視えるようになった訳

 傘越しに見る空は、裏腹に青かった。


 いや、それを裏腹と……普通傘越しに見るのは雨空だよねというのは、一昔も二昔も前の常識であって、現代的ではないだろう。


 常識は、変わるもの。

 転職が当たり前になり、夏はより暑くなり、春と梅雨と秋がその姿を消してしまい、男も日傘をさすようになり、いいくに造ろう鎌倉幕府とは教えなくなり――

 海岸線が変わり、島々が海に消え、なんとか浦やなんとか洲といった土地がその名の通り水浸しになり、株価は長期での右肩上がりを止め、国名が消えたり増えたりし、去年編纂した地図が出版されるなり歴史資料になり、ジャポニカ米は日本で育たなくなり、マラリアを媒介する蚊が日本を飛び回るようになった。


 そして、幽霊が視えるようになった。


 幽霊といえば、昔はいるとかいないとか決めつけるものではなくて、グレーゾーンに置いといて楽しむものだったはずだ。

 それなのに、数年前から幽霊が視えると主張する人――正確には、なんだか視える気がすると言う人が増え、精神科や神経外科の医師の仕事が急激に増えた。

 そして症例が積み上がり、幽霊だなんて頭がおかしくなったのかと笑っていた人にも視え始め、海外の事例も多く紹介され、人類は結論付けた。


 幽霊は、いると。


 現にそこ、壊れた自販機の近くに男がしゃがみ込んで空を見上げている。いつの時代の人かよくわからないけど、地味な灰色の着物を着て、時代劇の悪い商人みたいな髪型をしている。

 その向こうにある電信柱の側には、ろくに染めてもいない貫頭衣を着て、長い黒髪を結った女がぼけっとした顔で立っている。

 邪馬台国とかなんとか、そんな風に言われる頃の服だよな、あれは。


 そんな微かな人々の横を通り過ぎても、話しかけてくることはほとんどない。幽霊は話さないというわけではないし、たまにボソボソとした声が聞こえるのだけど。

 わからない。

 わからないのだ。

 確かに彼ら、彼女らはこの国に住んでいた先達なわけだけど、話す言葉の変化は大きい。

 世の中には専門家というのもいるけれど、幽霊に話しかけられた人が何を言われたか覚えておいて、専門家に問合せて答えをもらって、同じ幽霊が出たら「そういえばこの間のあれさぁ」なんて言うわけがない。

 だから、幽霊も諦めたのだろう――ということになっている。


 クソ暑い夏の、くれの海岸近くの道路。

 家に帰る前に喫茶店に寄りたくて、物言わぬ幽霊を無視して早足に歩く。


 もう五分ぐらいという所で、なあ、おいお前、なあおい、と若い男の声。


 驚いて、息を呑んで、振り返る。


「なあ、それ……袋の中のビン、それ、酒だろ? 口開けてさあ、そこに置いてくれよ。ちょっとでいいからさあ。酒が飲みたいんだ」


 酒酒と言う影の無い男が着ているのは、いわゆる水兵の、軍服――自衛隊? いや、軍だ。

 彼の制帽にはっきりと、大日本帝国海軍と。


「おいって。あんた、聞こえてんだろ?」

「え、あぁ、いや……なんて言ってるかわかる幽霊が初めてで」

「まあ、そうだろなぁ」

「ていうかやっぱり、いや、幽霊とかやっぱ冗談だろって。ははっ」

「往生際が悪いなぁ。俺はとっくに往生してんのによ、目合わせて口まで利いてんだろうが」

「ははは……幽霊ジョーク?」

「何がジョークだ敵性語使いやがってアメ公かてめーバカヤロー。なんてな。あー、とりあえずその酒、口開けて置いてくんないかな。なんか、知りたいことありゃ教えてやるから」


 そうせっつく幽霊の顔は生気は無いが随分と若いように見え、さぞかし無念だったろうと胸が苦しくなる。

 紺色の軍服にある大きな黒っぽいシミは――それが何なのかなんて考えたくもないし、考えなくてもわかってしまう。

 だから、という訳でもないけれど。

 言われるままに、酒を差し出す。


「あー、あぁ……これこれ、これだよ。あー本当にあれは、本当によう、ひどいもんだったよ。わかるか? あぁ? しまいにゃ金平糖も食えなくなってよお、酒なんかろくに飲めねえしよお、武器も飯も足りてねーのに何が鬼畜米英だバカヤロー糞上官共がいい気で俺のケツぶっ叩きやがってよお、鬼畜はどっちだよなぁおい……おいお前、なんでお前が泣きそうなんだよ」

「いやその、まあ……なんというか」

「待て待て、いい、いいよ。いいんだもう、いやよくねえけど、幽霊にもいいことはあるしな」

「いいこと?」

「敵と上官がいねー」


 ギャハハハハとけたたましく笑う彼は酒に酔っているのか、それともまさか――幽霊が私に気を使っているのか。


「あの……その、死んだのは、その」

「ここの港だよ、艦がいたのはあっちの方。ホントにすげぇ数の敵機が来て、馬鹿みてーな量の爆弾落としやがった。俺もまあ気合い入れて高角砲撃ちまくったけど、ありゃ無理だ」


 建物の向こうに見える海を指さしていた彼は、きっと水兵として敵機を攻撃している最中に亡くなったのだろう。

 そして、何か心残りがあって延々とこの世をさまよっているのだ。


「あの」

「おう」

「何か心残りとかありますか? その、せめて安らかに」

「あ、そうか。そう思うよな。実は俺らってさ、そういうんじゃないんだよ」

「え?」

「別になんか心残りがあって縛られてるとかじゃなくてさ、普通にあの世にいたんだよな」

「え、え、じゃあなんでここにいるんですか」

「えぇ? いやぁ……」


 彼はしばらく考える素振りを見せた後、三途の川と口走った。


「三途の川?」

「そう。見たことある?」

「無いですけど」

「俺はあるよ。サボ島の方で敵艦に撃たれて血がいっぱい出て、死にそうだった時。本当にあの世が近づいた感じがした」

「臨死体験ってやつですね」

「それ。俺は死ぬんだって思ったら、そうなってたんだけど」

「それが何か、関係が?」

「いや、こうやってこっちに出るようになってから、結構ニュースとか見てたんだけど」


 彼は――幽霊はふっと目線を外し、俯いて口ごもった。まるで、何かとても言いにくい事を言おうとするように。


「人間がたくさん死ぬって未来がすぐそこにあってさ、みんな薄々わかってるんじゃねえか? 臨死体験だよ。人間みーんなで」

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