第2話 魔法学園

 アルテミル魔法学園には三百人の生徒が日々、勉学に励んでいる。

 身分も性別も関係ない。ここには才能に満ち溢れた生徒しかいないのだ。

 まれに身分をひけらかす生徒もいるが、すぐに姿が見えなくなる。そんなことをしている暇など、この魔法学園にはないのだ。

 ほとんどの生徒が純粋に魔法を学びたくて入学しているのだから、そこそこ勉強ができるだけでは授業にはついてこられない。

 箔をつけるために入学を希望する貴族は多いが、半分以上が不合格。一ヶ月も経たないうちに音を上げて逃げ出す者が後を絶たず、過酷な三年間を勝ち抜いて卒業できるのは僅かニ十人程度。平民は倍の四十人だ。

 優秀な生徒には学費が免除されるので、貧しい平民ほど死に物狂いで勉強をする。

 アリアとカレンは無事に入学試験に合格した。カレンは全教科満点で教師たちを驚かせた。

 カレンは自力で光魔法を習得した努力家なのだ。当然の結果だろう。

 アリアも魔眼について独学で勉強をしていたので、上位の成績だ。積み重ねは大事だとつくづく思い知らされる。

 アルテミル魔法学園の制服は紫紺の生地に金糸の刺繍が施されている。長いスカートは踝まであり、学年によってリボンの色が違う。一年生は赤色のリボンだ。

 長い歴史のある学園の校舎は深い森に囲まれていて、威厳のある佇まいをしている。広大な敷地には図書館や寄宿舎があり、研究施設も充実している。

 中庭には色とりどりの花が咲き群れて、生徒はベンチに座ってお喋りをしたり、薬草の観察をしたりと賑やかだ。

 魔法の訓練場もある。実技の成績が悪い生徒は補習を受けることになる。アリアは魔力が極端に少ないが、制御と操作はカレンよりも優れている。僅かな魔力を駆使して、相手に致命傷を与えることができる。

 大きな火の玉が作れても当たらなければ意味はない。アリアは針のように細い水の刃で確実に急所を貫くことができるのだ。

 その水の刃をアリアはカレンに向けている。

「同室ってどういうこと?」

 寄宿舎は男女に分かれていて、貴族でも個室は与えられない。一部屋に二人から三人。互いに励まし、助け合う。

 アリアはカレンと同室だった。室内にはベッドと机、クローゼットしかない。魔法を学ぶ場所なので、余計なものはいっさい排除されている。

 意外と広々とした部屋だが、これから魔導書や魔法薬品、魔導具などで足の踏み場もなくなると、寮監が教えてくれた。

 二人きりになると、アリアは怒りを露に水の刃を作り出した。カレンに狙いを定める。あとは念じるだけで手足を貫くことができる。

「偶然じゃないわよね?」

 カレンは観念して、両手を上げて降参した。

「多額の寄付をした」

「金で思いどおりになるような学園ではないわよ」

 王族でも無能なら容赦なく退学させる。だからこそ、サミエーラ王国随一の魔法学園と謳われているのだ。

 アリアが睨みつけると、カレンは決まりが悪そうに目を逸らす。小声でぼそっと言った。

「光魔法の研究に協力すると言ったら、同室にしてくれた」 

 アリアは額に手を当てて、天井を仰いだ。

「魔法バカの集まりってことを失念していたわ……」

 サミエーラ王国に七人しかいない光魔法の使い手に協力すると言われたら、同室くらいお安い御用だろう。

 アリアは水の刃を消す。盛大なため息をついて、カレンを見据えた。

「世界平和のために役立てろとは言わない。あなたの魔法なのだから、好き勝手に使えばいいわ。ただし、つまらない人間にだけはならないでちょうだい。あたし、あなたと絶交したくないから」

