第5話 彼女の正体

 一方その頃。

 エヴァンは王宮の客室ならではの寝心地抜群のベッドの上で目を覚ました。


 開け放したカーテンから差し込んだ朝日が眩しい。空は青く、今日もいい天気になりそうだ。

 久しぶりにぐっすり眠った。それにすごくいい夢を見た。

 幸せで、ずっと見ていたくなるような夢だ。

 ぐっすり眠ったにもかかわらず気怠いのは、強行軍で王都に凱旋したうえに、夜遅くまで祝賀会に付き合ったせいだろう。

 だが、気持ちは晴れ晴れとしている。こんなにいい気持ちで目が覚めたのは、メーアが生きていた頃以来ではないだろうか。


 ――そういえば、俺はいつ、部屋に戻ってきたんだっけ?


 祝賀会で、エヴァンを目の敵にする軍務大臣に何やら仕掛けられて具合が悪くなったんだった。

 突然、胃のムカつきとともに下半身に血が集まりだしたため、すぐに媚薬系の薬物が使われたのだと気が付いた。


「どうだね、『エロスの矢』の味は」


 だんだんと強まる衝動に混乱していたところに軍務大臣が近づいてきて、すれ違いざまに囁く。

「エロスの矢」は知っている。

 命までは奪わないが、人間の尊厳を著しく傷つける、卑劣な毒物だ。

 恋心と性愛を司る神の名にちなんでつけられた名前をしている。


「君は不能だともっぱらの噂だから、たいしたことはないだろう? 今夜は君のための祝賀会だ。楽しみたまえ」


 そう言って軍務大臣が去っていく。

 畜生め……、と口の奥で呟いた言葉を聞き咎める者はいなかった。


 なぜ軍務大臣が自分を目の敵にしているかというと、エヴァンが一人で敵を叩きのめしていくから、軍隊の出番がない。そのため、最近国王から「軍への予算を抑えて魔術師団に回すべきでは」という提案がなされたのだ。


 物理攻撃が得意な魔術師を戦場に送り込むこと自体は、ずいぶん前から行われていた。

 だが魔力がきちんと扱える人間は少ないため、長らく軍隊のお荷物のような扱いだった。

 流れを変えたのはメーアだ。

 メーアの登場で、逆に軍隊は魔術師の添え物と揶揄されることが増えてきた。


 そのメーア亡きあとに現れたエヴァンは、メーアの上を行く魔力の持ち主であり、戦場においてまったく軍隊を必要としない。

 ゆえに軍隊は、エヴァンの存在がおもしろくないのだ。


 だがエヴァン自身は、軍隊が自分の添え物とは思っていない。

 都市部の制圧はエヴァンにはできない。それは軍隊の仕事だ。けれど、攻撃に関しては軍隊を動かすよりは自分一人でやったほうが早いし楽だとは思っているし、実際にそう発言して作戦会議を凍り付かせたことは一度や二度ではない。


 もともと軍隊からいい目で見られていないところに、先日の国王の空気を読まない発言。

 エヴァンが知らないところで、軍務大臣には何かしらの圧力がかかっており、焦りを感じていることは察知していた。

 昨夜はその不満が噴出したのだろう。

 それが「エロスの矢」とは。


「エロスの矢」を使われた人間を見たことがある。

 解毒されない限り、ずっとムラムラし続けるという地味に気力を奪っていくいやな毒だ。

 この毒で死ぬことはないが、「想う相手と性交する」という方法でしか解毒できない。


 だからすぐに離れたかったが、王妃が現れてダンスをせがまれたからそれもできず。

 王妃を皮切りに次々とお偉方の奥方やご令嬢がダンスをせがんできたので、立場上無碍にもできないエヴァンは、ダンスに付き合った。変に動き回ったせいで毒物が一気に体に回って、体調は急降下だ。

 心臓はバクバクするし、胃はムカムカするし、なんといっても下半身に血が集まる。


 ようやく一区切りついてその場を離れた時にはもう、かなり厳しい精神状態に追い込まれていた。しかも熱まで出てきたようで、体がだるくてたまらない。


 人気のいないところで、とりあえず体調が落ち着くまで休もう。

 絶対に人前で醜態なんてさらすものか。

 薄れていく意識の中でそう思ったのは、覚えている。

 そのあと、誰かがエヴァンに声をかけてきたのも、覚えている。確か、王宮の外、中庭の植え込みの陰に座り込んで休憩していた時だ。

 そのあたりまではかろうじて記憶が残っている。


 ――そのあとは……?


