とめ、はね、はらい、ーきみがすきー
瀬島蛍(せじま ほた)
とめ、はね、はらい、ーきみがすきー
「書道を続けている理由ですか。そうですね、色々ありますが、一番の理由は見せ続けたい相手がいるからですかね」
キッチンで夜ご飯を作っていると、友人が展示会でインタビューされている様子が映し出されていた。数え切れないほど見ている顔だけど、見るたびに綺麗な顔をしていると思ってしまう。今や一流の書道家であるあいつが見せ続けたい相手と呼ぶ人物のことを思い、空を見上げる。センチメンタルな気持ちになってしまうのは、友人の語っている内容だけでなく、であいつの後ろに飾られている作品のせいだろう。
そこに書かれている言葉は、まさしく、初めて出会った時に飾られていたあの言葉と同じなのだから。
『希望の光』
初めに抱いた印象は、とにかく綺麗な文字、だ。
書き初め、だろうか。大きめの民家の壁に敷設してある掲示板に貼られた、長い半紙に毛筆で書かれた文字は僕の目を惹きつけて離してくれなかった。
その書き初めを見つけたのは、いつもとは違う道を通って通勤したある日のことだ。7月に入り、日の照りが強くなった時期、ほのかに汗が垂れ始めたころに見えてくる近所の家の石壁にその作品は飾られていた。
書道教室か何かかなと思ったけど、特に広告のようなものは見つからない。がらんとした緑の掲示板の端の方に、位置など関係ないと言わんとばかりに堂々と『希望の光』は貼られていた。
特段毛筆が好きなわけではないし、冬休みのたびに書き初めなんて何でやるんだろうと思っていた。今までこんな経験はないのに、不思議とその作品にだけは目を奪われてしまった。
迷いなく書いているのだと分かるとめ。
想いを鋭く凝縮したような丁寧なはね。
勢いがあるように見えて繊細なはらい。
そして何より真っ直ぐピンと伸びていく直線。
綺麗な文字だ、月並みだけどそうとしかいえない、確かな魅力がそこにはあった。
昔から、あんたは本当に見る目がない、なんてずっと言われ続けた。けれど、これだけは間違いなくいいものに違いない。きっとその場に昔の彼女がいたのならばこの作品の魅力をこれでもかと力説し、そしていつものように溜息をつかれてしまっていたのだろうけど。
「あの……ここで、何をしているのですか」
そんなふうに苦い思い出に囚われていせいか、声をかけられて初めて、僕の腰元ぐらいの高さから、ジッと僕のことを見つめつづける視線に気づいた。小さくもはっきりと通るその声は、作品に魅入り続けていた僕を現実に連れ戻す。
「えっと、あ、いや変な人ではなくて。その、この書き初めを見ていて」
突然話しかけられたことに驚き、どう見ても自分が怪しい人物であることを自覚する。その上、声の主が小学生ぐらいの綺麗な顔をした男の子であったことに気づいてしまい、より焦ってしまうことで言動もまた不審者然としたものとなってしまった。
そんな僕の様子をみた少年の視線が、警戒心が篭った不安げな視線から、仕方がない人を見るかのような哀れみが篭った視線に変化する。視線のグラデーションに気づくことができたのは、僕が後者の視線を昔の彼女から浴び慣れていたからもしれない。
「……書き初めは年始に初めて書く作品のことです。これは違いますよ」
え、そうなの。
アホ面を晒しながら僕は目の前の推定小学生に問い返す。
「はい、そうですよ」
返事は迷いなく返ってきた。
この世に生を受けて26年。義務教育で課されていた書き初めという行為が、年始に書くものだけを指すと知った瞬間だった。これまで学校で、毛筆の何かを見るたびに書き初めと言い続けてきた。そのたびに周りの人々はこの少年と同じように哀れなものをみる視線を僕に向けていたのだろうか。
自分の人生に対して深い後悔を覚えながらも、それを指摘してくれた少年に感謝をする。
「そうだったのか……いや、教えてくれてありがとう。この、なんだ、作品がとても綺麗だなと思って思わず足を止めていたんだ、怪しかったよね」
「これが、ですか」
少年も同じ感想をこの作品に抱いていたのか、顔つきが少し柔らかくなる。
