玉座を通り過ぎた後に、漸く中層まで辿り着いた。中層の入口を示す墓石は崩壊を始めており、最早文字は読み取れぬ様になっていた。

己の求める海の裏の栓までやっと1歩進んだという頃合いか、旅はまだ始まったばかりである。覚悟はしていたが表層を歩くだけで首を絞められ針を向けられるとは思わず、存在しない口で溜息を吐く事となった。

墓石に向かい、己を待ち、崩壊に耐えていた事に敬意を示し頭を下げた。役目を終えたそれは鈍い音を立てて亀裂が走り、砂の上へと砕け落ちた。また、ひとつの死がそこに在る。己は頭を上げ、更に深い所へと歩き始めた。


魚の影は、これまでよりも幾分か大きな物や軟体生物のものが増えてきた。彼等は悠々と暗い海を泳ぎ、同じ場所を永遠に泳ぎ続けている。

表層よりも中層の影には荒さがある。前者は気付かぬままに生きたふりを続けているが、こちらは端から出来の悪い偽物。壊れた玩具のように機械的にその場をぐるぐると回り、電池が切れるとぴたりとその場に静止する─己はそんな偽物の魚の影を見飽きていた為、地面の方を注視して転ばぬように進む事に集中していた。

「君も影が無いのですね」

突如上から降ってきた声に、己は外套の中の得物に手を掛けていた。

「嗚呼、これは失敬。驚かせるつもりは無かったのですよ、本当に」

岩の上、暗闇の中には薄らと輪郭がある。己の両の眼を細めてそれが何なのか、程無くして理解する事となった。

──おかしな事だが、あれは烏だ。

「ええ。変でしょう、海の中に烏なんて」

加えてあれは己の思考を読み取る事の出来る烏らしい。

「あれではなく、私にも名前があるんですよ。とうの昔に忘れてしまったけれど」

本来ならばあれは己の産み落とされたあの浜──海の上の、あの灰色の空を飛ぶものだ。海の中で見掛けるようなものではない。そして同じ言葉で意思疎通が取れるものでは無かった、はず。浮力さえ死んでいるこの海の中では、最早これまでの理は意味を成さぬらしい。

「あなたはどこに行くのですか」

どこ、とは。

「あなたの目指す地とは何処にあるのです、この死に絶えた底の何処に」

己は語るよりも指を指す──ここよりも暗く、深い、海の底。

烏は呆れた様に首を振っていた。

「下にあるのは淀みだけ、糸に絡まる演者だけ」

して、お前はなんなのだ。

「なんなのだ、とは?」

この烏には影が無い──あれが言った通り、己と同じく。つまりは、あれは魚でも演者ではない。

得物に掛けていた手に力が入る。

「嗚呼、私ですか。もう醒めますとも、ご心配無く」

──それで切られずとも。

脳裏に語り掛ける低い男の声に、己は隠していた得物を引き抜き、向けた。これはここに居てはならないものだ。そう、この物語に観測者は二人も要らぬ、語り手は己のみで良い。

烏は己を見て、高らかに笑う。その笑い声は己を憐れんでいた、海の底を目指すだけの己のことを。

「あなたの旅路に幸多からんことを、人形さん」


叩き切ったそれは、肉ではない。光すら届かぬ中層の中、輝きをばら撒きながら霧散して逝く。己は得物を再び外套の中へと納め、中層を降り始める。

迷いの無かった心の中に、ふっと一枚の烏の羽が舞落ちた。

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