 エヴァンはベッドに寝っ転がったまま、窓の外に広がる青い空を眺めつつ考え込んだ。

 昨夜の焼けつくような衝動もなければ、熱も引いているので、「エロスの矢」はすっかり解毒されていると見ていいだろう。


「エロスの矢」の解毒方法は想う相手との性交のみだ。寝て起きたらスッキリ! というタイプの毒ではない。

 エヴァンの想う相手は故人である。

 じゃあどうやって毒は抜けたのだろう?


 考え込んでいるうちに、誰かがそばにいたことを思い出す。


 誰かって、誰だ。

 メーアでないのは間違いない。故人だし、だいたい彼女はエヴァンの目の前でばらばらになったので、実は生きていましたというオチも絶対にない。

 となると、メーアではない誰か、生身の人間になるわけだが……。


 ――どういうことだ。俺は生身の人間には反応しないはずだろう。


 考えているうちにぽつぽつと断片的に、昨夜の記憶が蘇る。

 誰かがいた。

 誰かをこの手に……

 昨夜の記憶をなぞるうちに、ツンと下半身に熱が集まる。

 どういうことだ。今までどんなに煽られても、エロチックな場面に遭遇しても、目の前にいるのがメーアではないという理由でまったく反応しなかったのに、メーアではない娘に興奮するなんて。

「エロスの矢」のせいか? この体にはまだ毒が残っているのか?


『私のことは『師匠』と呼べと伝えただろう』


 不意に耳の奥に、ドスの利いた低い声が蘇った。

 遠い昔に何度も言われた。

 でも、昨夜も言われた。

 そんなことを言う人間は一人しかいない。


 メーアだ。


 彼女の魂は禁断の黒魔術を使って転生させている。

 成功していたらメーアは十八歳になっているはずだ。


 ――昨日、俺が抱いたのは、メーア……の、転生者……?


 それなら、「エロスの矢」が解毒されたことも、この体が反応したことも説明がつく。転生者とはいえエヴァンは確かに想う相手を抱いたのだから。

 しかもあのセリフを言うということは、転生したメーアには前世の記憶がある。


 ところで、メーアの転生者は十八歳の娘である。

 事態の流れから、エヴァンはその娘にいきなり襲い掛かった可能性が高い。

 そう気付いた途端、一気に血の気が引いた。


 ――今すぐ捜し出して謝罪! それから求婚だ。


 間違っても欲望のはけ口にしたわけではないことだけは、しっかり伝えなくては。


 昨日の今日だ。

 まだ近くにいるに違いない。

 こうしてはいられない。

 エヴァンはシーツをはねのけ、ベッドから飛び降りた。

 その時、足元にひらりと黒いリボンが落ちる。

 リボンなんてエヴァンが持っているわけがない。

 これは昨日の彼女のものだ。


 エヴァンはそれを大切そうに拾ってベッドサイドのテーブルに置くと、バスルームに駆け込んだ。


***


 メーアの体がばらばらになる直前、エヴァンは禁忌と言われる魔術を使った。黒魔術と呼ばれるものだ。

 黒魔術は「理論上は可能だが実際には不可能」という、机上の空論のような分野だ。

 いろんなところで研究されているが、実用化に至った例はなく、「黒魔術は実用不可」と思われている。


 その黒魔術を大真面目に研究した魔術師がいるのだ。その男が書き残した黒魔術の本が、王都にあるメーアの屋敷の書斎にあった。本棚には鍵がかかっていた。エヴァンはその鍵を壊して黒魔術の本を読んだことがあった。

 ちなみにメーアをはじめとしたこの国の魔術師は、攻撃魔法以外の魔法がほとんど使えない。そのかわり、攻撃魔法だけはどこの国の魔術師よりも強い。


 魔術師には、技術的には可能だがやってはいけない魔術がいくつかある。

 たとえば、死者をよみがえらせようとしたり、魂だけをこの世につなぎとめようとしたり。

 自然の理に逆らうには、術者は大きな代償を支払わなくてはならない。しかも代償を支払っても望む結果を得られるとは限らない。極端に成功率が低いのだ。


 本を読んだ時、「確かにこれは使えないな」と思った。でも黒魔術の本に一通り目を通しておいてよかった。あの時、エヴァンは死にゆくメーアの体から魂を引きずり出し、他者の肉体に強制的に移し替える術を使った。

