第23話 「あー……うー……たーべちゃーうぞー」

 閉ざされた冷たい玄関扉を前にして、もうどれくらい経ったかな。30分、1時間? それもわからないくらい、私はここでぼーっとしてしまっていた。


 凛々夏が最後に見せてくれた笑顔が眩しくて、名残惜しくて、私はまだ彼女の温もりが少しでも残ってる……そんな気がする、この場所を離れられなかった。


 私は最後まで、ちゃんと“いつも通りの私”でいられたのかな。……多分、大丈夫だよね。凛々夏があの様子を見せてくれたなら、私は役目を果たしきれたんだ。



「……寝直そっかな」



 どうにも重たくって、壁にもたれていた身体と心を動かす為、自分に言い聞かせる様に呟いてみる。なんて信じてるわけじゃないけど、気持ちを整理した上で自分に言うことを聞かせるならこれ独り言が1番。今だけは言葉が、部屋の空気に溶けてしまうようで、少しだけ悲しくなるけど。


 ……ま、一人暮らしを始めて結構長い事だし、なんだか急におセンチになっちゃうのはいつもの事。こういう時は大人しく寝て、起きたらエス=エスのライブ映像なんかを見ちゃったりすれば、あっという間に元気になれるものです。オタクってのは案外、コスパがいい生き物だと思う。……推し活でお金がかかるのは、コスパがいいって言えないかもしれないけど。


 玄関の灯りを消したなら、ゆっくりとした歩みで部屋に向かう。



「うわー……身体、重ったぁ……全部おっぱいのせいだい……」



 なんかこういうモノマネがあった気がする。凛々夏の好きなホラーゲームのモノマネで、操作感が独特すぎて、プレイヤーはキャラを壁に押しつける様に移動させちゃうんだ。今の私の歩き方はまさしくそんな感じ。凛々夏に見せたら“似てますね”って笑ってもらえる自信がある。


 ……あはは、私ってばまた、凛々夏のことばっかり考えてる。でも、本当に好きなんだからしょうがないよね。



「あー……うー……たーべちゃーうぞー」



 ゲームに出てくるゾンビのつもりでそんな事を呟いてみる。けど、よくよく考えたらモノマネはプレイヤーキャラのものであって、ゾンビのモノマネじゃなかったな。これじゃ主人公がゾンビになってしまってるバッドエンドだ。


 さて、寝直すにあたって……着替えとかはいっか。寝てる時に汗をかいたら二度手間だし、瞼も重たくなってきたから、今はさっさとおふとぅんに包まれてグッドスリープぐっすり決め込みたい。


 しょぼしょぼの目を擦りながら寝室の扉を開いて、ふらふらの足をどうにか動かしてベッドに座る。あとはこの身体を横にしちゃえば、お昼寝タイムだ。


 いつもなら寝る前はアイドル関連の非公式掲示板を読んで情報収集したりするんだけど……これもまぁいっか。


 ふぁ……いい感じに欠伸も出てきた。よしよし、このままベッドにタッチダウンを決めて——



「……あ……これ……」



 ——寝てしまおうとした私の手に触れたのは、ベッドの上に残された彼女の面影。彼女らしく几帳面に畳まれた、Tシャツがそこに置かれていた。



「……洗わなきゃなぁ、これも」



 これを洗ってしまえば、いよいよ彼女が私の家にいた跡はなくなってしまう。まるで、彼女とのひとときが本当に夢だったみたいに。


 ……でも、ダメだよね。私のこの気持ちに折り合いをつける為にも、綺麗に洗ってしまわなきゃ。凛々夏だって、嫌がるかもしれないし。



「どーせ洗うのに、畳んでくれてるってのが凛々夏っぽい。てきとーに丸めとけばいいのに、あはは……は……え?」



 未練に呑まれてしまわないよう、彼女のおいていってくれたそれを洗濯カゴにいれてしまおう。そう思って手に取ったTシャツが、はらりと広がって……そうして見えたお腹の辺り。



「……凛々夏の、だ」



 座り直して膝の上で広げると、その全貌がよく見えるようになる。


 青いTシャツでも見やすいように、気を遣ってくれたんだね。私が持ってないはずの白いペンで描かれたのは、オタクが見間違える筈もない彼女のサイン。……サイン出来るようにペンを用意してるのも、やっぱり凛々夏らしいや。



“グッズに、サインとかどうかなって……良かったら、ですけど”