「きっと、この作品を書いた人もこの字みたいに素敵な人なんだろうなって」
もちろん書いた人を知っているわけではないけれど、不思議とそうに違いないという確信を抱いていた。
「そんなことないかもしれませんよ、字なんていくらでも取り繕えますから」
「そうかな、僕はそれこそ書き初めぐらいでしか書いたことがないから分からないけど、真っ直ぐ向かい合わないとこんな字は書けないだろうし、そこまで間違ってないと思うけどなぁ」
少なくとも、テキトウな気持ちでこの字を書くことはできない、僕は素人だけど、きっとそうに違いないと思っている。
「……それは、すごく、嬉しいですね……」
「きっと、師匠という言葉が似合いそうな厳格だけど優しさに溢れている素敵なお爺さんに違いない」
少年が小さい声で何か言いかけたところに被せて言葉を続けてしまう。
自分の中で思い浮かべている、和装で、あご髭をさする白髪の男性像は、我ながらそうかけ離れた想像ではないのではないかと思う。ただ、とはいえ。
「昔から見る目がない、ってよく言われるからどうか分からないけどね」
あはは、と乾笑いをするが、それに釣られて少年が笑みを溢してくれることはなかった。
「……確かにお兄さんは見る目がなさそうですね」
少年はさっきまでの朗らかな様子とは違い、冷ややかな視線を再び僕に向けていた。最近の小学生は分からない。情緒の動きが激しすぎる。
「ところで、お兄さん。このあと会社とかじゃないんですか。私はもう少し余裕ありますけど」
時計を見ると時間は既に駅まで走らないと間に合わない程度しか残っていなかった。思った以上に少年と話すのに時間を費やしていたらしい。
「げ……ごめん、ちょっと走ってくる。きっとご近所だよね、また今度」
思わずまた今度、と言ってしまう。しかし、社交辞令かもしれないが、少年もはい、また今度と、年に合わず落ち着いた様子の返事を返してくれた。そんな大人びた返事を背中で受けながら僕は全速疾走を始めた。
自分が小学生の時はどうだっただろうと考える。今と変わらず空を眺めていて遅刻しそうになり毎日のように走って登校していたことを思い出すし、ああ、人間とは変わらないものだと、いつものように空を仰いだ。
これが、書き初め……改め書道との出会い。ひいては、少年との奇縁の始まりだった。
一度広告の品を認識すると、世の中にその広告が溢れていることに気づくという話があるけど、少年との関係もまさにそうだった。その日を境に少年と偶然朝でくわし、そのまま駅まで雑談しながら歩くことが増えてきた。毎日ではないけど、週に二回ぐらいのペースで彼との交流は続いていった。といっても、大した話をするわけではない。その日飾られてる書についての話や、その日の天気や季節、咲いてる花の話。本当に毎日取り留めのないことを話しているだけだったが、その時間は次第に僕の中で楽しみな時間ランキングを上げていき、上位へと食い込むようになっていた。
けれど、楽しい時間は唐突に終わりを迎える。
『健康第一』
その4文字が書かれていたのは夏も終わりかけ、秋口に入り始めたころの話だ。目の前の作品を見ながら今日は少年とどんな話をしようか、そんなことを考えていたが、それらのアイデアは全て使わずに終わることになる。
いつも、何となく合流する場所で少し長めに待ってみても少年は現れない。もともと、時間を合わせていたわけではないし、そんな日もあるかと1人で会社に向かったが、その次の日以降も少年と朝出会うことはなかった。また、掲示板に飾られた作品もまた、『健康第一』から更新されることなく月日だけが過ぎていった。
そんな週もあるとさらっと流した最初の1週目。
体調でも壊したのかなと心配した2週目。
嫌われたのかもしれないと思いかけた3週目。
モヤモヤとした日々が終わったのは、そんな3周目の最後の日の帰り道だ。
いつもの掲示板。
いつもの通り道。
いつもと同じ時間。
いつもとは違う黒い服を着た集団。
その家の前に溢れている黒服の集団が意味するもの。
お葬式だ。
