第3話 エロスの矢
祝賀会は明け方まで続く予定であったが、時間がたつにつれてどんどん人が減っていく。
忙しく立ち回っている間に、ふと気が付くとエヴァンの姿もなくなっていた。
エヴァンが出ていく姿くらいは見たかったな、ちゃんと見送りたかった。そう思ったが後の祭りだ。
忙しさが一段落したところで、用足しに行くことにした。
臨時バイトが使っていいお手洗いは遠くに設定してあり、王宮本館の外にある。行きも帰りも暗くてしかたがない。王宮の敷地内だから市中よりは安全とはいえ、明かりのない建物や大きな庭園はやっぱり怖い。
暗がりにビクビクしながら用を済ませ、習い性にて足音をひそめながら元来た道を戻っていた時だった。
かすかな呻き声が聞こえてきた。
アンナは足を止めた。
行きは気付かなかった。
誰かが近くで倒れているのだろうか?
ここは王宮。今宵は宴。一人ではない可能性もあると思って耳を澄ませる。
あたりは静かだ。呻き声は気のせいだった?
しばらくして、再び呻き声が聞こえた。それ以外だとかすかに身じろぎするような衣擦れの音。物音は一人分だけのようだ。
誰かが酒を飲みすぎて倒れているのかもしれない。
「大丈夫ですか?」
アンナはこのあたりかな、と思う建物の脇、植え込みの裏の暗がりにそっと声をかけた。
「誰か人を呼びましょうか」
「……必要ない」
しばらくして返事があった。男の声だ。アンナが予想しているあたりに倒れているようだ。
「だが、水を持ってきてくれると助かる。喉が渇いてしかたがない」
「かしこまりました」
アンナは急いで厨房に向かうと大きなゴブレットに水をいっぱいに入れて、暗がりに戻った。
「お水をお持ちしました」
「そこに置いて……」
「下は土ですから難しいです。倒れてしまうかもしれません。それに暗いし……この暗がりでお顔はほとんどみえませんから、手渡しのほうが……」
「……そうだな」
アンナはゆっくりと近付いた。
そっと植え込みを覗き込む。
真っ先に飛び込んできたのは、淡く光を放つ銀色の髪の毛だった。
髪の毛だけでなく、体全体が淡い光に包まれている。強い魔術師は魔力がこぼれるとこうして淡く体が輝く。意識がはっきりしていて魔力を抑え込んでいれば起こらない現象だ。だからエヴァンは今、魔力を抑えられない状態にある、といえる。
英雄と呼ばれる戦場の魔術師エヴァン・アルデバランが建物に背中を預ける姿勢で、植え込みの陰に座り込んでいた。
呼吸が荒いので、相当に苦しそうだ。
「ああ、ありがとう」
エヴァンが顔を上げる。
淡い光に包まれた顔の両目だけが暗い。
「……あなた、目をどうしたの……」
思わずアンナは呟いてしまった。
光を放っていないということは、その目は魔力を持たない。視力の有無は別として、魔力を視る機能は失われている、ということでもある。
「いつ視えなくなったの……魔術師なのに目が使えなかったら大へ……」
ハッとしたようにエヴァンを包む光が消える。
エヴァンがアンナの腕をつかみ、強く引っ張った。突然のことに対処しきれず、アンナは引っ張られるままエヴァンの前に膝をついた。
ゴブレットが落ち、あふれた水がお仕着せのスカートを濡らす。
「何を見た?」
エヴァンの大きな手がアンナの顔を掴む。
指先が顔に食い込んで痛い。その指先はやけに熱く、汗ばんでいた。
エヴァンの光が消えた今、暗すぎてエヴァンの顔はよく見えない。けれど、エヴァンの体がひどい熱を持っていることはわかった。
荒い呼吸をしていることも、水を欲しがったのも、熱のせいだ。
どうして、さっきまでは普通にしていたのに。祝賀会に参加していたのに。
「答えろ。答えなければおまえの指を一本ずつ潰す」
医官を呼ぶべきだ、という結論を出しかけていたアンナの耳に届いた非情な声に、ぷち、とアンナの中で何かが切れた。
「指を潰すだと?」
この体になって一度として出したことがない低い声で聞き返す。
「自分より遥かに弱い者をいたぶるために魔力を使うというのか、エヴァン? 私はそんなふうに育てた覚えはない」
エヴァンがはっとしたように、アンナの顔を掴んでいた指の力を緩める。
「戦場の魔術師は時として非情になる必要があるのは事実だが、ここは戦場か?」
あんなに口を酸っぱくして「戦場以外でみだりに魔術を使うな」「品位を落とす行動は慎め」と教えたのに、どうして守らない!
