鰭ナシ人魚の片恋

結城葵

第1話 【シェリル】

 1

 海の底には埃が舞い、クラゲが暢気にダンスを踊る。止まれば死ぬ魚は必死で泳ぎ、それを傍目に半魚が嗤う。海底は今日も日常を謳歌している。


 この世界には名前の無いものは存在しない。言い換えれば、この世界では名前の無いものは存在していないと見做される。どんなものでも、生まれた瞬間に名前を理解する。不老種だろうと、半魚だろうと、ドラゴンだろうと、獣人族だろうと。同じように、埃の一つ一つにすら名前がある。その名前を名乗れるかどうかは別として。

 逆に、名前のないものはどんなものか。それはこの世に存在しないか、自分から名前を捨て、役割を捨てたものだ。記録も記憶も残らないとされている。誰にもなれず、何物にもなれない。

 だから、名前は大事にしなければならない。


シェリルは児童用に作られた本を閉じた。掃除をしているとどうしても昔の本を手に取って読んでしまう。ひらひらと薄い本を振り回しながら夢想する。ここではない世界のことを。たとえば、無数に言語が存在するとされる世界。この世界の言語は統一されているが、とある世界では場所によって名前も言葉も違うらしい。シェリルが持つ本も、何冊も同じ本が違う言語で書かれるらしい。無数に分岐すると言われている世界を旅する吸血鬼は、その言語が多様にある世界では弱点が浮き彫りにされているため、もう死にたがりしか行かなくなったという。

シェリルにとって、他の世界も本の中の世界も届かないという意味では同じだった。それどころか、この世界の陸ですら遠い存在だった。鱗が生えた鰭を見ながらそっとシェリルは溜め息を吐く。

 鰭ナシになることはできる。ただ、シェリルにはその勇気がなかった。新しい本の一ページ目を捲るのでさえ勇気がいるのに、鰭を捨て、二本足になったところで、一歩を踏み出せるかと言われれば答えはいいえだった。

 二度目の溜め息を吐いた瞬間、突然ドアが大きな音を立てて開いた。

「ヘロー、シェリル! 元気してる?」

「アリーチェ。良かった、久しぶり」

 癖のある挨拶をしながらやってきたアリーチェを見ると、シェリルは破顔しながら彼女を迎え入れた。

 アリーチェは吸血鬼である。ニンニクが嫌いで、銀が苦手で、日光は好まない。やたら嫌いなものや苦手なものが多い彼女の数少ない好物は美しい物や、旅、そして血液だ。特に半魚の血液は美味しいらしく、シェリルは度々アリーチェに指先から血液をあげる。けなげにちうちうと指の先端から極僅かな血液を吸い上げる様は赤子の様に思えて、シェリルの庇護欲をそそった。しかし、実際のアリーチェはブロンドの髪を靡かせ、道行く人は見な彼女を振り返るくらい絶世の美女である。そして不老種と同じくらい長い時を生き、老いることはない。そのことについてアリーチェは、事実不老種の血も吸っているからだと言っていた。シェリルが、みかんの皮を餌にした魚が旨いのと同じようなものかとアリーチェに問うた時は複雑な顔になっていたが。

 アリーチェは世界を旅することが出来る。それは正しく世界を周る旅だ。次元や色んなものを超越して違う世界に渡ることが出来る。ただし、制約や条件が整わないといけないらしい。シェリルは詳しく彼女に教わったことがあったものの、自分は関わりのないことだと右から左へ受け流していた。アリーチェは特に、前述した言語が無数にある世界に行くことが多かった。弱点を知られているところに行くのは危険だとシェリルがやんわり注意してみても、そのスリルが堪らないのだと言ってやめることはなかった。その世界に住むヒトという存在は、血液も美味しいらしい。ただ、争いを常に行っていて、それによって進化、というものをするらしかった。

 シェリルはアリーチェに話を聞くたび、背筋が凍るような思いをする。その世界では吸血鬼は忌み嫌われているらしい上争いを好むようだから、いつかは殺されてしまうのではないかと危惧している。だから、シェリルは扉がいつものように勢いよく開くと安堵するようになった。今回も無事に帰ってきてくれてよかった、と。

「シェリルはお掃除中? 海底って意外と埃っぽいもんね」

「うん、油断するとすぐ埃塗れ」

 シェリルはぱたぱたとはたきを振って見せる。僅かな動きに合わせるように埃が舞った。

「そういえばね、私のよく行く世界では海底の埃ってマリンスノーっていうの。海の雪って意味」

「へぇ、綺麗」

 アリーチェはベッドに腰掛けると、近くの本棚を見るともなく見ている。いつも本など読む気がないのに、シェリルの本棚を興味深げに覗いている。

 シェリルの本棚には様々な本がある。物語を書いたもの、研究などを書いたもの、絵本、伝記。一ページ目を捲る勇気を出した後、シェリルはいつも本に没頭した。飛び込んだ後は泳ぐのが楽な様に、一つ飛び越えた後は簡単に読み進めることが出来た。現実でも同じならいいのに、とシェリルは思う。一歩の先が保証されていれば楽なのに、実際はそうはいかない。一歩の先は崖かもしれない。それがとても恐ろしい。だから、シェリルは陸も他の世界も、本の中と同じ、関わりのない遠い場所だった。

「ねぇ、シェリル」

 そんなシェリルの考えを読んだような、優しい声音でアリーチェが声を掛けた。反射的にシェリルがアリーチェの方を見ると、予想よりもずっともっと優しい、慈母のような表情を浮かべる彼女がいた。