生きていれば何度か経験することもある行事だが、その日は妙に嫌な予感がした。そして往々にして嫌な予感、というは当たるものだ。
人混みの中心である掲示板の家から出てきたのは喪主らしき男性と、遺影らしき写真を持ちながら俯き涙を流す少年。それはまさしく毎朝僕と会話していた少年だった。
あまりじろじろ見るものでもないと、目を伏せようとしたが子供が持つには大きいその遺影は僕の視界に入り込んでしまう。そこに写っていたのは70代ぐらいの老人。髪は白くなりきっているが、背筋をピンと伸ばしているからか覇気を感じる厳格そうな男性だった。一目見ただけで察しが悪い僕にも分かった。
きっとこの人だ。あの写真に映る男性こそがあの書道作品の作者だったのだろう。それと同時に頭に浮かぶのは初めて会った日に僕が目の前の作品を絶賛するのを聞き嬉しそうにする姿だった。少年は自分の身内でもある、あのお爺さんとその作品のことが大好きだったのだろう。
掲示板の作品は、もう更新されることがないのだ。
その悲しさを、少年と共有したい。そんなことを少しでも考えてしまった自分に気持ち悪さを覚え足早に僕はその場を去っていった。
その日の夜のことはあまり覚えていない。ただひたすらに俯いた少年の顔が浮かびは消え、脳内から消えることがなかった。
次の日の朝、掲示板に飾られていた『健康第一』は剥がされ、代わりに何かが飾られることもなく、その掲示板は役目を失ってしまっていた。
仕事を終えたあとも、掲示板の様子は変わらない。むしろ、太陽の光を浴びていた時よりも、日が暮れ、影を落としたその姿はより一層に寂しそうに見えた。
何も飾られていない掲示板を見ながら、どれだけの人がこの掲示板に書道作品が貼られていたことに気付いていたのだろうと考える。
飾られていた作品を通して、僕はあのお爺さんと会話を重ねていたような気持ちになっていた。毎日、作品を見てその内容についてとりとめもない会話をして、そんな日々が永遠に気付けばいいと思っていた。けれど、名も知らないお爺さんは亡くなってしまい、もう二度ととそんな日々が帰ってくることはなくなってしまった。
いや、それは違う。
そこまで考えたところで自分の考えに間違いがあることに気がつく。僕が一番悲しいと思っているのは本当に作品が見れなくなってしまったことなのか。
確かにあの書を楽しみにしていたのはあるが、僕が楽しみにしていたのは作品を見ることではない。ましてや、作品を通してお爺さんと対話するなんてことでもない。僕にはそんな高尚なことはできない。
いつしか一番楽しみにしていたことは、書道作品を通して出会ったあの少年との会話そのものだ。僕は作品を見れなくなったことを悲しがってるではない。あの少年との語らいの時間がなくなったことこそを悲しがっていたのだ。
「……なにも飾られていない掲示板を見つめて、不審者みたいですよ」
初めて出会った日と同じように、僕の腰元ぐらいの高さから聞こえてくる声が、ジッと僕のことを見つめつづける視線に気づかせてくれた。
「……久しぶり」
先ほどまで自分の中でぐるぐると考え込んだ結果、自分が少年との会話を大切なものと思っていたと気づいてしまったからこそ、いつもと違うこの空気感への対応が分からず、戸惑った僕の声もいつもより少し低い声となって少年に向けて発された。
「昨日ぶり、ですよね」
少年は、あの人混みの中でも僕のことに気づいていたらしかった。いつもとは違い、濁ったかのような暗い瞳での少年の様子に気圧されながらも口を開く。
「その……亡くなったのお爺さんだよな……残念だったな」
「……」
返事は返ってこなかった。
少年に会えなくなったことが悲しいのだと気づいた。
それを伝えなければいけないと思う一方で、僕がそんな気持ちを一方的に伝えてどうなるのか。身内のことでいっぱいいっぱいになっているところで迷惑以外の何ものでもない、と諌める自分もいた。
何と言えばいいのかが分からず、一人の大人と一人の子供が無言で見つめ合うだけの時間が生まれていた。
