第11話
「おはよう御座います億利さん」
僕がビルに着くと狐地が箒でビルの前の道路を掃いていた。
病的なまでに白い肌は、真夏だというのに汗の1つもかいていない。
「おはようございます」
「詩乃さんでしたら、病棟に居るはずですよ」
「ありがとうございます」
僕は路地裏に入ると、白い扉を開けた。
「おはようございます億利さん。今は下行かない方が良いですよ」
扉のすぐ前。階段に腰掛けた鶴見が横にずれてそこをポンポンと叩く。
「失礼します」
階段に座りしばらくの沈黙。聞こえるのは外を走る車と時折下から聞こえる物の壊れる音のみだ。
「……そろそろ行きましょうか」
音が止んで少し後、鶴見は立ち上がってお尻をはたき階段を降りて行く。僕もその後ろをついて階段を降りた。
「おはようございます。先生」
「おはよう鶴見ちゃんに億利くん。色々落ちてるから気をつけてね」
髪が崩れて体中に擦り傷を付けた詩乃が僕達を出迎えた。受付と待合室はそこら中に椅子や書類が散乱して、酷い有様だ。
「これはまた随分手こずりましたね」
鶴見は特に驚きもせず、無表情のまま散らばった書類を拾って片す。
「あの、これは一体」
「糸夜くんが薬の説明しようとしたら暴れちゃってね。今は蟻塚くんに抑えて貰ってるんだ。仕方ないからもう注射するよ」
「それは……良いんですか? 人権とか」
「インフォームド・コンセント。患者さんが治療について理解して同意し治療を受ける事だね。彼の意思がハッキリとしてたら勿論そちらを尊重しなきゃなんだけど、今の彼は幻覚に苛まれてて何が本心か分からないんだ。患者さんの意思を尊重しないとだけど、尊重すると治療が進まない。医療のジレンマだよね」
たははと詩乃は疲れた笑みを見せた。
「でも……彼が治るためにはこうするしかないんだ。大丈夫。実はあの書類に許可する内容が書いてあるから、親御さんにサインは貰ってる事になってるし……もし訴えられても責任は全部私が負うから」
「それって、全然大丈夫じゃ……」
「それより、糸夜くんの様子を見に行こうか。早く薬も投与しないとだからね」
詩乃は無理矢理話を遮って糸夜を寝かせた1番手前の病室に入った。
「離せ! くそが!」
思わず耳を覆いたくなる声量で叫ぶ糸夜。ベッドに拘束されているが、拘束具は千切れており、今は蟻塚が押さえつけてなんとかしていた。
「蟻塚くん。そのまま頼むよ」
詩乃はゆったりと、しかし決して足を速めず自然に糸夜に近づく。糸夜が暴れて蟻塚の拘束を振り解き、近くの花瓶なんかを投げても一切歩みを止めない。
「糸夜くん。少しチクっとするからね」
再び蟻塚が抑えた腕の袖を捲り、アルコール綿でさっと肩を拭き素早く注射器を差し込んだ。
「クソが! 毒だな! 毒を入れたんだな!」
ガタガタとベッドが揺れ動くが蟻塚はびくともしない。糸夜の怒声は高校生の少年から出ているとは思えない程野太く鈍い声だった。
「ふぅ……とりあえず今日はこれで様子見しようか」
糸夜は注射を刺された後もひとしきり暴れると、突然糸が切れたみたいに眠ってしまった。
「大丈夫かい? 蟻塚くん」
「う、うん大丈夫」
蟻塚が元の細い体に戻ると、両腕には真っ赤な抵抗の痕が残っていた。
「じゃあ、申し訳無いんだけどもし起きて暴れたらすぐに抑えれるよう頼むね」
「う、うん。任せて!」
それから何日もかけて拘束具を外そうとする糸夜とそれを抑える蟻塚の攻防が始まった。数日経っても糸夜は暴れるのを辞めず、蟻塚も詩乃も日に日にやつれていって、見てるこっちが辛いくらいだ。
「どうにかなんないんですか? このままじゃ2人とも倒れちゃいますよ」
「うん……もう少しだけ薬を増やしてみるよ」
変化が有ったのは入院から丁度1週間経ったときだった。
「おはよう御座います」
「おはよう億利くん。今日は早いね」
最近は糸夜にみんな気を配ってるせいかメモを取る事も無く、僕の仕事は細かな書類整理程度で、そんなに焦らなくてもすぐに終わるものばかりだ。
最近はクリニックより病棟に直接来ることが多くなってきていた。受付に着いてソファでゆったりしていると、ふと異変に気が付いた。この時間になると毎日聞こえていた暴れる音と叫び声が聞こえないのだ。
「おはよう御座います億利さん。詩乃先生糸夜くんの容体が」
