第4話 当然の結果

 朝日の直撃を受けて、アンナは目を覚ました。


 ――ここ、どこっ!?


 窓のカーテンは開けっ放しになっている。

 見たことがない天井と窓からの景色に混乱したまま反対側に目をやると、すぐ隣には長い銀髪をした、裸の成人男性。うつ伏せで、片腕はアンナの胴に回されていた。シーツから飛び出している背中には無数の傷があり、一か所、大きな盛り上がりがある。

 やけどの痕だ。


 隣にいるのはエヴァンだ。まぎれもなくアンナ……メーアの知るエヴァン。

 そう気付いた途端、昨夜のあれこれを思い出す。

 アンナはそっと手を伸ばしてエヴァンの体に触れてみた。

 昨夜のように熱くない。

 呼吸音も落ち着いている。


 ――解毒されていそうな感じね。


「エロスの矢」は想い人と性交すれば解毒できるはずだが、ここにいるのはアンナであってメーアではない。メーアは十八年前に死んでいる。

 なぜアンナで解毒できたのかわからない。


 ――エヴァンは私のことをメーアだと最後まで思い込んでいたせいかしら。


 そういう意味では確かにエヴァンは想いを遂げているけれど。


 ――思い込みでなんとかなる毒なのかな?


 そこは疑問だ。


 ――まあ、人の手で作られたものだから、誤作動を起こす可能性はゼロではないわよね。


 エヴァンは誰かの悪意で「エロスの矢」を使われたと言っていた。その人はエヴァンが醜態をさらすのを期待していたのだろうが、解毒できたのならエヴァンの危機は回避できたといっていいはず。

 メーアの記憶を総動員して、エヴァンを目の敵にしそうな人間とやらにも見当がついたが、まあそれはいいとして。


 ――なら私はお役御免よね。


 はからずもエヴァンが求めているのはメーアであることが証明された形だ。

 が、くどいようだがここにいるのはメーアではなくアンナである。

 そしてそのアンナは、仕事を放棄してエヴァンと一晩過ごした形になっている。


 仕事を放棄したので雇い主に怒られる。→次の仕事探しに差し障りがある。

 結婚前にふしだらな行いをしたのでアンナの評判が傷つけられる。→次の仕事探しに差し障りがある。

 エヴァンは勤務中の臨時メイドに一晩の相手をさせた。→エヴァンの評判が落ちるかもしれない。


 この事態が明るみになっていいことは何もない。特にアンナ。

 平和な人生を歩む計画がおじゃんになってしまう。

 過去と決別したいアンナは、今生はエヴァンとは他人でいるつもりだ。

 だからエヴァンに責任を取れ、と迫るつもりはない。


 ――逃げよう。


 誰にも知られなければ、騒ぎにならなければ、エヴァンにも知られないままでいられたら、今なら軌道修正が間に合う。

 傍らのエヴァンをうかがう。

 ぐっすり眠っている。


 気付かれないように腕を外し、そーっとベッドを降りると、床に投げ落とされていた自分の衣類をかき集め、素早く身に着けた。

 でも、髪の毛をまとめていた黒いリボンだけは見当たらない。この部屋でほどけたのは間違いないが、どこにあるのかわからない。

 ごそごそ探していたらエヴァンが起きてしまうかもしれない。なんの変哲もないリボンだから諦めよう。

 ちらりとベッドに目をやる。エヴァンはまだ夢の中だ。

 見つかりたくない一心で息を殺し、部屋を出る。


 王宮のどこかだというのはわかる。まだ朝早いから人の気配はない。

 王宮メイドとは異なる臨時の制服の娘がこんなところをうろついているなんて、誰にも絶対に見つかってはいけない。


 心臓が飛び出そうなほど緊張しながら、アンナは人の気配を探りつつできるだけ静かに、そして足早に、建物の出口へと向かった。


 ――外に出たら、どこにいるのかわかるかしら。


 王宮は広いし、用がある場所しかわからない。迷子になって人目につくのだけは避けなければ。

 ああどうかすぐに出口がわかりますように。

 アンナの願いが通じたのか、幸い誰にも出会わずに建物の外に出られた。そのままうろうろしていたらすぐに知った場所に行き当たり、変な顔をする門の衛兵にできるだけ不審に思われないよう爽やかに挨拶して宿に向かう。