うまく言語化できない自分に腹が立ちながらも、それでも伝えなければいけないこともあると口を開こうとしていると、少年が言葉を発してくれた。
「どれだけ見ていても、もうそこに何かが飾られることはないですよ」
少年は僕の方ではなく空を眺めていた。まるで、ここではないところを見るかのようにしていて、視線は合わなかった。
「もう、書く理由がないので」
「書く人がじゃなくてか」
書く理由ってなんだ、お爺さんは亡くなってしまった。書く人がいない、なら分かるけど。
「お兄さん、見る目がないって言ってたけど、本当に気づいてなかったんですね。あれを書いていたのは私ですよ」
どうやら僕の認識は根本から間違っていたらしい。
「……」
唖然として言葉が出ず、馬鹿みたいに口を開けて少年の顔を見る。そして、そのまま今度は何も飾られていない掲示板を見てしまう。
「やっぱり。まあ、私もそうだろうなと思って言わずに楽しんでいた部分はありましたけど」
掲示板を見ても仕方がないことに気がつき、少年の方に向き直る。少年は少しだけ元の柔らかな表情をしながら、ゆっくりと掲示板の方に近づき、慣れた様子で掲示板に触れながら話し始める。
「あの書は、お爺ちゃんのために書いてたんです。お爺ちゃんは元々知る人ぞ知る書道家、なんて言われていたんですが、腕を悪くしてからずっと書いていなかったんです」
やはり、お爺さん自身も書道を嗜む人だったらしい。
改めて見てみると、少年の顔つきや、目の形。そして何より真っ直ぐと伸びた背筋が写真のお爺さんにそっくりだった。
「お爺ちゃんを元気づけたい、最初からそんな風に思ってたわけじゃないですよ。ただ、小さい頃から、私が書いた落書きみたいな文字を見せると誰よりも喜んでくれて」
「だから、私の書道は、お爺ちゃんを元気にできる。そう信じてずっと書き続けていたんです」
それは嬉しいだろう。まだ小さな孫息子が、自分のことを真似するようにして書いているものを見せてくれたら。お爺さんの気持ちは分かるし、その行動は間違いなく元気を与えていたに違いない。
「私の書く字を見ていれば、いつまでも元気でいられる。お爺ちゃんはそう言ってくれていたんです。いつも元気が溢れているかのような優しい声でそう言ってくれていました。けど、お爺ちゃんは三週間前に急に体調を崩してしまいました」
あの元気だったお爺ちゃんが、と小さく呟く声が聞こえた。
悲しいけれど、歳を重ね体調を壊すのは仕方ない、そう言いたくなる。けれど、少年がそれを理解しているであろうことも分かり、僕はやっぱり何も言うことができなかった。
「体調を壊してしまった直後に、『健康第一』って書いたんです。言霊じゃないですけど、書いたらきっとその通りになってくれる、だなんて思っていたんです」
3週間前。ちょうど少年と会えなくなり、掲示板の時間が健康第一、で止まったタイミングだ。
「けど、そんな風に都合良くいくわけもなく、お爺ちゃんはそのまま入院することになりました。私は毎日書いたものをお爺ちゃんに見せて元気になってもらわないとって書いては通ってを繰り返しました」
けれど、お爺さんは。
そんな僕の考えも表情から察したのか、少年はその通りとでもいいたげな表情をしながら言葉を続ける。
「……お爺ちゃんはいつものように喜んでくれて、そして、そのまま死んでしまいました」
変に大人びている目の前の小学生の表情が僕の心をかき乱す。
「分かってるんです、死ぬ前に少しでも元気づけられたなら良かったんだって。お父さんもお母さんもそう言ってくれました」
「それでも、どこかで夢をみていたんです。もしかしたら私が書く字でお爺ちゃんが元気になって、また元通りに戻れるかもって」
「そんな風に思っていたけれど、現実はそうじゃなかった」
「字に不思議な力なんてない」
「お爺ちゃんはずっと、字を通して人は変わり、世界は変えられる、そう言っていたけど、そんなことはなかった」
「夢をみてたんです、私は大人にならないといけないんですよね」
そう話しきった少年は再び口を閉ざす。
少年の姿は僕の言葉を待っているようで。