「……ごめん」

 カレンがしゅんとうなだれる。さすがにやりすぎたと反省しているようだ。

「あなたのことだから、協力するふりをして、自分の研究に利用するつもりなのでしょう。教師に同情するわ」

 カレンは目をぱちくりさせて、アリアを見つめる。

「アリアってすごいな」

「長年の付き合いだからね。このくらい、お見通しよ」

 カレンは首を横に振る。

「私を特別扱いしない」

「それはお互い様でしょう。あたしの魔眼を恐れない」

「それもそうだな」

 二人は顔を見合わせて笑う。

「さっさと荷解きをして、敵情視察に行くわよ」

「警戒しすぎではないのか?」

 アリアは眉を吊り上げる。

「カレンが油断しすぎなの。コルトレイン国の留学生が五人もいるのよ。怪しすぎるでしょう」

「そ、そうだな」

 迫力満点のアリアのほうが怖いとは言えず、カレンはこくこくと頷いた。



 コルトレイン国の留学生は礼拝堂にいた。

 美しい女神の彫像の前で跪き、手を組んで、目を閉じている。五人とも熱心に祈り続けていた。

 アリアとカレンは礼拝堂の扉をそっと開けて、こっそり様子を窺う。

 コルトレイン国では信仰する慈愛の女神に朝と夕方、祈りを捧げる。

 女神の彫像にもっとも近いのがユベール・ノワレ。入学試験の実技ではカレンと互角だった。

 淡い金髪に抜けるような白い肌で柔和な顔立ちをしている。傍にいるだけで、ほっとするような安心感がある。

 あとの四人は護衛なのだろうか。ユベールの後ろに控えている。

「とても悪いことを考えているとは思えないが?」

 カレンが声を潜めて言った。

「油断大敵。騙されてはダメよ」

 アリアも小声で言い返す。人畜無害そうな顔をして、カレンの命を狙っているかもしれないのだ。

「確かに、後ろの四人は只者ではなさそうだな」

「ユベールを守っているように見えるわね」

「これでは、私がユベールを狙っているみたいだな」

 アリアとカレンは首を傾げる。

「何か肝心なことを見落としているような……」

「別の目的があるってこと?」

「本人に話を聞いてみるか」

 アリアは慌てて礼拝堂に乗り込もうとするカレンの肩を掴んで引き止める。

「カレン、お願いだから、危ないことはしないで」

 カレンはアリアとユベールを交互に見る。

「わかった。アリアを危険に巻き込みたくはないからな」

 耳元で甘くささやかれて、アリアはぴくっと首を竦める。

「こんなときにからかわないでよ」

「私は本気だが」

 頬を赤らめるアリアを見て、にやりと口元を上げている。悪戯好きにも困ったものだ。

 いつの間にか日が暮れて、藍色の空に星が輝きはじめていた。

「もうすぐ夕食の時間だな」

「遅れると反省文を書かないといけないなんて、時間に厳しいわね」

「昔、研究に没頭していた生徒が餓死しかけて、それから全員で食事をするようになったそうだ」

「就寝時間が早いのも徹夜防止のため?」

「健康管理には徹底的しているようだな。若い才能を潰したくないのだろう」

「これだから、魔法バカは……」

 アリアは音をたてないように礼拝堂の扉を閉める。食堂は少し離れた場所にあるので、二人は走ることにした。

 アリアはちらっと礼拝堂を振り向く。

「いつまでお祈りするのかしら?このままだと反省文が待っているわよ」

「一時間以上は祈るらしい。それと、コルトレイン国では食事制限があるから、特別に部屋で食べるそうだ」

 アリアは目を瞬かせて、カレンをまじまじと見る。

「いろいろと詳しいわね」

「学園長が聞いてもないのに教えてくれた」

 光魔法の使い手に認められてから、カレンは挨拶回りに疲れたと言っていた。

「偉い人の相手は大変ね」

「他人事ではないぞ。アリアの魔眼が公になれば、戦争の火種になりかねない」

「だから、魔法学園に入学したのよ。封印できればいいのだけど」

 アリアは魔眼を使っていないのに頭が痛くなってきた。



 食堂には全学年の生徒が集まっていて、アリアとカレンは空いている席に座る。

 ここでは身分も性別も学年も関係ない。それでも一年生は端の席でおとなしく座っていた。

 二年生と三年生は食事中も難しそうな話をしている。

 新入生は緊張して食事も喉を通らないようだ。アリアとカレンだけはお代わりまでしていた。

 女子寮の二階にある部屋に戻り、交代でシャワーを浴びる。アリアは夜着に着替えて、窓を開けた。少しのぼせた体に夜風が心地よい。

 細い月の光が青白く照らしている。

 しばらく夜風に当たっていると、微かな物音と話し声が聞こえてきた。アリアは眉をひそめて、目を凝らす。

どこかで見たことがある顔だと思ったら、留学生のユベールだった。他の四人ともめているようだ。

 アリアは首を傾げる。ここは女子の寄宿舎なのだ。

 迷ったとは考えられない。見つかれば退学だろう。

 一瞬、カレンの暗殺が頭を過ぎったが、ユベールは他の四人に引きずられて、男子の寄宿舎に戻っていった。

「なんだったのかしら?」

「どうかしたのか?」

 腕を組んで頭を捻っていると、バスタオルで濡れた金色の髪を拭きながら、カレンが声をかけてきた。

 アリアは目を丸くして、声にはならない悲鳴を上げた。

「な、なんで、裸なのよ!」

「シャワーを浴びたから、体を拭いているのだが」

 真面目な顔で言われて、アリアのほうが慌てふためいてしまう。

「脱衣室で拭きなさいよ!」

「女同士なのだから、気にすることもないだろう」

「気にしなさい! 恥じらいを持ちなさい!」

 匂やかな白い肌がほんのり染まっている。豊かな胸は柔らかそうで、腰がきゅっと締まっている。まろやかな尻にすらりと伸びた足は同性でも美しいと見惚れてしまう。ドキドキと心臓が早鐘を打っている。

「アリア、顔が赤いな。もしかして、興奮しているのか?」

 色っぽい眼差しを向けられて、アリアは頭から湯気が出そうなほど熱くなった。

「な、なに、バカなことを言っているのよ。早く着替えなさい!」

「はいはい。アリアは本当に可愛いな」

 カレンは笑いながら、脱衣室に入っていく。

 アリアは胸に手を当てて、大きく深呼吸した。

「鎮まれ、あたしの心臓……」

 カレンの胸や尻が目に焼きついて離れない。頭を冷やそうと窓の外に視線を向ける。留学生の姿はどこにもなかった。

 しばらくして、夜着に着替えたカレンが戻ってきたが、生地が薄くて肌が透けて見える。

(裸より卑猥だわ……)