怒りが込み上げる。
自分の教えを守らなかったエヴァンへの怒りと、エヴァンをそんな非情な場所に追い込んだメーアへの怒り。
その怒りのあまり我を忘れたのはアンナの落ち度。
「……メーア……?」
「私のことは『師匠』と呼べと伝えただろう、エヴァン。戦場の魔術師は強い力を持つがゆえに、万能感を持ちやすい。自分を律しろとあれだけ強く言っ……」
「メーア!」
エヴァンがアンナを強くかき抱く。
「これは夢か? ああ、夢でもいい。メーア、会いたかった! 十八年だよ、メーア。遅いよ! あなたは薄情だ、死んでから一度も俺の夢にさえ出てきてくれない!」
「え? あ、あー……? ごめんなさい……?」
反射的に謝ったあとで、「いや、ここ謝る場面じゃないよね?」と思うくらいには、アンナも動揺していた。
「会いたかった、会いたかった! もう一度会いたかったんだ、メーア……ああ、メーア、ずいぶん小さくなって。俺が大きくなったのかな」
エヴァンはアンナを抱き締めながら、確かめるように体中をまさぐる。
感激しているのはわかるのだが、メーア二十六歳、エヴァン十四歳当時ならまだしも、今のエヴァンは三十二歳。一方のアンナは十八歳。絵面がヤバイ。しかも場所は王宮の片隅、屋外。
目につきにくい場所とはいえ見られたらアウトだ。アンナが。
「お……お離しください、エヴァン様! 私はメーアではありませんっ」
我に返ったアンナはいつも通りの声で叫び、エヴァンの腕から逃れようとした。
「具合が悪いようですから医官を呼んでまいります、しばらくお待ちくださ……わあっ」
「医官など役に立ちません」
アンナが叫んだのは、エヴァンがアンナを横抱きにかかえて立ち上がったからだ。
「俺に使われた毒が何なのかはわかっています。解毒方法もわかっている。だがそのために必要なものが手に入らないから絶望していたところだったんです」
言いながらエヴァンがすたすたと歩き出す。
高熱を出して体調を崩していたのではなかったのか、この人は!
離してもらおうとぐいぐい胸板を押してみるが、小柄で特に体を鍛えていないアンナの力では、鍛えられた肉体を持つ成人男性のエヴァンにはまったく通用しなかった。
出会った二十年前は少女に見間違えるほど華奢だったくせに、別れた十四歳の時だってまだその面影が残っていたくせに、今は整った顔立ちはそのままに、顔も体つきも男らしくなった。何を食べたらこんなに立派に育つわけ!?
「エヴァン様、申し訳ございませんが、私はまだ仕事中なのです! 持ち場に戻らなければ怒られてしまいますし、王宮メイドへの採用の話もなくなってしまうかもしれないのです」
「誰がメーアを怒るんですか? あなたは誉れ高い戦場の魔術師なのに」
「私はメーアではありませんから!」
「俺には、メーアに見える」
エヴァンに連れ込まれたのは、王宮の客室のひとつ。
おそらくエヴァンに与えられた部屋なのだろう。
「あなただいぶ視力が悪くなっているわよ!」
「そうかもしれません」
「だったら眼鏡かけてよ! 私はメーアじゃないわ! ほら、メーアはもっと背が高かったし、もっとたくましかった! 今の私はチビだし細いわ! 髪の毛だって、メーアは黒くてまっすぐだったでしょ! 今の私は金色で癖毛よ!」
「あなたはメーアです。さっきの怒鳴り声、間違いなくメーアでした」
エヴァンによって、そっとベッドに下ろされる。
この展開、非常にまずい。跳び起きようとしたアンナの両手をエヴァンが上から覆いかぶさるようにして押さえつけてきた。
「聞け、エヴァン。私はメーアじゃない。メーアは死んだんだ」
聞き分けの悪い弟子を目の当たりにして、再びメーアの意識が強まる。こんなふうにメーアの意識が強まったことはなかった。ただ記憶があるなあくらいの認識しかなかったので、自分でも驚く。
「知っています」
「だから私はメーアじゃない」
「メーアは転生している」
「は……?」
「俺がメーアを転生させました。あなたの屋敷にあった、黒魔術の本を参考にして。あとは見つけるだけなんだ。なのに目を対価として奪われたせいで見つけられなくて、悔しくてたまらなかった。ずっと捜していました。ようやく見つけた。メーア……俺のメーア」
「だから違……っ」
上からのしかかられるようにして口づけられる。狂暴な口づけだった。アンナはもちろん、メーアもこんな口づけは経験したことがない。
深い口づけにアンナはパニックに陥った。
「あいつらは俺に毒を使った。魔術師は毒に弱い。メーアなら知っているでしょう?」
唇を離して、エヴァンが囁く。
「毒……」
「俗にいうエロスの矢です」
「……悪趣味……っ」
エロスの矢とは性欲を肥大化させる毒物の名前だ。媚薬というには効果が強すぎるために、毒物と認識されている。
解毒方法は「想う相手との性交」のみ。
解毒されない限り、毒の作用は消えないからずっと苦しみ続けることになる。死にはしないが、まあまあ生活に支障が出る、厄介な毒なのだ。
異国に伝わる、ごく一部の人しか扱えない特殊な魔法が組み込まれた材料が必要になるため、なかなか手に入らないことでも知られる。まがい品も多い。本物を手に入れようと思ったら、いったいいくらかかることか……。
誰かが大金を払って、その毒でエヴァンを貶めようとした。しかも英雄の凱旋、祝賀会という華やかな場で。
「メーア、メーア……!」
亡き師匠の名をうわごとのように繰り返しながら、エヴァンがもどかしげにアンナの服を脱がしていく。
逃げるべきだ。自分はメーアではないのだからエヴァンを救えない。エヴァンに貞操を奪われたら自分の結婚にも影響が出てくる。第一、仕事中にこんなことをしたことがバレたら即刻クビだ。王宮メイドへの道が閉ざされてしまうし、仕事中にふしだらな行いをする娘なんてどこの貴族も雇ってくれない。第二の目標、貴族の屋敷メイドへの道まで断たれてしまう。
それだけは避けなくてはならない!