いま、僕は他の大人とは違う意見を求められている。そんな気がした。何かを言おうとしては口を開きかけては閉じてを繰り返す。
お爺さんは空から見てくれてるはずだよ。
死ぬ最後の瞬間まで君といられて幸せだったはずだ。
君の中にお爺さんは生きているんだよ。
ああ、違う、きっとこんなことを言っても、少年の顔つきはきっと変わらない。自分でも分かる、きっと僕が言いたいこともこんなことじゃない。頭がもやる。ああ、もう違う。なんというか。言葉がまとまらず、視線を何処を見るわけでもなく動かした時に気づいた。
少年はまるで、自分のやったことには何の意味もなかったとでも言いたげな表情をしていた。
子供が、小学生が、自分の想いに対して自嘲するかのような腐った大人みたいな表情をしているのをみて、自分の中の何かが切れる音がした。
「……だから、なんというか。ああ、もういいや!!」
その瞬間自分の中の恥とか外聞とか、大人らしくしなきゃいけないという責任感みたいなものがぷつりと切れた。
「君は僕に大人みたいな言葉を期待してるみたいさけど、そもそも君は僕よりも既に大人みたいだと思ってる。僕なんて図体がでかいだけでそんな大層なことはいえない」
けど、そのうえで、と言葉を続ける。
「君の字は綺麗だ、見てるだけでお爺さんの姿を僕が想像するのだからきっと君はよっぽどお爺さんのことが好きだったのだと思う」
これも真実、これも伝えたいことだけど、本当に伝えたいのは。
「そして僕は、そんな君の字が大好きなんだ」
これが言いたかったことだ。
少年の顔の方は照れ臭くて見ることができなかった。
僕が好きな字を書く少年が、自分の字に対して曇った気持ちを持ってしまっている。わがままだけどそれが許せなかった。君の字を好きだという人はここにいて、それは決して無駄なんかではないのだと、僕は君の字が好きなのと伝えたかった。
「字に力が宿るかなんて知らない、けど少なくとも僕はこれからも君の字を見たい。これまではお爺さんのために書いていたのかもしれない、だけど僕はこれからも君の字を見続けたいんだ、だからお願いだから、どうかまた書いてください!!」
それでも少年の声は返ってこない。
う、え、みたいな小さくくぐもった声は聞こえた気がしたけれど、この機会だとさらに言いたいことを言ってしまえと口が勝手に動き続ける。
「そして、何より。君の字を見てここで足を止め、それをきっかけにして君と話をする間柄になった。いつのまにか、その時間を楽しみにしてる僕がいた。君との会話が僕の人生を照らす光みたいになっていた。僕は、君とこれっきりになりたくない。これからも君と仲良くしたい、どうか、どうか友達になってほしい」
途中自分が何を言っているのかすら分からなくなったけど、言いたいことを言い切ったそんな勝手な自己満足を覚えた。これ以上僕に言えることはない、そう思い恐る恐る少年の反応をみる。
少年はいつのまにか、俯いていた。
俯いている姿だけをみると、葬式の時と同じようで一瞬ひるみそうになったけど、よく見ると、耳は真っ赤に染めあがり、まるで怒っているかのようにわなわなと身体を震わせ小声でぼそぼそと話し始める。
「大人の人だけど、他の人とは何かが違って、だからなにか言ってくれるかもなんて思ってたら……結局、ただ友達になってくれなんていうお誘いだなんて」
やはり、こんな年上のおっさんが友達になってくれだなんて言うなんておかしかったのか。いやおかしくないわけはないんだけど、呆れられ怒らせてしまっただろうかと頭を抱えそうになった瞬間、少年は顔を上げ、泣き笑いのような表情で僕を見上げる。
「しかも、私は、私の字が人を変えられるかどうかで悩んでいるって言っているのに、そんなことは知らない、なんて答えるのを放棄してるし……ただ、私の書く字が好きだなんて……もう何が何だか」
僕の言葉の何が効いたのかは分からないけど、それでも少年の表情は明らかにさっきまでとは違く、前を見てくれてるそんな気がした。
笑いながらも、涙を手で拭ったあと、ふぅと一息ついたあと、少年は改めて僕を真っ直ぐ見据える。
