陽炎
海の中は暗かった。太陽を失っている為に、微生物の気配さえない。その微生物を食う生物も死に、海の中の食物連鎖が崩壊したのだろう。
今では、海底を魚の影だけが泳いでいる。水の中は静かだった。
ふと、前方から布を纏った陽炎のようなものが迫ってくる。それは凡そ人の形をしており、傍から見れば布切れを透明人間が着て歩いているように見えただろう。中々に奇妙な光景だった。それは真っ直ぐに迷うこと無く己へと向かってくるが、敵意は感じなかった。
近付くにつれ、陽炎には透明な髪の毛があり、目があり、鼻があり、口があり、手足があるのが分かる。
目の前に居るのは、ただ身体が透明なだけの少女だった。
「お前、あいつだろ」
甘い香りを纏う透き通る髪を揺らしながら、開口一番彼女はそう言った。
─はて、あいつとは。
己にはまだ口が無いので、首を傾げることで意思表示をした。これで凡そ伝わったらしく、元々不機嫌そうだった顔が更に険しくなった。とても愛らしい顔をしているのに、今の彼女の眉間には深々と皺が刻まれている。
「嘘つけ。普通の奴は呼吸無しに海の中歩けねえだろ」
─それはまあ、そうだが。
彼女が向けてくる嫌悪感は突如刃物のような殺意へと転じ、透けた両腕が己の胸倉を掴んで持ち上げた。
「お前、しがんを何処へやった」
可憐な少女の外見に似合わぬ口調と強い力が外套を引っ張りあげている。
「引っ張り上げてやらないと、早くしないと渡っちまう。なあ、早く教えろよ」
胸倉を掴んでいた腕のうち、彼女の利き手だろうか─右手が離れ、己の首を締め上げ始める。肉が悲鳴を上げる最中も一切の容赦は無く、このまま首の骨を折ろうとしている気配があった。
「なあ、頼むよ」
彼女は笑っているが、そこにあるのは燃えるような激しい怒りだ。彼女は「しがん」なる存在を、奪われた者なのだろう。
だが。
だが、己は彼女が呼んだ「あいつ」なる存在では無いが故、この怒りをぶつけられる道理は無い。教えろと言われても、己は何も知らぬのだ。
「…なんだよ」
ふ、っと力が緩み、腕から開放されたことでふわふわと海底へと身体が落ちていく。
「なんなんだよ」
底に足が着き、ふと上を見上げれば彼女は顔を手で覆っている。ほんの数秒前まで捕食者の腕だったはずが、今はただのか弱い少女の細腕になっていた。呆然としている内に、砂の底へと膝を着き、崩れ落ちる様にして啜り泣きを始めた。
「私、溶けきれなかった」
啜り泣きに混じるようにして、彼女はそう言う。
しかし、それは己へと向けられた言葉では無い。
「海の中で、私だけが甘いままで」
─砂糖の幻は、潮に食われていく。
輪郭がゆるりと崩壊を始め、徐々に攫われていく。
「なあ、しがん」
己の双眸は確かに、顔の無い潮が彼女を抱くのを見た。
「私、いつの間にこんな弱っちくなっちゃったんだろう」
名も知らぬ少女の陽炎は、服だけを残してふっと掻き消えた。着る者が居なくなった布切れは、そのまま砂を巻き上げて海底へと舞い落ちる。
まだ違和感の残る首を摩った後、動かなくなったワンピースへ向かって手を合わせた。
どうか、この水溜まりの中で─あるいは、栓を抜いた輪廻の先で彼女ら巡り会える事を祈る。
そしてまた、静かになった海中を歩き始める。
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