 目のやり場に困る。アリアは自分のベッドに腰を下ろして、真っ白なシーツに視線を移す。

 すると、カレンが隣に座ってきた。

 アリアは思わず体を強張らせる。幼いころから、べったりくっついて離れようとしなかったのだ。隣に座っただけで意識するほうがおかしい。

「何を見ていたのだ?」

 耳元でささやかれて、ぴくっと首を竦めてしまう。

「カレン、わざとやっているでしょう」

 アリアは片手で耳を押さえて、僅かにカレンから離れる。

「アリアは相変わらず、耳が弱いな」

 カレンが笑いながら、体を寄せてくる。昔から、アリアに触れていないと落ち着かないようだ。

 アリアもカレンの傍にいると安心するので、人前でなければ抱きつくことを許している。

「それで、窓の外に何があったのかな?」

 カレンが肩に手を回してくる。いつものことなのに、カレンの裸を見たせいか、体中が熱くてたまらない。同じ石鹸を使ったはずなのに、妙に甘い香りがする。

 ぼうと頭の芯が霞んで、体の力が抜けていく。

 このままではカレンの腕の中で眠ってしまいそうになり、アリアはぶんぶんと頭を振った。

「コルトレイン国の留学生がいたのよ」

 カレンの顔から笑みが消える。

「女子寮だと知って、夜中に訪ねてきたのか」

 アリアも表情を引き締める。

「迷子には見えなかったわ」

「仮に私の暗殺だとして、お粗末すぎないか」

「ユベールの単独行動だったみたい。他の四人が慌てて連れて帰ったわ」

 カレンはアリアを抱き寄せて、考え込む。

 アリアは邪魔しないように、ぬいぐるみのように動かない。

「ユベールの指示に従って動いているように見えたのだが。これでは子供のおもりではないか」

「あたしも世間知らずのお坊ちゃんがカレンに会いに来たようにしか思えないのよ」

 うーんと二人して頭を捻る。

「別の意味でコルトレイン国が怖くなってきた」

「用心に越したことはないわね」

「そうだな。ユベールの魔力は桁外れだからな」

 アリアが目を瞬かせる。

「カレンが男性を褒めるなんて、珍しいわね」

「私に群がってくる男が全員無能だった。それだけだ」

 公爵令嬢に取り入ろうと、下心も隠さない大人に囲まれて育ってきたのだ。カレンの美貌に魅了された男性も多いだろう。好色な目で見てくる無礼者は一睨みで追い払っていた。

「コルトレイン国では魔法は神の奇跡と呼ばれているらしいわね」

「魔力を宿した者が少ないから奇跡なのか、奇跡のために魔力を宿した者が消えていったのか……」

「それって……」

「大昔の魔女狩りだ。サミエーラ王国では、悪戯したら魔女になって牢屋に入れられるぞ、と子供の躾に使われている。ただのおとぎ話だ。だが、コルトレイン国では実際に魔女狩りは行われていた」

 ぶるっとアリアは身震いする。

「まさか、自分たちで奇跡を作ったということ? 大勢の人間を殺して……」

「それはどうかな。本当に悪い魔女がいて、多くの人間を殺したのかもしれない」

「謎だらけの国ね」

「だからこそ、慎重に行動しなくてはならない。一人で解決しようとしないことだ」

「わかっているわよ。カレンも無茶なことはしないでよ。いきなり話しかけようとしたときは心臓が止まるかと思ったわよ」

「すまない。あのときはただの留学生だと思っていたのだ」

 それでも、慈愛の女神に祈りを捧げているユベールに声をかけるのは非常識ではないかと思ってしまう。

「アリアは私が守る」

 カレンがぎゅうとアリアを抱きしめる。

「まるで王子様ね。昔は泣き虫で甘えん坊だったのに」

 アリアは幼いころのカレンを思い出して、くすくすと笑う。

 カレンはいじめられていたアリアを助けるために、強くなろうと努力してきた。申し訳ない気持ちでいっぱいなのに、同時に嬉しいと喜んでしまう。

(依存しているのは、あたしのほうかもしれない……)

 カレンの温もりを感じながら、小さなため息を漏らしていると、就寝時間になってしまった。

「カレン、寝坊しないように、ちゃんと起きるのよ」

「うん。おやすみ」

 カレンがアリアのベッドに横たわり、掛布を胸元まで引き上げる

「──カレン、あなたのベッドは隣よ」

「一緒に寝たほうが安心だろう」

「むしろ、身の危険を感じるわ」

 アリアはベッドからカレンを追い出す。

「人肌が恋しくなったら、いつでも言ってくれ」

 熱っぽい眼差しを向けられると、頬が紅潮してしまう。

「もう、冗談を言ってないで、さっさと寝なさい!」

「本気なのだが」

「カレン!」

 眉を吊り上げて怒ると、カレンはおとなしく自分のベッドに潜り込んだ。

(甘えん坊なところは変わっていないわね)