少し慌てた様子で駆け寄る鶴見。最近は慣れて来たのか、僕にも結構話しかけてくれるようになった。
「うん、分かった。億利さんも来れるかな」
「はい!」
僕は鞄を掴み立ち上がった。
「失礼するよ」
ノックをし糸夜の病室へ僕達は入った。
「おはよう御座います」
ベッドの上で上体を起こした糸夜はゆっくりこちらに向き直った。昨日までの暴れっぷりは何処へ行ったのか、別人の様に落ち着いていた。
「おはよう糸夜くん。薬を多くした甲斐が有ったね。蟻塚くんもお疲れ様」
ベッドの奥からひらひらと手が出てきた。本当に限界だったらしく。体も元よりガリガリになっていた。そんな蟻塚を僕達の後ろから部屋に入った鶴見がズルズルと引きずって部屋の外に出て行った。
「おはよう糸夜くん。体調はどうだい?」
ベッド横の椅子に座りゆっくりとした口調で話す。
糸夜の顔が強張った。警戒しているというより気まずそうに視線を下げていた。
「しいて言うなら筋肉痛が凄くて、動けそうにないくらいですかね」
「そっか、筋肉痛は異能の影響かな」
「異能……僕のこの力の事ですよね」
不安そうな表情で詩乃の方を向く。
「うん。記憶自体はあるかな? しっかり向き合える様にリハビリしていこうね」
「はい、覚えています」
「因みに、盗聴されてたりとかはまだ感じる?」
「いえ、あんなに聞こえてたのが嘘みたいに聞こえません。不思議と思考がクリアで晴れやかな気分です」
「そっか、それはよかった。その盗聴は幻聴でね統合失調症っていう病気の症状なんだ。今は薬で落ち着いてるけどね」
「幻聴……」
「信じられない?」
「いえ……納得は出来ます」
「そっか、それは良かった」
中には幻覚を幻覚と信じられない人も居るらしいが、糸夜は少なくともそれが非現実だったと思えたのが分かった。
昨日まで暴れていたとは思えない程糸夜の言動はしっかりとしていて、実は変装の達人が成り変わってるんじゃないか? なんて下らない妄想をする程だ。
「でも、こんな体になったらもう普通の生活は無理ですよね。教室でも家でもあんなことして、もう」
「大丈夫。糸夜くんみたいな子が普通に生活できる様にする為に私達みたいな人が居るんだ。そういった不安も治療も長い目で見ていこう。他に手が震えたりソワソワしたりしたりは無いかな?」
「ありがとうございます。いえ、特には……」
糸夜は手をぐっぱとするが特に問題は無さそうだ。
そこから詩乃は天気や趣味、好きなゲームやスポーツなど他愛もない話が続いた。
「それじゃあ、最後にいくつか質問したいんだけど、大丈夫かな?」
「はい、大丈夫です」
雑談に一通り花を咲かせ終え、詩乃は本題と言わんばかりに姿勢を正した。
「ありがとう、それじゃあ聞いていくね。いつ頃から不安になったり盗聴されてるって思うようになったのかな」
「えっと、確か高校に入って少ししてから、いや、高校に入る少し前からだったかもしれないです。盗聴されてるって確信したのは僕が机を割った時です」
「そっか、因みに机を割る以前にも力は強かったの?」
「……いえ、机が割れて初めて気付きました。こんな力があるなんてそれまで1度も気付きませんでした」
僕は糸夜と詩乃の会話を黙々とメモしていく。検診のようだが内容は現実離れしていて書いているこっちがおかしくなりそうだ。
「……じゃあ机を割った日、机を割るまでになにか変わった事は無かったかな?」
「……すみません、その日は学校に着いた時から誰かに悪口を言われてる気がして、なにかあってもどれが現実か分かりません」
少し考え込んでから糸夜は申し訳なさそうに謝った。
「それじゃあ学校に行く前はどうかな? なにか覚えてない?」
グイグイと質問を進めていく詩乃。再び糸夜は顎に手を当てて記憶を探るも申し訳なさそうに首を横に振った。やはり何も覚えていないらしい。
「すみません。なにせ結構前ですし多分何も無かったとは思いますが、正直何も覚えてないです」
「そっか、ありがとう」
詩乃は前のめりになった体を戻す。一通り聞きたいことは終わったらしく、後の時間は服用薬の副作用や服用時間や量についての説明となった。それを糸夜は何度もうなづきながら聞いていた。
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