 色々あってすっかり私が忘れかけてしまったその事を、凛々夏は忘れずに居てくれたんだね。ああ、本当に、本当に……。


 サインには小さくメッセージまで添えられてるみたい。どんな事を書いてくれたのかな。見てみようと視線を、膝の上に落とそうとして——



「……あれ……あれ?」



 ——途端に、私の視界がぼやける。水面に沈めた写真のように、どんどん青色のシャツが滲んで見えて、拭ってみても意味がなさそう。


 そのうちに、何かが私の眼から溢れて、頬を伝って、Tシャツへ落ちてしまった。



「っ! やだ、やだよ!」



 ぽろぽろとこぼれ落ちるそれが、凛々夏の残してくれた面影を濡らしていく。慌てて自分のシャツで、溢れたそれを拭いてみても、次から次へと零れるそれは止まってなんかくれない。



「どうして……涙なんか、流れないでよ」



 ……どうしてなんて、本当はわかってる。


 凛々夏と過ごしたひとときが……。私はまるで遊園地から帰りたくなくてだだを捏ねる子どものように、泣いてしまってるんだ。


 凛々夏にもう二度と会えないなんてわけじゃないのはわかってる。現場に行けば、アイドル衣装を身に纏った彼女がいて、チェキ券を買えば言葉を交わす事だって出来る。それでも。



「やだよ……止まってよ。泣きたくなんか、ないんだよ」



 自分に言い聞かせるように呟いてみても、どうにも私の眼から流れ落ちるそれは止まらない。それどころか、どんどんその勢いを増していくみたい。


 ……それでも、きっとあのひとときは特別で、そして二度とは訪れない、奇跡のようなものだったとわかってるんだ。


 電車の中で凛々夏が私を見つけてくれて、私に触れる事を選んで。そして凛々夏の手を掴んだ私が凛々夏にお願いする事を選んで。家に招いて、祭壇を見せて、一緒に一夜を過ごして……そういう選択と小さな奇跡が積み重なって、私たちは今日の朝を迎えたんだ。それをオタクにとって奇跡と呼ばないのなら、他になんと呼べばいいんだろう。



「うぅ……やだ、やだよぉ……りりか……」



 愛しい人の名前を、つい呼んでしまっても、彼女には届かない。届かないんだ。


 ……そして同時に、が、今私の目の前にある。


 凛々夏のした事を、無かった事にすると私は選んだ。


 凛々夏がアイドルとして、また輝いてほしいと後押しするを私は選んだ。


 そして笑顔を取り戻した凛々夏を、引き止める事なく見送る事を私は選んだ。


 その果てに……凛々夏がひとときを過ごしたこの部屋に、また来てくれる理由が……私には見つからないんだ。全部、全部、私が選んだ結末なんだ。



「わ……笑ってよ、私。……泣く必要なんか……なんか……!」



 選んだ結果、凛々夏はきっとまた光の下を歩き始めてくれる。それなら私は、その背中を押せた事を喜ぶべきでしょ。誇らしく思うべきでしょ。なのに……なのに、私の二つの目は流れる涙を止めようとはしてくれない。


 ……オタクは凛々夏のことを、世界中の誰よりも大切で、大好きで、かけがえのない存在だって思ってる。これまでも、これからも。


 けどこれは、


 凛々夏にとって私は、友だちでも、家族でも、ましてや……恋人なんかじゃない。ただの……たまたまアイドルとオタクとして顔を見知って、言葉を交わすだけの、なんだ。……これは、これは。



「……あぁあぁあ……!」



 もう、嗚咽を止めることすらできない。自分に言い聞かせるための言葉すら、私の喉は発することができない。


 ……これは、オタクが超えることのできない、超えようとすべきではない一線。私が凛々夏の事を応援すると決めたなら、甘んじて受け入れなければいけない、不変のルール。もし超えようとしてしまったなら、その先に待つのは、きっと今よりさらに悲惨な結末。


 いくら好きだと伝えても、いくら愛してると叫んでも、



「ぅあ……あぁあ……あああ……!」



 ……凛々夏のした事を責めて、離れない様にすれば良かった? いっそアイドルなんてやめてもらって、この部屋で私のそばに居てもらえば良かった? ……ふざけないでよ。そんなのは、考えてしまった事すら、頭をよぎらせた事すら私は許せない。


 ……全部、気付いてしまった時からわかってたことなんだ。きっと弱い私はこうなってしまうって、わかってたんだ。だけど。



「あぁぁあああぁ……!——」



 ……だけど、やっぱり弱くておばかな私には、この涙を止める方法なんて、わからないんだよ。

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