或る作家、流行の悪魔と斯く戦えり

 或る冬の日、帝都のアパルトマンの一室で草臥くたびれた部屋着のままノオトパソコンに向かい、熱心に指を動かす男がいた。所々化粧板の剥げ落ちた安物の机の端には、これまた安物の火酒ウヰスキイが注がれたコツプがあり、安上がりな暮らしの匂いを漂わせていた。火酒に浸った二つの氷は少しずつ溶けてその形を失っていき、しまいにはコチリと音を立てた。

 その音が癇に障ったかの如く、彼はしかめっつらで焼ける様な酒を口に含んで舐めるように転がし、眉間の皺を一層深くして飲み下した。


 ――やめろ、読みにくい表現をするな


 そんなに顔を顰めて何をしているのかとえば、何のこともなく、愚にもつかない三文小説をああでもないこうでもないと弄っては、一端いっぱしの小説家ぶって喜んでいるのであった。

 顔を顰めているのもこれと云って機嫌が悪いと云うことでもなく、文学者とはそう云うものであると頭からめてかかる様な、そして一度そう決めたらそれを中々曲げたがらない、彼の偏屈と頑迷の結果であった。


 ――改行を増やせ、漢字を減らせ、美女を出せ


 彼は再度その安く強い酒を飲み下すと、かじかんだ指を温めようと手を擦り合わせ、また作った様な顰めっ面を浮かべて液晶を睨み付ける。


 ――やめろ、その感じは流行らない


 彼が熱心に書いているのは、明治から大正、昭和の中頃の文学への憧れは垣間見えるも、文学的な感興は一切湧き起こさない小説であった。かの大漱石の三四郎の如く今一つ精彩を欠く大学生の内面を描く物であったが、凡夫の才が描き出す情景は、単に学生が延々と無責任な社会批判を肴に酒を飲む様な退屈な物ばかりであり、更には彼が文学は筋ではないとめ込んで仕舞ったせいで、話が盛り上がる気配すら感ぜられなかった。

「やめろと言ってるだろ」

 彼が突然耳に飛び込んだ声に驚いて顔を上げると、小豆色の袴を穿いた痩せぎすの書生風の男が睨むように彼を見下ろしていた。

「そんな流行らないもんやめちまえ。見ろ、この馬鹿みてぇな格好を。今時こんな古臭ぇもん、誰も喜ばねぇ」

 珍客に驚きながらも害意は無いと見て取った彼は、丁重に素性と来意を問うた。すると男は歯を剥き出しにして笑い声を上げ、怖いものだと口にした。

「悪魔だ。お前が怖くて怖くて仕方がない流行の悪魔だよ。お前があんまり怖がるからよ、出てきちまった。いいか? 俺はなぁ、お前が書いてるようなもんが大嫌いなんだよ。特にそういう自己満足の、奥深くて難解なテーマがあるわけでもない、単に退屈で読みにくいだけのやつはな。二度と小説を書けなくされるのが嫌だったら、さっさと文体を改め……おい、なんだ、何をしている」

 まさかと思ってちょっと文章を打ち込んでみたが、大当たりビンゴだ。

 俺の思ったとおり、の見た目は古臭い着物姿から、革の鎧を着て剣を持った少年に変わってやがる。

 見た感じは中坊ぐらい、†不治の病アンヒーラブル†――またの名を永遠の黒き歴史‡中二病‡に侵されている頃だろう。

「やめろ、その、なんて言うんだその、黒いの」

 ダガーダブルダガー、まさかこんな基本的なことも知らないなんてな。ククッ、ここからは俺の手番ターンだ。

 俺の右手に封印された忘れられし刻†平成†がお前を刻む。永遠とわに流れる時のように!

「お前、上手いとでも思ってるのか? 切り刻むのと時を刻むのをかけて……恥ずかしいとか、そういうのはないのか」

 黙れ! お前は必ずここで倒す。セシリアは俺が護る! 汝邪悪なる流行の悪魔よ、その身に忘れられし刻の黒き歴史を刻み、永遠とわに地獄のほのおに焼かれたまえ。‡暗黒を秘めし煉獄の業火ダークヘルフレイム‡!

「クソがっ、何がヘルだ、誤訳だ誤訳! 煉獄と地獄の区別もつかないマヌケが! 煉獄は、お前が思ってるような物じゃねーんだよ!」

 俺がそのくだらない言葉を華麗にスルーすると、はのたうち回りながら第二形態に変化した。その身に纏うのは、無駄なベルトが何本も付いた†漆黒†のレザー。

 ククッ……流行からズレた文体に、流行から取り残された格好。これがヤツの弱点ウィークポイント。『組織』の連中の言った通りだ。ま、あいつらの調査能力なんて本気を出した俺の足元にも及ばないがな。

 ま、いずれにしてもこれでジ・エンド。

 ククッ、そのまま†漆黒の堕天使†ダークエンジェルとして死んでもらっても俺は構わないんだぜ。

 だが、どうやらそうは問屋が卸さねぇ。

 さすが流行の悪魔なんて大層てぇそうなもんになると、慣れたり飽きたりすんのもべらぼうに早えもんで、今の今まで痛ぇ痛ぇ言ってた癖に、もうけろっとしちまってるときたもんだ。

 なんだって? 下町人情物なんざ流行らねぇからやめろだぁ? てやんでぃこのべらぼうめぃ!

