第2話【シェリルとウィル】
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花束を抱きしめ、踊る様に泳ぐ。小魚たちは不思議そうな顔をしてシェリルを避けたが、そんなことは気にもならなかった。
水の中にいたシェリルにもはっきりとわかった、黒い闇夜の様な髪と、すべてを吸い込むような黒い瞳。すらりと伸びた体躯は正しく王子に相応しいいで立ちだった。そんな彼が、自分のことを想っていてくれているのだと考えると、心臓の鼓動は早く、そして強く脈打つ。誰かに自慢したいような、でも一人だけのものにしておきたいような。
「そうだわ、ウィルがいる」
ふわり、と鰭の動きを変え、海面を目指す。上着のポケットから携帯を取り出し、ウィルを呼んだ。呼び出し音は数回で止まり、低くも高くもない平凡な男性の声が携帯から聞こえてくる。
「もしもし? シェリル?」
「久しぶり、ウィル。話したいことがあるの。出てこれる?」
ウィルは陸の種族に恋をし、結婚した。その際に鰭ナシになったが、時折海岸に降りてきて半魚たちと話をしている。
半魚は足を手に入れると、鰭ナシとなり、水の中で呼吸することが出来なくなる。代わり、いつでも代償なく鰭ナシと半魚の間を行き来することが出来る。以前シェリルはアリーチェの持ってきた違う次元の絵本を読んだが、その中に出てくる人魚という存在は半魚によく似ていた。その人魚という存在は一度人間という陸で生きる存在になってしまうと、元に戻れないうえ、声も失うし、意中の存在と両想いになれなければ泡と化し消えてしまうらしい。デメリットばかりで思わずシェリルも同情を禁じえなかった。人魚と違い、半魚は簡単な儀式さえこなしてしまえばあとは鰭ナシになれ、簡単に半魚に戻れる。デメリットも人魚に比べれば小さなものだ。
その本が書かれた次元では魔法もなく、科学もさほど発展せず、種族も多くなく、言葉も分かたれ、挙句の果てに争いばかりしているという。そういった過酷な世界だからこそ、こういった悲劇が生まれるのかもしれなかった。
「いいけど、何かあった?」
ウィルはシェリルの電話口での機嫌の良さを感じ取ったらしい、揶揄う様に笑いながら訊いた。いつもならばその軽薄な態度に気分を損ねたかもしれないが、今日はそんな些細なことは一切気にも留めなかった。
「うん、とっても、とってもいいことがあったの」
シェリルはきゅ、と片手に持っていた花束を抱く力を込めた。
生まれた場所も一緒で、家も隣同士だったウィルとシェリルは、大きくなるまで歌を歌ったり遊んだりするときも一緒だったし、成績も同じくらいだった。一緒に生まれ、一緒に育ち、沢山を共有した。だが、お互いがお互いを恋愛的に見ることがなかったのは、シェリルにとってウィルは自分の半身だと思っていたからに他ならなかった。それはウィルが陸の種族に恋し、鰭ナシとなるとシェリルに告げた時、はっきりと自覚した。
ウィルの報告を聞いた時、一番初めに抱いた感情は祝福ではなかった。ただただ半身をもがれるような痛みと、狂いそうなほどの嫉妬だった。しかも、嫉妬したのはウィルの相手ではない。ウィルの持つ誰かを愛することができる心だ。陸の種族というシェリルには思いもよらなかった相手を好きになり、結婚し、鰭ナシとなる勇気を持ったウィルを、シェリルは強く、強く、憎しみにも似た羨望を抱いた。それでも、シェリルは身の内に渦巻く様々な感情をウィルにぶつけようとは思わなかった。他でもなく、ただただ勇気がなかった。シェリルの臆病さは多くの感情を殺し、ウィルに僅かな祝福を与えるに留めた。
その後、シェリルとウィルは陸と海と別れて暮らすこととなった。シェリルの元に入ってくるメッセージは何日何分に海岸に行くという内容のもので、何回かに一回は海岸を訪れることはあるが、あまりその場所が好きではないシェリルの頻度は低かった。それでもめげずにウィルはシェリルにメッセージを送り、海岸で時を過ごしているらしい。その事実は、ウィルもまたシェリルを半身の様に思っているのだと感じ、シェリルを僅かばかり喜ばせた。
メッセージも通話も、いつもウィルがシェリルに送っている。だから、今回の様にシェリルからウィルに通話を掛けるというのは初めてのことだった。臆病なシェリルなら、通話ボタンを押す直前で止まっていただろう。しかし、もうシェリルは以前の自身とは違っているという自覚があった。誰しも羨む王子に想われているのだという自負が背を後押してくれていた。
「ねぇ、ウィル。ウィルもきっと驚くわ。そして、きっと喜んでくれる」
「なんだろ、すぐ行く」
軽快な音が鳴り、通話が途切れる。上着に携帯をしまい、シェリルは鰭を動かすスピードを速め、海面を目指した。
ざぱり、と顔を海から出せば、海底とは違う様々な音がシェリルの耳に入ってくる。妖精の話し声、他の半魚の歌声、竜の咆哮、空を飛ぶ車の駆動音。海底も静かだとは言い難いが、陸よりはずっとましだと思う。それくらい、陸は音に溢れていた。
「シェリル!」
シェリルに手を振り駆けてくる姿は、ウィルに相違なかった。鰭ナシとなり、得た足はすらりと長い。髪は金色で目は青い。その色々な色彩はシェリルの王子とは異なるが、それなりに良い容姿をしている方だとシェリルは思っている。
