研究室に出勤するとジャージャーマン先生が、机にうつ伏せになって寝ている。
まただ。
研究に熱中しすぎると、自宅に戻らず眠りに入ってしまう。一週間に二、三日ある。しかも、まともな食事をとるのは昼だけ。だから、痩せこけている。
先生のもじゃもじゃ頭に手をあてた。すると手の周りが青白く発光する。
夢の中でも先生は研究をしている。人生には、もっと楽しいことがあるのに。何が先生をそこまで熱中させるのか。
先生の肩がピクリと動いた。
「博士、朝ですよ」背中を揺する。
「寝てしまった」薄目で上体を起こした。口元には涎の跡、こめかみには皺がついている。
「そんなことしているから奥さんに逃げられるんですよ」
三年前、三ヶ月ぶりに帰宅したら誰もいなかったらしい。そのまま離婚したと聞かされた。
「加えて、学生にも人気が無いのです。折角今年、二人も入ってきたのに、一人は退学、もう一人は休学で逃げられるのですから」
「余計なお世話だ」
右目を痙攣させる。本気で怒ったときの癖だ。
「なんか凄い夢だった。思い出せない」
「まあ、夢なんてそんなもんですよ。目を覚ますと忘れているんです」
「覚えているのは、温暖化を食い止められる凄い装置を発明したことだけだ。肝心なところが抜けている」
「それはすごい。正夢になると良いですね」
つなぎに着替えたナンテは先生の立ち会いのもと、実験装置の試運転に取りかかった。
コントロールパネルの電源スイッチを入れる。微かに共鳴した音がする。ボリュームを少し回した。装置内のタービンが電気モーターで回り、高い音が聞こえてくる。
モニターに映るタービン回転数や電流値を確認して、「先生の夢って何ですか」と尋ねた。
「なんだ、いきなり。おかしな事を聞くね……」先生はキョトンとした顔だ。「長生きすることだよ」
「長生きですか……つまらないですよ。そんな人生」
「三十歳そこそこの君にわかるのかね」
「ええ、三十年も三百万年も大して変わりませんよ」
「極端だね」肩を上下させる。「長く生きた分だけ、たくさんのいろいろな研究ができるじゃないか」
ナンテはおかしくなって声を上げた。長生きできるのだったら、研究以外のいろいろなことができるのに。人生の全てを研究に費やすとは。人生を楽しむのではなく、研究を楽しむために生まれてきたのか。
「笑うことないだろう」
口を尖らせながら、右目を痙攣させた。
「二酸化炭素の回収タンクを外したのか。それでは二酸化炭素を再びばら撒くだけだよ」
「面白い現象があるのです」装置の出口を指差した。
先生は排出される大気に手を当てた。目が丸くなる。次に逆止弁に手を当てる。疑心暗鬼を生じているようだ。
「今思い出した。夢で出てきた装置だよ。どういう構造なのだ」
「熱だけ分利するのは難しいので高温の二酸化炭素と冷気を分離させています」
先生は排出口に温度センサーを当てた。
「大気を取り入れて、より低温の大気を放出している。熱は何処に行った」
「消えてしまいました」
「馬鹿な。熱力学の法則を知っているのかね」
ナンテは首を傾げてみた。
「エアコンの構造を知っているかね? あれは、冷気を出すだけではないんだ。室外で高温の熱を放出している。それが法則だよ。ならば、高温の二酸化炭素は何処に消えた。すまんが、超常現象には興味が無いのだ。今ある現代科学で説明してくれ」
「世界には、我々と異なる次元の空間が存在しています。逆止弁からそこに放出しています」
「それは、難しい現象だ。次元の異なる空間があるという研究を知っている。見た者は誰もいないし、証明できた者も当然いない」
「次元を繋ぐというのは、シビアな行為なのです。一歩間違うとお互いの空間が消滅してしまうのです。思い付いたからといっても、証明させるのは難しいでしょうね」