 そらオメェ流行りゃしねぇよ。こんな世知辛ぇ世の中じゃあ人情なんて絵空事だし、江戸弁なんてろくすっぽ聞いたこともねぇや。こうして俺がぇてんのだってさぁ、見様見真似の耳学問、門前の小僧の習ってもねぇお経だよぅ!

 でもよぉ兄ちゃん。あれ、ねえさんになっちまったな。なんでぇなんでぇ、随分と婀娜あだっぽいじゃねぇか。

 ま、んなこたぁどうでもいいんだ。悪魔だかサクマのドロップスだか知らねぇけどよ、いきなり人様のもんにケチつけて、流行りじゃねぇから書き直せってなぁ一体いってぇどういう了見でぃ。

 オメェの言う通り、確かに世の中には流行り廃りってもんがあらぁな。ちっとも流行りに乗ってなきゃ、そら見向きもされねぇよ。

 でもな? 流行りなんざしょせん世を映す鏡じゃねぇか。こちとら日銭稼ぐために本書ぇてんじゃねぇや。手前てめぇで書ぇたもんをよ、世間様の内の一人でも面白えと言ってくれりゃありがてぇと思って書ぇてんだ。欲を言やぁ、手前の創ったもんで流行りを変えてぇ。それが作家の性ってもんじゃねぇのかぃ。

 ってなもんでさぁ、ってかさ、ウチらアソビで書いてんだから、流行とかマーケティングとかより、好きってことが大事なんじゃないかと思う。

 そうやってパソコンに打ち込んでると、アイツは舌打ちしてアタシを睨んだ。

 え? お前ケータイ小説なんか読んだことないくせに、イメージで書いて失礼? 様式が違う?

 関係ねーから笑 そーやってカタにはめんのよくないよ? タヨーセーっていうでしょ。

 ってかなにそれ、何持ってんの? うわ、ガラケーじゃん! なつかしー! ヤッバいよねパカパカパカパカ、今の高校生見たことないかんねそんなん。

 アイツはすごく苦しそうな顔でアタシを見て、ガラケーで何回も床を叩いた。ガマンできないぐらいダサいってことかな。

 カーテンの隙間から月明かりが差し込んで、アクマの青白い顔を照らしてる。涙が頬を伝って落ちて、真珠みたいで綺麗だった。

 アタシが死んだら、誰かがこんなふうに悲しんでくれるのかな。

 くれたらいいな。

 いきなり現れて、なんどもぶつかったアクマとアタシだけど、この思い出はForever……ずっと忘れない。

 震えるみたいに動く唇をよく見ると、やめろって言ってるみたく見える。

 命乞いとかしても無駄ンゴwwww

 誹謗中傷は逝ッテヨシ定期

 もまいらの好みじゃないかも知れんが、もれの好きなのはこれなんだ

 折角マターリしてたのに邪魔しに来たんだから、痛い目見るのは自業自得

 ぬるぽ。

 ガッ!

 ガッシ! ボカッ! アクマは死んだ。

 それの体は雲散霧消し、銭湯の脱衣所の如く湿り気を帯びた生温い風が、彼の頬を軽く撫でる。

 その風は、どこへ流れていくものか。風というものは一見すると自由な様でいて、その実気圧の低い所に流れるのが天然自然の理であるから、件の悪魔もまた低きに流れ、流行の体現者然とした作家連中に後ろ指を指される事を非道く恐れる卑屈な作家のもとに現れるのやも知れぬ。

 だがそれは彼の知った事ではない。風船の様に丸々と膨れ上がった彼の自尊心と羞恥心は、彼が他人に関心を持ち、他人の作品を優れた物と認め、自らの作品を正当な評価の下される場に曝す事から彼を遠ざけており、ただ彼の信念に沿って書かれた作品を只管ひたすらに推敲する事を良しとしているからだ。

 強固な恥の窓帷カアテンの奥に身を隠した彼は流行の悪魔を己の世界から追いやった事に満足し、火酒ウヰスキイで嬉しそうに喉を焼いた。

 所で、悪魔とは元は神に仕えし者である。大悪魔ルシフェルは天使の長たる熾天使セラフヰムの座に在ったとされ、傲慢故にしゅに背いたとされる。基督キリスト教の枠組みで見る限りは神に過ち等有ろうはずも無いのであるが、しかし彼の世界における神である彼が、流行の使者を悪魔として地の獄に追いやった事が正しき行いであるか否かは、まさしく真に神なる者のみぞ知る事であろう。


          〜Fin〜

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