「やっぱり、字が人を変えられるか、への答えは分からないです。でも……好きだと言ってくれる人がいると、書きたくなっちゃうじゃないですか」
真っ直ぐと僕の顔を見つめる少年の背筋はピンと伸び、声はまだ多少震えながらもいつものような落ち着きがみえる。そこには、僕の知っている通りの少年がいた。
良かったと、思わず力が抜けそうになったとき、少年は、それから、と言葉を続ける
「友達になるならまずはお名前からですよ」
言われてみればその通りだっらと思ったが、少年自身もまた、聞かなかった私も私なんですが、とぼそっと呟き気まずそうにしていた。
そんなお互いの様子を見て、2人して吹き出し笑いあったのち、今更だなぁと思いながらも自己紹介をする。
「あー、すごく今更感はあるけど、そうだな。鈍宝司です、鈍い宝に、司法の司と書く。その、友達として、よろしくお願いします」
どんぽうつかさ、と少年が僕の名前を復唱する。
先ほどまでの興奮がやまないのか、顔を赤らめなが少年も返すように口を開いた。
「……お兄さん改め司さんですね。私は冴島光です。冴え渡るの冴に、島国の島、それに光源の光です。こちらこそ友達になってください」
さえじまひかり、さえじまひかり。
その名はまるで、以前から知っていたかのように口に馴染み、思わず何度も口にしたくなる響きの良さを持っていた。
そして、あらためて、これで、友達だな、と2人で笑い合う。年の差とかはあまり考えたくないけど、これで僕は少年……いや光くんと友達になったのだ。
「まあ、友達になったからと言っても特に何が変わるわけでもないかもしれないけどな」
久々にできた友達という存在に思わず口がゆるみそうになるが、それを隠すかのように光くんに話しかける。
「そうですね……まあ、今まで通りでいいんじゃないですか。とりあえず、また何か書いてみようと思います」
光くん自身は、僕とは違い友達ができることなんて珍しいことではないだろうに、初めてのことでもあるかのように喜んでいるようにみえた。
その表情はこれまで見た、どんな時よりも輝いていて、その姿を見れ、これからも友達として関われるという事実が僕の心を軽やかにさせる。
「それは楽しみだ、新作はずっと心待ちにしてたからね」
そして、浮き足だった僕はそのまま余計な一言も続けてしまう。
「それにしても、少年改め、ひかりくんか。なんだか女の子みたいな名前だな」
幸せそうにしていた表情が、これまで見たことがないほど冷たい表情になっていくのを見た。いつかと同じような表情のグラデーション。けれど、あの時よりも空気は冷たかった。
「……私、性別としては、女で……」
後にも先にも、ここまで冷え切った“光ちゃん”の顔を見たのはこれが最初で最後であった。
『無礼千万』
テレビ越しに見る成長した光ちゃんの姿を見ながら、次の日、久々に飾られていた書の荒々しさを思い出す。友達になった直後に知ったのは、彼女が時たま怒ると、根に持ち続ける一面も持っているということだった。
十年経った今でも、直近だと数日前にその件で冷ややかな目で見られたことを思い出し本人がいないにも関わらず気まずくなる一方で光ちゃんは変わらずピンと伸びたお爺さん譲りの姿勢の良さでインタビューに答え続けている。
「この作品も、その人に見てもらうことを考えながら書いたんです。その人がいたからこそ。これまでの私はあり、未来の私の行くさきも照らしてくれている。まさしく私にとっての希望の光のような人ですね」
テレビ越しに見る光ちゃんの顔つきは、他人が見ても大切な人のことを話しているのだと分かる柔らかい表情をしていた。
きっと、お爺さんも光ちゃんのことを見ていてくれているよ。
展示会でのインタビューを終えたあと、いつものようにご飯を求めて我が家に突然してくるだろう光ちゃんにそう伝えてあげようと思い、料理に集中するため僕はテレビを消した。
とめ、はね、はらい、ーきみがすきー 瀬島蛍(せじま ほた) @sejima_hota
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