第1話 歩くし喋るよ。人間だもの。


 日本のしがない高校生男子だった自分が赤ん坊になってから凡そ一年の月日が経った。


 その間にした事といえば主に三つ。


 睡眠、食事、排泄である。


 もともと前世でも怠け癖のある人間だったが、それにしてもである。だが、一年もの間、何もしようとしなかった訳ではない。


 それでも出来なかった理由は一つ。

 

(赤ん坊って身体弱すぎだろ!)


 俺は心の中で叫ぶ。


 だが、そう思ってしまうのも許してほしい。


 すぐに重くなる瞼。それに加えて少し経ったら腹が減る燃費の悪い身体。催しても自分じゃ処理すら出来ない。


 それに精神が身体に引っ張られているのか分からないが、何かやろうとしてもすぐに諦めてしまう。


 それでもベビーベッドの柵を越えようと奮闘した自分を褒めてやりたい。


 すぐに母親に気づかれて寝かしつけられたが。


 何度やっても母親に見つかり、もはや監視カメラでも設置されているのではないか、と疑っていた今日この頃。


 ようやくベビーベッドから下ろされ、自分の部屋の床を踏む事に成功した。踏むというか座る、だが。


「レオ。そろそろ歩く練習しよっか。お母さんの所まで歩ける?」


 少し離れた位置に正座した母親が、座った俺に手招きする。


「あえうな」


「ほら、こっちよ。ほら」


 母親は溢れんばかりの笑顔で待っている。


(めんどい……てか、歩けるのか?)


 ベビーベッドの中で柵を手すりにして立った事はあるが、両の足だけで歩いた経験はない。


 転んだらどうしよう、などと嫌な想像をしつつ、期待の眼差しを向ける母親に報いるため、俺は足に力を込める。


(あ、思ったよりいけそう)


 頭が重いせいかバランスを取るのが難しいが、意外にも足の筋肉は頼もしい。


(うぉおっ……がんばれ俺のヒラメ筋っ)


 緩慢な動きではあるが、歩いて母親の元へ向かう。


 何とか辿り着けた事で手を広げた母親の胸に飛び込む。


少し歩いただけなのに脚が震える。あまりに貧弱すぎる。

 

「すごーい! 凄いわレオ! 初めてなのにこんなに歩けるなんて」


 あまりの疲れに後悔の念を覚えたが、頬が綻ぶ母親を見るとまあ悪くはないなと感じていた。


 ここでもう一つ母親を驚かせてやろうと思い、俺は慎重に口を開く。


「おあ」


「ん? どうしたのレオ? お腹すいた?」


「お、ああ、おああさん」


「!?」


 母親が部屋にいない間、一人で練習したのだ。少しづつ母親の話す言語もわかってきて、初めて喋る単語はこれにしてやろうとずっと思っていた。


「──レオ! そう! お母さんよ。ふふ。もう喋れるなんて、本当に凄いわ」


 母親に額を撫でられ、目を細める。


 こうして母親といる時だけは安心できたが、依然として自分の置かれた状況については不安感が拭えない。


(……何やってんだろ俺)


 赤ん坊の身だが、考える時間だけはあった。だから、今までも何度か過去の自分について考えてみたことがあった。


 そうしてわかったのは、前世で高校生だった俺は、下校して家に帰ってから友人の家に遊びに行こうとしたということ。


 確か、原付で通りを走っていた筈である。


 それが知恵熱を出すほど記憶を掘り返して得た、最後の記憶である。


 友人と合流できたのか、出来なかったのか、何かが起きたのか、何も起きなかったのか、何もわからずじまいである。


(最後の記憶が焼肉屋の看板ってなぁ……)


 輪廻転生した、というなら事故を起こして死んだのが有力な筋だろうが、そんな記憶もない。


 まあ実際に自分が死んだ時の事を覚えていたら正気では居られないかもしれないし、ある意味ではこの記憶の混濁も良かったのかもしれない。


「なおあ」


「んー? なあに?」


 思わず口をついて出た音に母親が顔を寄せてくる。


 ──謎だ、と言ったのだ母よ。

 

 

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