 魂だけをこの世につなぎとめる黒魔術の応用だ。

 その代償として何を奪われるかはまったくわからなかったが、メーアの魂が助かるのなら命くらいくれてやってもいいと思った。


 失ったのは、魔力を視る目だった。手足も無事だし魔力も失われていない。

 その程度の代償でいいのかと思ったが、魔力が視えなければ、メーアが転生できたかの確認のしようもないし、転生したメーアに会ってもわからない。

 メーアを捜しようがない。

 メーアを完全に見失ってしまったと気付いた時は、比喩でなく目の前が真っ暗になった。


 だからエヴァンは戦場の魔術師になった。少しでもメーアを見つける確率を高めるために。戦場の魔術師のもとにはこの国の様々な情報が集まる。どこかにメーアにつながる情報があるかもしれない。

 望みは薄いが、ゼロではない。

 魔力が見えていないことは内緒だ。「欠陥品」の扱いはよくないから。


 それに別に魔力が視えなくても、戦場の魔術師の仕事は攻撃魔法による物理的な攻撃だ。早い話が、「ここを破壊しろ」と言われた地域一体を吹き飛ばせばいいだけである。

 魔力を単純な攻撃力に変換するのはそう難しくはない。

 黒魔術のように複雑な魔法陣を展開する必要もない。

 ただ自分の魔力も視えないので、狙った場所に着弾させるのは経験と勘が必要だった。


 エヴァンは魔力が視えないことを悟らせないまま戦果を出し続け、「英雄」と呼ばれるようになり、いつの間にか「魔術師団」なるものが創設され、初代団長に就任させられていた。

 国王はエヴァンの活躍に大変満足しており、やがて軍部軽視ともとれる発言につながっていくのである。

 エヴァンとしては言われた通りに仕事をしているだけなので、逆恨みもいいところだ。


 メーアを失ったあの日からずっと、メーアが転生できたと信じて、彼女を探している。

 エヴァンに優しかったメーア。

 人殺しと呼ばれることに苦悩していたメーア。

 もうそんなことはしなくていいよ、悩まなくてもいいよ。全部俺がやるから。だからメーアは静かなところで今まで我慢していたことをやったらいいよ。幸せになったらいいよ。全部俺が叶えてあげる。


 戦い続け、貪欲に報酬を求めたのは、そのほうがメーアを捜しやすいこともあるけれど、ゆるぎない立場に立ちたかったからというのもある。

 もしメーアが見つかった時に、絶対に守れるように。

 なのに、何も見つからない。あれから十八年。

 転生していれば十八歳。

 一応、人間への転生を試みているので、動物にはなっていないはずだ。性別は指定できなかったけれど……。


***


 冷たいシャワーを浴びて多少頭が冷静になったエヴァンは、バスルームから出てくると昨日脱ぎ捨てた服をかき集めて着ながら、考え込んだ。

 昨日の娘を捜すには、どこから手を付ければいいんだろう?


 手がかりは黒いリボンだけ。

 ほかにわかっているのは、目が覚めたらいなかったことから、昨日一緒にいた娘はエヴァンに見つかりたくない。あるいは、エヴァンとの関係を知られたくない立場にいるということ。

 祝賀会でエヴァンに群がっていた令嬢なら既成事実ができたと大喜びしそうだから、あのあたりは除外するとして……そうなると残るのは、身持ちの固い令嬢か、メイドくらいだ。


 ――候補が多すぎる……。


 昨日の大広間の様子を思い浮かべ、エヴァンはげんなりした。

 もうひとつの手がかりは、エヴァンに付き合わされてヘトヘトになっていること。


 ――昨日、祝賀会に参加していて、黒いリボンを落として、今日、体調が悪くなっている娘、か。


 やっぱり候補が多すぎる。

 いや、今までまったく手がかりがなかったことを思えば、少しでも手がかりがあるだけマシだ。片っ端から当たっていけばそのうち出会えるのだから。


 まずは捜しやすそうなメイドから当たってみるか。

 祝賀会の片付けのために、みんな大広間に集まっているはずだ。

 メイドの中に見当たらなければ、令嬢たちを一人ずつたずねればいい。参加者名簿はどこかにあるはずだ。

 そう結論を出し、エヴァンはさっそく大広間へと向かった。

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