 アリアは複雑な心境になる。学園生活は始まったばかりなのだ。

(あたしがカレンを守らなくちゃ……)

 アリアはごろんとベッドに寝転がり、静かに目を閉じた。



 魔法学園の授業は難易度が高すぎて、アリアも思わず弱音を吐きそうになる。

 箔をつけるために入学した貴族の子女や自分は優秀だと自惚れていた生徒が逃げ出すのも無理はない。

 純粋に魔法に興味がある生徒は目を輝かせていた。呑み込みが早くて、あっという間に上位に上り詰めている。

 難点があるとするなら、没頭しすぎて倒れることがある。周りが見えなくなり、規則を破って教師に説教される。天才となんとかは紙一重ということだ。

 カレンは授業が終わると研究所に通っている。入学して三ヶ月が経つが、未だに研究内容を教えてくれない。学園の許可を取り、泊まり込みで研究をすることもあった。それで成績は学年一位なのだから、体調を崩さないかと心配になる。

 警戒をしているコルトレイン国の留学生は、今のところはおとなしい。クラスが別なので滅多に顔を合わせることもない。こっそり跡をつけたり、カレンのことを嗅ぎ回っているようだが、敢えて放置しておく。敵意は感じられないが、目的が不明なので、こちらも迂闊な行動はとれないのだ。

 今日もカレンは授業が終わると、研究所に行ってしまった。もう少しで完成すると言って、張り切っていた。

 アリアは魔眼のことを調べるために図書館へと向かう。放課後はいつも図書館で勉強をしていた。

古い煉瓦造りの建物に入ると、大量の魔導書に圧倒される。ここには禁書もあるらしいが、厳重に保管されていて、生徒は読むことができない。

 光魔法の使い手であるカレンは禁書に目を通したことがあるらしいが。

 アリアは古代魔法に関する魔導書を何冊か選んで、隅っこの席に座る。

 遠くの場所が見えたり、箱の中身が透けて見える魔法はあるが、魔力が見える魔法は存在しないのだ。

 今のところ、手がかりはカレンの祖父から譲られた魔導書だけである。そこには古代文字で書かれているページもあったので、アリアは古代魔法を調べることにした。

 古代文字は幼いころから勉強をしてきたので、読むことはできるが、内容が難しすぎて頭が沸騰しそうになる。

 魔導書によれば、この魔眼は呪いらしい。大昔の怨念みたいなものが偶然、アリアにとり憑いたことになる。

 意志の強い人間なら、制御して使いこなすこともできるそうだ。

 アリアは盛大なため息を漏らした。

 知りたいことは呪いの解除か封印なのだ。教師に魔眼のことは話せないので、地道に調べるしかない。

(呪いなら、闇魔法になるのかしら?)

 闇属性は封印や拘束を得意とする。

 アリアは古代魔法の魔導書を本棚に戻して、案内板を見る。闇魔法の魔導書は三階にあるらしい。

 階段を上っていると、妙に視線を感じる。振り返ると数人の女子生徒が階下から、こちらを見つめていた。

 目が合うと顔を赤くして、走り去っていく。アリアは肩を落とした。

(そんなに、あたしって怖いのかしら?)

 光魔法の使い手であるカレンは憧れの存在であり、完璧な美貌に誰もが心を奪われてしまう。

 カレンは不埒者には厳しいが、か弱い少女には優しいので、ついたあだ名が『薔薇の王子』である。

 実技の授業で炎を出したとき、真っ赤な薔薇のように美しかったことから、薔薇の王子と呼ばれるようになった。

 そんな薔薇の王子といつも一緒にいて、冗談がすぎると説教をするアリアは上級生からも恐れられていた。

 『氷の女王』と陰口を叩かれている。先程の女子生徒のように目が合っただけで逃げられてしまうのだ。酷いときは悲鳴を上げる女子生徒もいる。

 これにはさすがに落ち込んでしまう。カレンに相談しても、麗しの女王様に声をかけられたら、下々の者は感激のあまり悲鳴を上げるものだと揶揄された。

 三階に辿り着き、闇魔法の魔導書を探していると、本棚の陰から、ちらちらと女子生徒がこちらを見てくる。

 カレンと一緒にいると、どうしても悪目立ちしてしまう。アリアはため息をついて、魔導書を一冊だけ借りることにした。自室で読んだほうが集中できる。

 試験が近いせいだろうか。いつもより生徒が多い。自習室は全席が埋まっていた。

 魔導書を借りて図書館を出ると、ものすごい勢いで男子生徒が駆け寄ってきた。

 ネクタイの色から一年生だ。男子生徒は真っ赤な顔で鼻息が荒い。見かけない顔なので別のクラスの生徒だろう。

 なぜか興奮している。アリアは思わず後ずさる。

 男子生徒はいつまでたっても何も言わずに両手を組んでもじもじしている。

 痺れを切らしたアリアが何か言おうと口を開いたとき、男子生徒が制服のポケットから封筒を取り出した。

「こここ、これ、読んでくだしゃい」

 噛みまくって、よく聞こえない。それでも白い封筒を差し出されて、アリアは反射的に受け取ってしまった。

 男子生徒はさらに顔を赤くして、逃げるように走り去っていく。

 アリアは呆気にとられてしまった。

「なんだったの……?」

 白い封筒を凝視する。

「まさか、果し状?」

 目つきが悪いせいで恐れられているが、アリアは極端に魔力が少ない。魔眼を使えば、相手の弱点を突いて勝つことはできるが、眼精疲労と頭痛で寝込んでしまうので決闘は避けたい。それに魔眼のことは誰にも知られるわけにはいかない。