 王宮メイドは王宮内に部屋をもらうが、臨時バイトは人数が多いので全員通いだ。


 宿に駆け込むと大急ぎで風呂の支度をする。この宿には常時使える大きなお風呂がついているのだ。水が贅沢に使える王都ならではの仕様である。

 体をきれいに洗って、風呂上りに水を一杯飲んでから少々しわが目立つお仕着せを再び着て王宮に向かう。


 体はくたくただし、寝不足だし、朝食は食べ損ねたけれど、臨時バイトは昨日の祝賀会の準備、給仕、そして今日の後片付けの二日のみ。後片付けは午前中で終わる予定だ。

 しっかり働いて、王宮メイドの仕事をゲットしなければならないので、くたくた、寝不足、朝食抜きくらいでヘタるわけにはいかない。

 生活がかかっているのだから。


 ところが……。 


***


「終業の点呼時に姿がありませんでしたが、どこにいたのですか?」


 始業の点呼終了後、臨時バイトを統括するメイド長に呼び止められてそう問われた。


「申し訳ございません……急におなかが痛くなりまして、お手洗いにこもっておりました。指定のお手洗いが遠くて、ようやくおなかの痛みが治まって戻ってきたときには、すでに皆様はいらっしゃらなくて」

「……そう。まあ、出物腫物ところ選ばずといいますしね」


 メイド長はしわくちゃのお仕着せを眺めつつ、一応は納得したように頷く。


「ところで、そのリボンはどうしたのですか。色のついたリボンは禁止と伝えたはずですよ。臨時雇いとはいえあなたも王宮勤めなのですから、服装の規定は守らねばなりません」

「申し訳ございません。昨日、お手洗いに慌てて向かった際、植え込みにひっかけてなくしてしまったようで……」


 ごにょごにょと苦しい言い訳をすると、


「まあ、今日はお客様の前に出ることもないから大目に見ましょう」


 メイド長はそんな言葉を置いて去っていった。

 黒いリボンなんて何本も持っていない。昨日、髪の毛をまとめるのに使っていた黒いリボンをなくしたアンナは、しかたなく、手持ちの中ではこれでも一番地味なラベンダー色のリボンで、髪の毛を結んでいた。あとは亡き両親が贈ってくれたレースのリボンだから、働く現場で身に着けるにはあまりにも不向き。


 これは、目をつけられたかも。冷や汗をだらだらとかきつつ、アンナは全体ミーティングで指示された場所に行き、みんなに混ざって祝賀会の片付けを始めた。


 しかし少しも働かないうちに、体に力が入らなくなってその場にへたりこんでしまった。

 少し動かすとあちこちがズキズキする。


「どうしたの、アンナ」


 アンナの異変に気付いたソフィアが、座り込んで動かなくなったアンナのもとに駆け寄る。

 昨夜無理な体勢をとったり激しい運動をしたりした反動だというのはわかったが、昨夜の出来事を素直に言うわけにはいかない。


「わからないの、体が急に……」


 周囲がアンナの異変に気付き、ざわめきが広がる。

 ほどなくしてメイド長がやってきた。


「顔色が真っ青ね。今日はもういいわ、アンナ・ベッセル」

「いいえ! 働けます。働かせてください!」


 ここで使えない認定をされたら、王宮メイドになれない。アンナは立ち上がろうとしたが、足腰に力が入らないことには変わりなく。


「無理でしょう、アンナ・ベッセル。そんな顔色で何ができるというの。少し休んだら主計局にて賃金をもらって帰りなさい」

「え……あ、あの……それでは、王宮メイドへの採用は……!?」

「自己管理ができないようでは、王宮メイドなど務まりませんよ。たった二日程度の勤務で、これではね。ここは剣を使わない戦場なのですよ」


 メイド長にぴしゃりと言われ、アンナは呆然となった。

 なんということだ……。

 言うだけ言うと、メイド長はさっとスカートを翻して去っていった。

 アンナはただその後ろ姿を見送ることしかできなかった。


「アンナ、人の少ないところで休んだほうがいいわ。本当に顔が真っ青よ」


 ソフィアがしゃがみこんでアンナの顔を覗き込む。


「……どうしよう、ソフィア。私、仕事をしないと……」

「ええ、わかっている。家を出てきたのよね、昨日話してくれたから覚えているわ。その仕事だけど、私の実家の手伝いでよければ紹介してあげられるけれど、どう? あ、あやしい仕事ではなくて、家業の事務の手伝いなんだけどね……そういうのでもよければ……王都じゃないけれど……」


 申し訳なさそうに言うソフィアに、アンナは目を見開いた。


「本当!? ぜひ聞かせて、お願い!」


 アンナの切実な叫びにソフィアが頷く。

 生きていくためにはどうしたってお金が必要。お金が得られるのなら、仕事を選んでいる場合ではない。豪農だというソフィアの実家なら信用できそうだ。

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