ウィルはシェリルの待つ岩場まで器用に岩を飛び越えながらやってきた。その軽い足取りは生まれが半魚だとは誰も信じないだろう。
「何? 驚くようなことって」
「ふふ、見て! 私の王子様からのプレゼント!」
ばっと沈めていた花束を海上へ突き出した。ウィルは仰け反って驚愕し、声を出せずにいるようだった。
「崖の上にいた私の王子様がね、私に声を掛けて、この花束を投げ入れてくれたの。なんて言っていたのかまではわからなかったけど……」
思い出して、シェリルは顔を赤くする。魔法で加工がされているのか、花束は投げ入れられた時から形を変えていない。それも、あの王子様がシェリルを想ってしてくれたのだと思うと、嬉しかった。
「結婚はウィルに先を越されちゃったけど、私にも王子様が現れたの」
両手で花束を抱きしめ王子様を思い出す。何度反芻しても色あせることなく、正しく思い出すことが出来る。いつか、花束でなく王子様を抱きしめることになるのだ。そう思うと、その時が待ち遠しくて仕方ない。
「初めて会ったけど、きっと私を見つけるのに時間がかかったんだわ。運命の姫を、私を、彼はずっと探していたに違いないの」
ウィルに、そうだ、と言って欲しくて、ひと呼吸入れる。驚愕していたウィルは、今度はなにやら考え込んでいるようだった。
「ウィル?」
「……俺、知ってるかもしれない、そいつのこと」
ぐ、と絞り出すように言葉にしたウィルの様子から、あまりいい知らせではないことは明白だった。それでも、シェリルは信じていた。ウィルならばシェリルを祝福してくれるだろうと。自身が抱いた様々な醜い感情は棚上げし、妄信した。だが、予想に反し、ウィルの表情からは祝福の色は一切見て取ることはできなかった。
「……どういうこと? ウィル」
「黒い瞳、黒い髪、不老種じゃなかったか?」
「そう、そうよ、闇夜のような、美しい黒」
「……やっぱり」
ウィルは溜め息を吐き、どう悲報をシェリルに伝えようか考えているようだった。
「……ウィル?」
「前も、そいつが花束を投げ入れるところを見たんだ。研究狂いの博士の助手。柏優」
がつん、と頭を殴られたような衝撃に襲われた。研究狂いの博士というのは有名な存在で、自ら名前を捨て、蘇りの方法を探している、恐ろしい女だという。最近になって、その博士が助手を雇ったというのは風の噂で知っていた。その助手が、シェリルの王子だとでもいうのだろうか。だとしたら、この世界では唾棄されるべき存在だった。
この世界に、蘇りはありえない。魔法も科学も、死をなかったことにはできない。もしそれを覆そうとするならば、その存在は狂人とみなされ、世界から爪弾きにされる。
彼がそうだというのだろうか。だとしたら、誰を蘇らせようとしているのだろう。誰を、そこまで想っているのだろう。
「陸では有名で、写真まで出回ってる。噂では、妻を蘇らせようとしてるって」
「……妻?」
「この海で自死した、同じ不老種の妻を蘇らせようとしてるって話」
シェリルは、ついこの間聞いた話を思い出した。シェリルが花束を受け取ったあの岬から飛び降りた不老種がいて、魔法もかかっていなかった彼女の体は波にもまれて死んだのだと、引っ張り上げた半魚が悲しそうに話していた。もし、その話が本当だとしたら、ウィルの話が全て偽りなかったとしたら、シェリルの王子、柏優には自死した妻が居て、その妻を狂人だと世界から爪弾きにされてでも蘇らせようとしていることになる。だとしたら、この花束は、柏優が妻に送ったものなのかもしれなかった。
「……うそよ、ウィルの言ってること、全部うそでしょ」
「そう思いたい気持ちも、わかる、けど」
「なにがわかるって言うの!」
持っていた花束を放り投げた。あっという間に波にもまれ、跡形もなく消えていく。
「私の話を聞いて、滑稽だと思ったでしょ? 心の中では愉快だと笑ってたでしょ?」
「違う、落ち着け」
「ウィルなんか、嫌いよ! 大っ嫌い!」
水中に潜る。沈んでいくシェリルを追いかけるすべはウィルにはない。海面からウィルがなにか叫んでいる声が聞こえるが、シェリルは振り払うように海底へ向かう。
選ばれたと思いたかった。想われていると思いたかった。そうすれば、何の価値もない、卑屈で臆病な自分も、選ばれたのだと胸を張って生きていけると思った。鰭ナシになって、彼の隣を歩いて、今度は、彼もかっこいいけれど、私も綺麗でしょ。そんな強い自信を持ちたかった。シェリルという半身を切り離したウィルにも、後悔してほしかった。やっぱりそばにいて、同じ存在でいればよかったと思わせたかった。
傲慢だった。醜い己など、愛されるわけがなかったのに。その罪の罰を、受けたのだと思った。
涙が頬を伝う前に、水に溶け消えていく。心配そうな顔をした小魚とすれ違うが、今は誰の声も聞きたくなかった。
一番の罪は、それでもなお、惨めに砕かれて粉々になり、滑稽な姿をさらしても、それでも、柏優を想っている自身がいることだった。
鰭ナシ人魚の片恋 結城葵 @YuukiAoi1138
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