「あたしって、そんなに嫌われているのかな……」

 傍から見れば、薔薇の王子を独り占めしているようなものだ。恨まれてもしかたがない。

 アリアは何度もため息をつきながら、重い足取りで寄宿舎へと歩いた。



 自室の扉を開けると、珍しくカレンが先に戻っていた。

「あら、今日は早いのね」

「完成したから、早く伝えようと思って」

 研究していた魔法が完成したようだ。嬉しくてたまらないのだろう。思いっきり抱きつかれて、アリアはよろけてしまう。

「あ、危ない!?」

 案の定、足がもつれて、二人で抱き合ったまま、カレンのベッドに倒れてしまった。

「もう、怪我したらどうするのよ」

「すまない」

「でも、まあ、おめでとう。長年の夢が叶って」

「まだ、動物実験はしていないから、これからが大変なのだが」

 アリアは怪訝な顔つきになる。

「カレン、危険な研究じゃないわよね?」

「もちろん。この魔法で多くの女性が救われる」

「よくわからないけど、すごい魔法なのね」

「ああ、私だけでは何十年もかかっていただろう。この学園の研究設備と優秀な教師たちのお陰だ」

 研究内容は話してくれないようだ。カレンが魔法を悪用することはないので、もうしばらく信じて待つことにする。

「お疲れさま」

 よしよしと頭を撫でると、カレンがうっとりと目を細める。猫のようで愛らしい。

「もっと褒めてもいい」

「はいはい。がんばったわね」

「うん」

 ぎゅうと抱きしめられて、胸の谷間に顔を埋めてくる。くすぐったくて笑ってしまう。

「制服がしわくちゃになるわよ」

「もう一着あるからいい」

「しかたないわね」

 長い金色の髪を指で梳くと、気持ちよさそうに体をすり寄せてくる。

 ポケットにいれていた白い封筒がグシャと音をたてた。

「なに?」

 カレンが眠たそうな声音で尋ねてくる。

「すっかり、忘れていたわ」

 アリアはポケットから白い封筒を取り出した。

「果し状よ」

 眠気が吹っ飛んだのか、カレンがぽかんと目を丸くした。

「どういうことだ?」

「図書館の帰りに一年生の男子に渡されたのよ」

 カレンの表情が険しくなっていく。

「日時と場所は?」

「まだ、読んでないからわからないわ」

 アリアは封を開けて、手紙に目を通す。

「明日の放課後、礼拝堂の裏のアカシアの木で待っています。ダニー・モランテ」

 アリアは首を傾げた。

「変わった場所で決闘するのね」

 礼拝堂は遠い昔、コルトレイン国の留学生を迎えるときに建てられたものだ。相手の信仰心を理解し、尊重するのは当然のことだ。

「アリアは、その男になにかしたのか?」

 アリアは首を横に振る。

「知らない人よ。話したこともないし」

 それどころか、どんな顔だったのか覚えていない。特徴のない平凡な男子生徒だった。髪の毛が茶色だったような気がする。

 鼻息が荒くて不気味だったから、なるべく目を合わせないようにしていたのだ。

「また、逆恨みかしら? カレンを独り占めしていると勘違いして……」

「アリア、本気で言っているのか?」

 カレンが心の底から呆れ返っている。

「礼拝堂の裏のアカシアの木といえば答えは一つしかないだろう」

 アリアは真剣な顔つきで考え込む。男子生徒は怖いくらい興奮していた。

「まさか」

 アリアは弾かれたように顔を上げた。

「コルトレイン国の刺客があたしを人質にとって、カレンを誘き出すつもりなのね」

 あの男子生徒はユベールの手先だったのだ。コルトレイン国は光魔法の使い手であるカレンを狙っているのだ。

「なんて卑怯なの! こうなったら刺客を捕らえて、あらいざらい喋ってもらうわ」

 アリアが憤慨する。なぜか、カレンは頭を抱えていた。



 翌日の放課後。

 アリアはアカシアの木の下でダニーが来るのを待っていた。

 カレンは茂み中に隠れている。ダニーの本当の狙いはカレンなのだから、寄宿舎でおとなしくしてほしいのだが、アリアだけでは心配だと言って付いて来てしまった。

 アリアは気を引き締める。いざとなれば魔眼を使うまでだ。