「そうかもしれないな」腕を組んだ。「この世界の大気から四五〇PPM弱の二酸化炭素が少しぐらいなくなったところで、困ることもないし――これで、地球温暖化を食い止められるかも知れない」
「いけるでしょうね」
「君、神様みたいな奴だな」珍しく真顔になっている。
「ああ、はい。皆さんからよくそう言われます」
装置を千機作って、世界の至る所に設置した。
各国のマスコミにインタビューを受けた。
先生は世界を変革する研究者として、世界最大の週刊ニュース紙の表紙にもなった。凄く名誉なことらしい。
装置を稼働させると、大気の温度は下がり続けた。
ナンテは、装置を停めるよう進言した。スマホのアプリによってボタン一つで停止できる。けれど〝まだだ、もう少し〟と停めようとしない。ギャンブルに熱くなった表情にそっくりだった。
そういうときは破綻がやってくると、ナンテは絶望を感じた。ジャージャーマンでは地球を救えない。なぜなら彼は、ある意味においてエントロピー増大の法則に従っていたからだ。しかも、全てを無に帰してしまう力を持っている。本来、人間は生存するために、エントロピー増大の法則に必ずしも従わない行動を起こす。宇宙で唯一、そんなことができる存在なのだ。
先生の本性によって、地球は氷河期に向かう。誰も予想もしなかった白き世界に、世の中はパニックになるだろう。やがて地球人は無に……。
装置の電源をオフにするが、タービンは止まらない。
タービン自体の慣性力が働いている。タービンの軸受けは、磁力で浮かせているので摺動抵抗がゼロ。しかも、モータ作用が働いている。負荷による減速を待つしかなかった。
「なんということだ」
戦く姿を見たのは初めてだった。ナンテにしてみると、ああ、やってしまった、の心境だ。後悔の念はない。ただあるのは達観だ。先生に唖然とする一方で、人間とはそういうものだとあきらめている。
結局、装置が止まるまで一週間もかかった。
全世界とまではいかないが、主要国は氷に包まれた。熱だけでなく二酸化炭素も減少している。やすやすと氷は融けそうにもない。
「氷河期になってしまいましたね」
ナンテはテレビのニュースを見ながら口を開いた。先生の顔写真がでる。キャスターは何かを我慢するような表情で犯罪者呼ばわりしている。
「うるさい。お前なんかクビだ」机で頭を抱えている。「俺もクビだけどな」
溜め息を吐いたナンテは研究室を後にした。
大学の入り口でマスコミ連中が集まっている。ジャージャーマンに会わせろと叫んでいる。これは取材ではなく、公開処刑をしようとする人々だ。狂気に満ちた目をしている。どんなに科学技術が発達しても人間の根本は変わらない。絶滅一歩手前までいかないと変われないのではなかろうか。警備員たちが必死に抑えている。警備員にしても皆がまともに職務を遂行しようとしている訳ではない。権限行使という優越感に浸っているだけなのだろう。
まさしく先生はエントロピー増大の法則を全うする人間だった。環境だけではない。人々の心までも不安定にしてしまった。
視線をあわせぬように隅のほうからそっと抜け出した。〝ジャージャーマンの助手だ〟という声が聞こえる。誰かがナンテに気がついたようだ。振り返ると一部の記者が追いかけてくる。
逃げろ、という心の叫びに従って足早になった。
背後からの足音に、逃げ切れないかも知れない、と焦る。
左右も確認せずに二車線の道路を渡る途中、クラクションが耳に飛び込んでくる。
しまったと思ったときには、小形トラックに撥ね飛ばされて宙を舞っていた。道路に身体を叩きつけられて転がる。
ナンテはふらつきながら立ち上がった。記者等が無言で見守る中、足を引きずりながらその場を立ち去った。追い掛けてくる者は誰一人いない。
スマホを手にして〝コッター、後は頼んだ〟と心の中で語りかけた。
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