でも。
――物理的に無理そう!
がっちりたくましい腕に押さえつけられていては、逃げるも何も。
「メーア、好きです。好きです……! ようやく会えた、俺の……」
エヴァンのむき出しのメーアへの恋情に、くらくらする。
知らなかった。エヴァンはメーアのことが好きだったのか。
不意に、幼さの残るエヴァンがコロコロとよく懐いてくれていたことを思い出す。
メーアは一人には慣れていた。世話係なんて必要なかった。それでもいろいろと理由をつけてエヴァンを手元に置き続けたのは、懐いてくれる彼に癒されていたからだ。
でもそれだけじゃなかった。
浅ましい独占欲もあったのだ。
日々たくましさを増し、数年後には大人の男性になるであろう彼に、どうしようもなく惹かれていた。そしてそれ以上の気持ちを抱いてはいけないと自分を戒めていたことを思い出した。
だって相手は保護者をなくした子どもなのだ。
保護者が子どもに邪な感情を抱いていいはずがない。彼の成長に悪影響を与える。
エヴァンはメーアを師匠として慕っている。彼の信頼を裏切りたくない。だからメーアは指導者でいなくてはいけない。
支配してはいけない。
ましてや恋情など。
エヴァンを大切に思うからこそ、彼には健やかに育ってほしい。
そう思っていたのに、当時の願いは見事に裏切られ、全然健やかに育ってない!
やはり途中で育児放棄してしまったせいか。
衣服をはぎとられて晒した肌にエヴァンの口づけが降る。
エヴァンの熱がうつったのか、アンナの体も熱くてたまらない。
飢える苦しさでエヴァンがアンナの体を貪っていく。
抑える余裕がないのだろう、魔力があふれてエヴァンの体が淡く光る。銀色の髪の毛からさらさらと光の粒子が零れ落ちてとてもきれい。
遠い昔、まだメーアだったころ、エヴァンの銀色の髪の毛から光の粒子がこぼれる様子を見るのが好きだった。メーアのもとに連れてこられたばかりのエヴァンは悪夢にさいなまれて、よく眠れない日が続いていた。メーアが添い寝してあげるといくらか気持ちが落ち着くらしかったので、メーアはよくエヴァンが眠るまでそばについていてあげたものだ。
そういう時、エヴァンの髪の毛は淡い銀色の光に包まれていた。
強すぎる魔力を制御できず、持て余していた証拠でもある。
だからメーアは、なんとかしなければ、と思ったのだ。でも自分に教えられるのは攻撃魔法だけ。
戦場の魔術師として求められるのは強い物理攻撃力。魔力を物理の力に変換するのはとても簡単なのだ。メーアは簡単かつ狂暴な魔法しか使えない。
もっと優しい魔法が使えたらよかったのに。
エヴァンの寝顔を見ながら、そんなことを思っていた。
そのエヴァンから与えられる暴力的な快楽の前に、アンナはなすすべもなかった。アンナの気持ちはまるで無視したまま、エヴァンはアンナの体を貪り続けた。
救いはエヴァンから溺れるほどの快楽と恋情を与えられたこと。一方的に性欲のはけ口にされたなら、アンナの心はズタズタになっていたことだろう。そうではなかった。
メーア、ずっと捜していた。見つかってよかった。好きだった。勝手に死んだことは許さない。愛しています、メーア……もう絶対に離さない……
自分は彼の保護者なのだからとその気持ちから目を逸らしていた、その彼が自分を求めてくる。
その事実にアンナの中で死んだはずのメーアが昏く笑う。
アンナを揺さぶりながら、エヴァンは泣いていた。
男の人が泣く姿を初めて見た。
私は平和で平凡な人生を送りたい。好きな人と結婚して、その人の子どもを産み、育てる。
その相手はエヴァンではない。
メーアを求めるこの人ではない。だって私はメーアじゃない。
メーアには戻りたくない。
なのにこの人はメーアを求めるのね。
メーアは確かにエヴァンのことが好きだった。
好きな人に好きだと言われて求められているけれど、アンナの中でのメーアはすでに故人。死んだ人間を好きだと言われても、素直に受け入れられない。それでもアンナはメーアでもあるわけで。
嬉しいのか悲しいのかわからない。涙が止まらない。
「メーア、メーア……!」
男が名を呼ぶ。
十八年も前に死んだ師匠の名前を。
おかしい。
仕事を探していただけだったのに。
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