 ダニーは少し遅れてやって来た。

「ご、ごごごごめんなさい。ち、ちちちこくして、そ、そそうじして……」 

 相変わらず噛みまくって、何を言っているのかわからない。汗だくで頭を下げて、ひたすら謝っている。

 辛うじて聞きとれたのが、宿題を忘れて罰として教室の掃除をしていた。遅れて申し訳ない。

 いつまでも頭を下げているダニーに、アリアはうんざりしていた。しかし、油断はできない。これは罠かもしれない。

 アリアはおそるおそる声をかけた。

「頭を上げてちょうだい。怒ってないから」

 ダニーはがばっと顔を上げて、目にいっぱい涙を浮かべた。

「ああああ、ありがとう、ごごございます……」

 安心したのか、今度はパアッと目を輝かせている。

 アリアは困惑する。ダニーが何を考えているのかわからない。調子が狂ってしまう。

 アリアは思いきって尋ねた。

「用件は何かしら?」

 ダニーは背筋を正して、真剣な顔つきになる。

 アリアも反撃できるように身構える。

 ダニーは顔を真っ赤にして言った。

「好きです。僕とお付き合いしてください」

「は……?」

 アリアは目を丸くして、立ち尽くしてしまった。予想外の告白に頭が真っ白になる。

 ダニーは前のめりになり、熱く語りはじめた。

「入学式のとき、あなたを一目見て恋に落ちました。あなとのことを考えると食事も喉を通らず、夜も眠れません。あなたは僕の気高く美しい女王様です!」

 アリアにはダニーの言葉が理解できなかった。長々と喋っているが早口で何を言っているのか聞きとれない。

「僕はあなたを愛しています。必ずあなたを幸せにしてみせます」

 アリアは思わず自分の頬を抓りそうになった。

(夢でも見ているのかしら……?)

 アリアは上級生にまで氷の女王と恐れられているのだ。愛の告白なんてあり得ない。カレンと間違えているのではないのか。

 ダニーは鼻息を荒くして、押し迫ってくる。

 アリアは後ずさるが、アカシアの木が背中に当たり、逃げ場を失ってしまう。

 ダニーが顔を赤らめて、とんでもないことを口走ろうとする。

「僕と結婚を前提に交際を──」

「それは無理だ」

 冷ややかな声が、ダニーの告白を遮った。

 いつの間にか、カレンが隣にいて、アリアの肩を抱き寄せる。

 アリアもダニーも大きく目を見開き、言葉を失ってしまった。

 カレンがにこやかに微笑む。しかし、その目は笑っていない。ぞくりと背筋に冷たいものが流れる。

「ダニー・モランテ。男爵家の三男。成績は下の中。なんの取り柄もない平凡な男だな」

 カレンがくすっと笑う。あからさまにダニーを見下している。

「アリアは侯爵家の令嬢だ。身分も能力も劣る君では相手にもならない。身の程をわきまえたらどうだ」

 アリアは驚いてしまう。カレンはけして身分をひけらかしたりしない。わざとダニーを挑発しているとしか思えない。

 ダニーの顔が怒りで赤黒くなる。

「身分なんて関係ない。愛があれば幸せになれる」

「家が破産寸前だというのに呑気なことを言うものだ。それとも愛で腹が膨れるのか?」

 アリアは目を瞬かせる。

「破産?」

「ちっ、違うんだ!」

 狼狽するダニーを無視して、カレンは頷いた。

「博打と女遊びで借金まみれだ。その息子も女好きで、せっかく魔法学園に入学できたというのに学業を疎かにして、女の尻を追っかけ回している。性根まで腐っているな。それで、よくアリアを幸せにすると言えたものだ。恥を知れ」

 ダニーがわなわなと震えだす。血走った目でカレンを睨みつけるが、激怒しているのはカレンのほうだ。

 カレンの迫力に恐れをなして、ダニーは逃げ出してしまった。

 ダニーの姿が見えなくなると、アリアは力が抜けてしまって、カレンに寄りかかる。

「まさか、お金目当てだったとは……。でも、納得だわ。あたしを好きになるなんて、おかしいもの」

 カレンが深いため息を漏らす。

「アリア、まだ気づいていないのか? 氷の女王とは高嶺の花という意味だ。畏れ多くて声もかけられない。アリアのことが好きな生徒は目が合っただけで悲鳴を上げて喜んでいる」