「旅って、意外と悪くないのよ」

 シェリルは、どきりとする。初めて見るアリーチェの表情にも、言葉にも、節々にシェリルを想う気持ちが溢れていた。だからシェリルは鵜呑みにしてしまいそうになる。戦争が終わらない世界にも救いがあるかのように思えてしまう。まるで神の啓示を受けた哀れなる子羊の様に、すべてを捧げたくなってしまう。

「……そう、なのかな」

「そうよ」

 はっきりと言い切るアリーチェは自信を笑みに乗せる。それがシェリルには眩しくて、羨ましかった。

「いつか一緒に旅をしましょ。そしたら怖いことなんてなにもないわ」

「……アリーチェと一緒なら、きっと大丈夫ね」

 顔を見合わせ、笑う。そのいつかの日が早く来ればいいのにと思う。その半面で、絶対に来てほしくないとも思っている。

「そろそろ帰るわ。またね、シェリル」

「うん、またね」

 アリーチェはぴょんとベッドから立ち上がり、足取り軽くシェリルの家を出ていった。誰かが遊びに来た後のしんとした淋しい空気がシェリルの全身を刺す。持ったままだったはたきを置き、シェリルもまた外へ出た。

 向かう先は岬の下だ。ここは浜よりも陸との境界がはっきりしていて、陸に恐れを抱くシェリルが唯一陸を見ることが出来る場所だった。すいすいと慣れた道を泳ぎながら、シェリルは旅について考えてみる。

 旅をするとなれば、やはり陸を往くのだろう。鰭ナシになって、二本足を手に入れて、アリーチェの隣を歩く。美しいアリーチェは道行く種族たちの目を引くだろう。シェリルはその横で、少しだけ自慢げに胸を張る。見て、この美しい吸血鬼は私とお友達なのよ、と。だが、徐々に自信を無くしていくという確信もあった。美しい友はたまたまシェリルを選んだだけで、自身はなんの付加価値もないただの鰭ナシなのだという事実が、シェリルを落胆させる。否、それだけならまだいい、隣のアリーチェと比べられ、平凡さを指差されることが恐ろしい。アリーチェは多くを持つ。短所も、長所も。シェリルには何もない。あるとするなら、臆病で卑屈な心ぐらいだった。

 強く、水を叩くように鰭を動かした。嫌な気持ちを振り払うように。ぐんぐんと進んで、岬の下にたどり着く。いつもは顔を出して陸の土や風に吹かれ揺れる木々を眺めるが、今日は出来そうも無かった。

「……誰かいる」

 岬には誰かが立っている。右手には花束を持ち、表情は柔らかいが、その中に憂いを帯びている。遠目から見ると判り辛いが、恐らく男だろう。二本足で立ち、頭があり角がなく顔がある。服を着て靴を履いている。こういった特徴の種族は不老種ぐらいしかシェリルは知らなかった。アリーチェがいたなら、彼をヒト、と称するだろう、ヒトと不老種はよく似ているらしい。不老種は老けることはなく、長い時を生きる。しかし、若いまま寿命を迎える上、いつその寿命が来るかはわからないらしい。百年かもしれないし、千年かもしれない。個体によって寿命は違うようだった。

 不意に、その不老種の右手が動く。遠くにいるはずなのに、大げさにシェリルの肩が跳ねた。反射的に避けた場所の水面にあったのは、不老種が投げ込んだであろう花束だった。

「~~~~~」

 不老種が何かを言って、その場を去った。その後ろ姿が消えるまで、彼の背をシェリルはじっと何かに取りつかれた様に凝視していた。それから、水面に顔を出し、花束を見た。一見質素な花束だが、想いが詰まっているように感じた。恐る恐る花束に触れ、ゆっくりとそれを抱きかかえた。

「‥‥…きっと、私にくれたんだわ」

 シェリルは、小さなころよく読んだ本の中に登場する王子、という存在を思い出した。会ったことがなくても、話したことがなくても、接点すら何一つなかったとしても、突如として現れ、すべてを知っていて、すべてを持ち得て、そして、姫という役職をこよなく愛する使命を持つ。岬の彼はきっと王子で、そしてその王子に愛されたのであろう自身は姫なのだと、シェリルは盲目的にそう思った。岬で何かを言っていたのはシェリルに愛の言葉を言ったに違いないのだ。

「なんて、名前なのかしら」

 この世に名前の無いものは存在しない。彼はどんな役割を持って、誰なのだろう。シェリルはそのことで頭が一杯になった。もし、彼と出会えたら、自分はなんと名乗ろうか。いや、もう彼は知っているに違いない。すべてを知る王子、なのだから。すべてを知る王子に愛された、姫、なのだから。シェリルは踊る様に鰭を翻し、来た道を戻る。もらった花束をどう部屋に飾ろうか、一生懸命考えながら帰路を急ぐ。歌いだしたい気分だった。アリーチェが別世界から持ってきた映像で、わくわくした姫が突如として歌いだしたシーンを思い出す。見た時はなぜいきなり歌いだしたのかわからなかったが、今なら理解できた。どきどきした気持ちを身に留まらせることが出来なくなって、外に吐き出したくて、誰かに知ってほしくて、歌ったのだ。大声で、身振り手振りを添えて歌って、きっとあの映像の姫たちはこんな気分だったに違いない。シェリルは小さな声で歌ってみる。誰にも届かないが、きっとあの王子は気づいている。そして、健気な姿に心打たれているのだろう。シェリルは夢想する、かの腕に抱かれる己の姿を。盲目的に、信じた。


何も書かれていない紙に墨がよく沁みるように、それはシェリルを侵食し、純真さを黒に染め上げた。


その罪を、愛、といった。

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