足が着いた先は、真っ赤な水面であった。肉塊が底に転がり、そのうちの幾つかは骨を露出させている。それが何の肉なのか──凡そ、見当が付くような状態のまま、食い散らかされている。食われてから時間が立っているのに腐敗するでもなく、それは表面だけが乾いていた。

この空間の天井を見上げれば、浜と同じく鈍色の空が広がっている。真っ黒な太陽が煌々と光を放ち、真っ赤な水面に光を浴びせていた。

──ここが海の裏。己の旅路の終着点。

己の立つ、鉄錆の匂いが立ち込める海の上、其れは居た。



女の顔から下、本来存在しているはずの体は無い。不自然に継がれているように、女の顔の下には巨大な鳥の体が合った。太陽と同じような真っ黒な羽に包まれた──中層で見た、あの烏のような。

女は目を見開き、光の入らぬ目で此方を観察している。その口元は柔らかな弧を描いてはいるが、べったりと赤黒い染みが付着している。女から、己に仕掛けてくる気配は無い。


己は、外套の下から得物を取り出した。

光を受けて鈍く光る刃先を向けても尚、一切動くことは無い。ただ、不自然な笑顔を貼り付けて此方を見据えるだけであった。




己は迷わず、地面を蹴った。

飛沫が上がり、再び水面へ吸い込まれてゆくよりも早く、女の喉元へと飛び掛かる。得物をその黒い羽根に包まれた首へと突き立てるが、己が狙っていた状態よりも幾分浅い──否、全く致命傷には届いていないと分かるような刺さり方だ。

不味いと気付いた頃には、女の口内に生えそろった牙が己の腕に食らいつく方が早かった。

──この身に血は通っていない、痛覚も無ければ臓器も無い。

深々と沈み込んだが、肉の裂ける感覚はあれどもそこから生物学的なものが噴き出すことは無かった。己は首に突き立てたナイフを突き立てようとするが、女も殺されまいと腕を噛む力を緩めることは無い。


このままでは、使命を果たせぬ。


ナイフを抜き取り、己は女の額へと刃先を突き立てた。

かぁんと甲高い音と強い衝撃の後に刃先は砕けたが、女は驚いて僅かに口を開ける──その隙を逃さず、腕を引き抜き、地面へと着地した。




もう、得物は使えない。

欠けた得物を突き立てるのは、今度は己の口元─そのまま勢い良く、一文字に掻き切った。













水面に反射する、己の顔。

底に映るのは、眼前の主たる女と同じ牙が覗く口。

それを見た、空間の主から表情が抜け落ちる。代わりに己が出来たばかりを口を歪め、笑ってやった。


其れが巨体を漸く動かす頃にはもう遅く、己が喉元を噛み千切るのが早い。裂かれた肉は虹色の布地の様に、凡そ生物とは掛け離れた色彩が解けるようにして空間に舞い上がる。

女は悲鳴さえ上げることなく、大きな飛沫を上げてその頭を水面に落とした。

女はもう動かぬ──この海の主たる彼女は、完全に絶命した。

それにも関わらず、栓は見当たらない。己の真の目的はそこにある。辺りを見渡すが、巨大な死体以外には何も無い、ただ真っ赤な肉塊の海が広がるだけだ。


「まさか」

己は、女の死体を見る。

刃物を向けられ、更には最後の得物さえ見せつけられて尚も動かなかったのは。

己は女の死体を動かそうと試みたが、1寸たりとも動くことは無かった。

──女の下に、栓がある。

確信だった。

この女は栓を守る為だけに、ここを退かなかったのだ。終わりを運ぶ己が小さい事、喉元を引き裂く力さえ無かった事──それを得て、ここから動かぬ決意をしたらしい。


しかしながら、女には見誤っていた事があった。

己には臓器が無い──それは勿論、胃や消化器官を含め、全ての、だ。

完成する間も無く、早々に臍の緒を切られ、浜へと産み落とされた己の欠陥の内の一つ。





己は、動かなくなった女の身体へと牙を突き立てた。

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