「そんな……嘘でしょう……」

 アリアは混乱してしまう。

「カレンのほうが綺麗で賢くて人気者じゃない」

「私は人前では大きな猫を被っているからな。それに、アリアは自分に無断着すぎる。こんなにも可愛いのに……」 

 繊細な指先で顎を掴まれて、上に向けられる。カレンの顔が近くにあって、アリアの胸がドキッと高鳴った。

 「カ……カレンはこうなることがわかっていたの? だから、ダニーのことを調べていたの?」

「ダニーだけではない。アリアに好意を抱いている生徒は全て把握している」

 アリアはきょとんとする。嫌な予感がしてきた。

「まさか、今まであたしに男性が近寄って来なかったのも……」

「私が睨みを利かせていたからな」

「なんで、そんなことをするのよ!」

「アリアが好きだからに決まっているだろう」

 いつになく真剣な表情で言われて、アリアは体中が熱くなるのを感じた。心臓の音がうるさく鳴り響いている。

「そもそも一睨みで怯んでしまうような男は問題外だとは思わないか?」

 カレンが悪戯っぽく笑う。甘い吐息が唇にかかって、くすぐったい。

「カレン、本気で言っているの? あたしたち、女なのよ」

「それなら心配ない。昨日、完成したと言っただろう。あれは女同士でも子供ができる魔法だ」

「え……?」

 アリアは自分の耳を疑ってしまう。きっと何かの聞き間違いだろう。

「そんな魔法、聞いたことないわ」

「だから光魔法を研究して、新たな魔法を作り出した。光魔法とは生命の魔法とも言われているからな」

 治癒魔法や浄化魔法は命や魂に深く関わっている。

「これで同性婚も認められるだろう」

 アリアはこれ以上ないほど目を見開く。

「もしかして、あたしと結婚するために、こんなめちゃくちゃな魔法を研究してきたの?」

「そうだ。父と母は喜んで協力してくれた。どこの馬の骨ともわからぬ男に一人娘はやりたくないものだからな。アリアなら大歓迎だ」

 すでにアリアが公爵家に嫁ぐことになっている。

「ちょっと、なに勝手に決めているのよ」

「アリアのご両親も乗り気だぞ。私なら家柄も人柄も申し分ないからな」 

「……お父様、お母様……」

 侯爵家は六歳年下の弟が跡を継ぐことになっているので問題はない。娘の嫁ぎ先も決まって一安心といったところだろう。

「魔法が完成したから、これでアリアは私の婚約者だ」

 アリアはくらりと目眩がしてきた。カレンがすぐさま腰に手を回して、くずおれそうな体を支える。

「大丈夫か?」

「頭がおかしくなりそうよ。みんな、あたしの気持ちを無視して、婚約の話を進めていたなんて酷いわ」

「失敗する可能性もあったから、アリアには言えなかった。失敗しても駆け落ちするつもりだったが」

「また、あたしの気持ちを無視して!」

「だったら、アリアの気持ちを聞かせてくれないか?」

 アリアは目をぱちくりさせる。

「あたしの気持ち……?」

「そうだ。アリアは知らなかったようだが、アカシアの木の下で告白すると、永遠に結ばれると言われている」

 青々と枝葉を広げているアカシアの木を、アリアは呆然と仰ぎ見る。

「ダニーは本気であたしのことが好きだったの? カレンも知っていて黙っていたの?」

「有名な話だからな。このアカシアの木は慈愛の女神の加護を受けているとか、実際に女神を見たとか、噂が絶えない。卒業後に結婚した生徒もいるから、ご利益はあるのだろう。むしろ、アリアが知らなかったことに驚いた」

「そ……それは……あたしにはカレンしかいないから……」

 幼いころからカレンが傍にいてくれた。一緒にいることが当たり前で疑念を抱くこともなかった。

(あたし、カレンのことしか見ていない……)

 だから、噂話も知らなかった。ダニーをコルトレイン国の刺客だと勘違いしてしまった。

「私も同じだ。アリアは私のためにダニーを捕らえようとした。嬉しかったよ。だから、黙っていた。すまない」

「もう、いいわよ。カレンが無事だったから」

「アリアは優しいな。今すぐ結婚したい」

 耳元でささやかれて、アリアは頬を赤らめる。

「女同士で結婚だなんて……」

「アリアは私のことが嫌いなのか?」

「そういうことじゃなくて」

「どういうことだ? 私はアリアが好きだ。互いの両親も認めている。世継ぎの心配もない。あとはアリアの気持ちだ」

「あたしは……」

 カレンのことは好きだ。特別な存在だ。このまま、ずっと一緒にいたい。

 しかし、それは恋なのだろうか。

 一方的な執着心ではないだろうか。

「……よくわからない。カレンのことは一番大切だけど、もしかしたら、あたしの好きとカレンの好きは違うものかもしれない……」

「恋愛なのか友情なのか。自分でもわからないということか」

「……うん」

 アリアはしゅんとうなだれる。優柔不断で情けない。

 カレンは考える顔つきになる。

「キス……してみるのはどうだろう」

「キス!?」

 アリアは弾かれたように顔を上げる。

 カレンはいつになく真剣な表情だ。

「ああ、キスをして胸がドキドキしたら恋。嫌悪感を抱いたら友情。わかりやすいだろう」

「そうかもしれないけど……」

 初めてのキスなのだ。実験みたいに唇を奪われるのは悲しくなる。

 アリアが躊躇っていると、ほっそりとした手が優しく頬を包み込んでくる。

「私もキスは初めてだ。だからこそ、好きな人としたい」

「カレン……」

「アリアも私と同じ気持ちだと嬉しい」

 熱い眼差しで見つめられると、心臓がドキドキする。キスもしていないのに耳まで真っ赤だ。嫌悪感はない。それどころか期待に胸が弾んでいる。

「あたしも……カレンとキス……してみたくなってきた……」

 勇気を振り絞って素直な気持ちを告げると、カレンは優しく微笑んで、ちゅっと額にキスをした。

「どう?」

「なんだか、くすぐったい」

「これは?」

 ちゅっとアリアの頬にキスをする。恥ずかしいような嬉しいような不思議な気分だ。

「好きかもしれない」

 カレンは瞼や耳朶にも小鳥がついばむようなキスをする。

 軽く触れてくる唇の感触が心地よい。アリアがうっとりと目を細めていると、指先で顎を上に向けられる。

「唇にキスしても?」

 カレンの頬も赤く染まっている。

 アリアは頷く代わりに、そっと目を閉じた。

 カレンの顔が近づき、甘い吐息が唇をくすぐる。

 柔らかくて温かいものが唇に重なる。

(初めてのキス……)

