第38話 「そんな大層なことじゃないよ、あはは」

 パソコンに備えられたキーボードを叩く音や、取引先に電話をかける話し声がひっきりなしに聴こえてくるオフィスで、私は見慣れたディスプレイに表示された週間報告書をあらためる。


 ダブルチェックを終わらせたら、予め用意しておいたメールに添付して送信。そこまでやってようやく、一息ついてスーツ越しに自分の肩を揉んでやる。猫背にはならない様にと気をつけてはいるんだけど、どうにも肩が凝りやすい体質の私は、時間があればつい肩に手を伸ばしてしまう。根本的な改善は……難しそう。


 何故かといえば、それだけ仕事に対して力を入れてしまってるから。これは上昇志向があるとか、情熱があるって意味じゃなくって、なんだ。絶対に。


 メールボックスを更新して、ToDoリストを開いて、今日為すべき事を終わらせたんだと確認したところで。



「くませんぱい。報告書のチェック、お願いできますか?」



 後輩の綾野ちゃんから声をかけられた。キャスター付きの椅子を転がして直ぐ隣に向かえば、私と同じ報告書を作っていた彼女に迎えられる。



「はーい。今週は色々あったからね。問題はなかった?」


「なかったっす。全部くませんぱいが教えてくれましたから」


「よかった。じゃあ、見せてもらうね」



 綾野ちゃんはグレージュのショートボブがよく似合う可愛らしい女の子で、業務に関してソツがないからあんまり心配してはいない。


 けど、こういうのは確認しなくなってしまうと、良くない慣れに繋がってしまう。そういう“よくないもの”の積み重ねが、仕事に影響したりしてくるので、私は細かいと思われても口頭で確認をする様にしてるんだ。


 さて、とパソコンの画面に目をやると、私が作成していたものより幾分入力内容が少ない報告書が表示されてる。それは当然、この春入社した綾野ちゃんは今週初めて顧客とのやりとりを行ったんだから。内容の多寡じゃなくて、その質に目を向けてあげたい。


 顧客からの要望、よし。進捗状況、よし。各方面への連絡、よし。……私の目から見て、全ての内容に過不足ない記入が施されてる。



「……うん、バッチリ。さすがは綾野ちゃん、呑み込みが早いね」


「あたしはぜんぜん。くませんぱいから教わった事を、そのままやってるだけっすから」


「教わった事をちゃんと出来るのも、立派な素質だよ。すごいよ、綾野ちゃん!」


「……うす」



 後輩のモチベーション管理も、私の大事なお仕事。褒める時は全力で褒めちぎって、諭す時はそれとなく諭す。そうして彼女が独り立ちしてくれた時、ようやく私のお仕事はひと段落する。今日のところは、気恥ずかしそうに頬を掻く綾野ちゃんの表情を見る限り、私はちゃんと仕事をこなせたみたい。


 パソコンに表示されてる時計を見ると、もう定時まで残りわずかという時刻になっていた。私のやる事ももうないし……。



「綾野ちゃん、今日のタスクはもうないよね?」


「うっす。報告書を提出したら終わりっす」


「じゃあ少しお話ししよっか。今週は大変だったでしょ?」


「そうっすね。でも、基本的にはせんぱいについて回るだけですから、大した事じゃないと思います」


「大した事だよぉ。この暑い中、あっちに行ったりこっちに行ったりを何回もしたんだから!——」



 ——おしゃべりをしつつ、オフィス近くの自販機そばに場所を変える。どんなお話になるかわからないし、オフィスで話をするより気兼ねしない。綾野ちゃんもここでは、結構色んな事を話してくれる。


 こういう、雑談交じりのヒアリングも大事。余裕がある時は積極的にお話をして、職場や私に慣れてもらいつつ、小さな悩みを解消出来るよう手伝いをする。これも、やっぱり私のお仕事。


 私は物事にコツコツ取り組むのが得意ってわけでもない。でも、後輩の指導を依頼されてはこなす事で査定も良くなるし、当然給与にも関わってくる。だから私は仕事量が増えたとしても、嫌がったりはしない。私が頑張って稼げば、それだけに還元する事ができるんだから。