 女同士なのに気持ち悪いとは思わない。甘くて柔らかくてとろけそうになる。

(きっと好きな人とキスをしているから……)

 こんなにも胸がぽかぽかして、幸せな気持ちになるのだ。

 カレンが、ちゅ、ちゅっと唇をついばみ、角度を変えては深く唇を押し当てる。

 うっとりするほど心地よい。ずっと唇を重ね合わせていたい。

「ふぁ……うぅ……ん……」

 薄く開いた唇から、熱い吐息が漏れる。このまま、溶けてなくなりそうだ。

 アリアも夢中になって、ちゅうと唇に吸いつく。無意識にカレンの首に腕を絡めて、抱きしめていた。

(キスがこんなにも気持ちいいなんて……)

 アリアが甘いキスに酔いしれていると、むにゅと左胸に違和感を覚える。

 目を開けて視線を下に向けると、カレンの手がやわやわと制服の上から胸を揉んでいた。

「──調子に乗るな!」

 アリアは眉を吊り上げて、思いっきりカレンを突き飛ばした。

「やりすぎてしまったようだな」

 カレンは少しよろけた程度で苦笑している。

 アリアは拳を握り締めた。

「今度、胸を揉んだら殴るわよ」

「キスはしていいのだな?」

「そ、それは……」

 たちまちアリアの顔が赤くなる。

「これで恋だとわかっただろう」

「どうして、そうなるのよ!」

「すごく胸がドキドキしていた」

「初めてのキスだからよ!」

 認めるわけにはいかない。カレンは公爵令嬢であり、光魔法の使い手なのだ。いい加減な気持ちのままで結婚するわけにはいかない。

「もし、初めてのキスが男だったら?」

「えっ……?」

「アリアはドキドキしたかな?」

 カレンが意地悪なことを言ってくる。

 アリアは想像しただけで、ぞわっと鳥肌が立ち、気分が悪くなる。ダニーとは手を繋ぐだけでも吐き気が込み上げてくる。

「顔が真っ青だな。これでわかっただろう」

「くっ……」

 言い返すことができないのが悔しい。

「素直に私が好きだとみとめたらどうだ?」

「──カレンのことは好きよ。大切に思っている。でも、これはただの肉欲でしかないわ」

 カレンが目を丸くする。

「男とキスをするのは嫌なのだろう?」

「ええ、想像しただけで悪寒が走ったわ」

「だったら……」

「キスで男性が苦手だということがわかったわ。同時に女性なら受け入れることができる」 

 カレン以外の女性とキスをしたいとは思わないが、今後のことを考えると厳しいことを言わなくてはならない。

「あたしはなし崩しであなたと結婚はしたくない。真剣に将来のことを考えたい」

「それは婚約解消ということか?」

 アリアは首を横に振る。

「あたしはあなたと一緒に、どうすれば幸せになれるのかをいっぱい話し合いたい」

「え、それは、どういう……」

 カレンが珍しく戸惑っている。

 アリアは悪戯っぽく笑って言った。

「清い交際からはじめましょう」

 カレンがきょとんとする。

 その驚いた顔が見たかった。これで両親に根回しして勝手に婚約を決めたことは許してあげよう。

「これは、あたしの人生よ。周りに流されて気づけば結婚していましたなんて、死んでもごめんだわ」

 アリアはカレンの顔を覗き込む。

「ちゃんと恋をしましょう」

 公爵夫人になるために。光魔法の使い手を支えるために。カレンに相応しい女性になるために。

「アリア……」

 カレンは花が咲いたように微笑んだ。

 それはとても美しい笑顔だった。

「でも、いやらしいことはダメだからね。清く正しいお付き合いよ」

 一応、釘は刺しておく。すると、カレンが困ったふうに眉を下げた。

「それは手遅れかも」

 首を傾げるアリアに、カレンは苦笑まじりに言った。

「このアカシアの木の下でキスをすると子宝に恵まれるらしい。産休の教師もここでキスをしたという噂だ」

 みるみるアリアの顔が赤くなっていく。

「カレン、あなたっていう人は……」

「誤解だ。私は純粋な気持ちでアリアとキスがしたくて……」

「本当に?」

 じっと見据えると、カレンは決まり悪そうに目を逸らす。

「……少しは期待していました」

 アリアは深いため息を漏らす。これは前途多難だ。

「恋愛って難しいわね」

 アリアは早くも後悔しはじめていた。

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