 


「せんぱい。さっきは、ありがとうございます」



 何気ない会話をしていると、改まった様子で、綾野ちゃんがそう切り出した。



「さっき?」


「あたしの代わりに、頼まれた雑用をやってくれたじゃないっすか」


「あー……」

 


 私にとっては悲しいかな、もうなんて事ないと思ってしまう職場の日常風景。


 男性の割合が多いこの職場では、何故だか若い女の子の新入社員にお茶を入れさせたり、コピーを取らせたりという雑用を頼もうとする人が一定数いる。本当に、なんでなんだろうね。


 本人的にはコミュニケーションの一環だと思ってたり、そんな雑用をやらせる事でらしいんだけど……本人が望んでるんじゃなければ、本来やるべき業務の邪魔にしかならない。


 なので、私が担当している後輩に声をかけるような人がいた時には、私が代わって雑用をするようにしている。そうしなきゃ、綾野ちゃんの仕事が滞ってしまうから。


 今日もそんな一幕があって、私が代わったんだっけ。



「気にしなくていいよぉ。綾野ちゃんにはもっと大事な事があるわけだし」


「でも、せんぱいに代わってもらっちゃったのは、後輩として申し訳ないというか……」


「じゃあ! こうして欲しいな。将来、綾野ちゃんが後輩を持った時、おんなじ様に代わってあげて?」



 私が綾野ちゃんの代わりに、綾野ちゃんはまだ見ぬ誰かの代わりに。そういうサイクルが常態化すれば、きっといつかは綾野ちゃんみたいに申し訳なく思う女の子はいなくなると思う。若い女の子に声をかけても無駄だってみんながわかってくれたなら、どんなだって廃れもするよね、きっと。



「……肝に銘じておきます」


「そんな大層なことじゃないよ、あはは」


「いえ。……せんぱいって、かっけーですよね」


「うん? 私が?」


「せんぱいにもせんぱいの仕事はあるのに、全然大変そうに見えないっていうか。そういうスタンス、かっけーっす」



 “かっけー”なんて言ってもらえて、なんとなく自分の姿を客観視してみる。ピンクブラウンのミディアムボブと丸い目のたぬき顔が特徴の23歳。今日はトップスにサマーニットを着たスーツ姿の、どこにでもいそうなOL。仕事への力の入れ方には偏りがある。


 “かっけー”……うぅん。そんな風に言ってもらえるような、やっぱり大した人間じゃないんだけど。


 私は自分がそそっかしい人間だって自覚があるから、本当に大変な時以外は大変じゃない風に装って、そうやって自分自身を騙してるだけなんだ。


 逆に、“忙しい!”って騒いでる人の方が仕事ができるとか、出世が早いとかって話もあるらしいんだけど……さて、綾野ちゃんにはどう伝えるべきなんだろう。



「せんぱいともっとおしゃべりしたいっす。今日、飲み会ですよね。せんぱいも参加するんですか?」



 私が迷ってるうちに、隣に立つ綾野ちゃんがおずおずとした様子で今夜の予定について訪ねてくれた。


 可愛い後輩のお誘い。是非とも受けてあげたい。……だけど。



「それは……ごめんっ。先約があるんだぁ」


「そう、ですか……」



 これだけは譲れない一線なんだ。


 なんて言ったって今日は。



「……実は気になってたお店があるんだけど。綾野ちゃんがよかったら、今度一緒にどうかな?」


「……はいっ! ぜひっ!」


 

 ……しょんぼりしてしまった綾野ちゃんの雰囲気に負けて、今度の約束をしてしまったのはご愛嬌って事で。


 元気を取り戻してくれた綾野ちゃんと一緒に自分の席に戻って、そうして少しすれば本日のお仕事はおしまい。


 さぁこれからが、私にとっては一日の本番だよ。気合を入れろ、小仁熊雪奈。


 ——今日は一週間ぶりのエス=エスのライブ。私は、リリ推しに会いに行くのだ!

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