第6話 「あ、あわ、わわわ」



「にやにやしてるユキさん見てたら、わたしは悩んでるのにってもやもやとか、目の前に推しがいるのに何に夢中になってるんだとか、イロイロ湧きあがっちゃって」


「にやにやしててすいません、はいぃ……」


「謝られる事じゃないですよ。……それと同時に、ふわふわした感覚で満たされる気持ちもあって。……なんか、よくわかんなくなっちゃったんです」


「よくわかんなくなったっていうのは、いいことではなさそうだね……?」


「……結果的には。そんなだからわたし、ユキさんをちょっと困らせてやろう、気付かせてやろうとかバカな事を思っちゃって、それで……ユキさんの身体に、手を伸ばしちゃったんです」



 そう申し訳なさそうに語ってくれるりりちの身体が、何故だかいつもよりさらに小さく見えた。もしかしたら、自分の中の罪悪感に押し潰されそうになってるのかも、しれない。



「えっと、その……りりちは、最初から私だって知りながら、ああいうことしてたんだよね?」


「……はい。今になって思えば、現場でのユキさんの優しさを知ってたから、何かあっても許してもらえるかもって甘えてたのかもしれません」


「それは、まぁ、うん……」



 許すか許さないかの選択では許した以外の選択はない。いやむしろ、私にその選択肢が与えられているかどうかすら怪しいものだと思う。なんて言ったって相手は愛しのりりちなのだから。


 そういう事を話す雰囲気ではないので、やっぱり黙っておく。



「わたしにだって、女の子が外でそういう事をされたらどれだけ怖いかとかわかるハズなのに、やめられなくって今日までずるずると……サイテー、ですよね」



 益々小さくなるその姿に、私は声をかけられない。なんて声をかけてあげればいいのかも、そもそも、声をかけて良いのかもわならなくって、ばかな私はただ黙ることしかできない。


 女子高生と社会人、そして、アイドルとそのオタク。


 近いようで遠いその距離感が今、いつもより遥かな距離に感じられる。手を伸ばさなくったって触れられる程、膝と膝が触れ合うほど傍にいるというのに、まるで霧の中に居るかのように私は手を何処に、どうやって伸ばせばいいのかわからない。


 そして、隣り合って座る私たちの間に痛ましい沈黙が流れた後、りりちは確かに私の目を見据えて、それから静かに瞼を閉ざした。



「……ユキさん。今更になってしまいましたが、不快な思いをさせてしまって、本当に……」



 ああ、出来るなら、その言葉の続きは言わないで欲しい。きっとその言葉が続いてしまえば、私たちの大切な関係の何かが変わってしまうから。


 でも、私にりりちの想いを止められない。だって、彼女は何より大切な“推し”なんだ。私が私をりりちというかけがえのないアイドルのオタクであると定義するなら、何よりも尊重するのは彼女の意思なのだから。だから、言葉と共に静かにすっと姿勢を正したりりちを、ただ見つめることしかできなくって。


 ……やっぱりダメだ。エゴなのはわかってるけど、りりちが頭を下げる姿なんて見たくない。さっき、りりちがそうしてくれたように、私も止めてあげなくちゃ。


 ああでも、私が腰を浮かして前のめりになる刹那に、りりちの頭は下がっていって——



「申し訳、ありませんでし……たっ?!」



 ——そんな風にしていたら、下げたりりちの顔がゆっくりと……



「……っ?!」


「あ、あわ、わわわ」



 ……そ、そうですよねぇ。何せ殆どガチ恋距離にいるんですもん。その上でどんくさい私が距離をさらに詰めて、対するりりちが目を瞑って頭下げてくれちゃったりしたら……そうなりますよねぇー……!


 いやしかし、これはナイスだ! 重ね重ね、私はりりちが頭を下げてくれる姿なんか見たくなかったんだ。私の手は間に合わなかったけど、おっぱいはりりちを受け止めるのに成功したぞ!


 ああ、ばかみたいに重たいし、ブラだって可愛いデザインを探すのに苦労させられる我が両のおっぱいどもよ。日頃憎々しく思う君たちに対して、今日ほどあって良かったと思う事はあるまいて!!


 そんな風に安堵していた私に対して、りりちは頭を下げた姿勢のまま固まった後、無言で顔をあげ……うーわ、真っ赤だ。


 さっき迄は青いくらいだった顔色が、ほっぺから小さな耳にかけてまで真っ赤になってる。目元には涙を溜めてるし、身体は小さくふるふると震えてる。爆発しそう。



「……消えてなくなりたい……」



 爆発した……!

 


「わぁ?! そ、そんなこと言わないで、ね、ね?!」


「あ、謝ろうと、せめて誠意をって、思ったのに、よりによってユキさんの胸に頭から突っ込むとか、ホント、ホントに……」


「事故! 事故だから今のは!! りりちは悪くないよ! むしろ私が悪いくらい!!」


「チカンとか最低なことしておいて、その上で謝ることもできないとか、なにがアイ」


「だめ、だめだよぉー?! ストップだから、それ以上は私も泣きたくなっちゃうから!!」



 ぷるぷると震えて泣き出しそうなりりちを、背中をさすりさすり、やさしい言葉をほいほいと投げ、どうにかこうにか宥める。


 オタクとアイドルがどうのとか、触れていいかどうかわからないとか戯けたことを言ってる場合じゃない。今は一刻も早く、この可愛い爆弾を処理してしまわなければ……!


 ……そうこうすること、体感で10分ほど。


 ようやくりりちの顔から赤みがひいて、振動も収まってくれた。肝が、肝が冷えたよう……。



「……すいませんでした」


「いいのいいの! 何回も言うけど、事故だから!」


「さっきの事も含めて、ですけど。……そもそも電車の中で嫌な思いさせてしまった事もです」


「あ、あぁ、そういえばそう言う話だったねぇ」



 神妙な顔で話を切り替えるりりちに、改めてなんでりりちが頭を下げようとするなんて事になったのかを思い出す。色々と衝撃的なことが多すぎて、私は頭が混乱しているんです。



「それで、その……調子のいい事を言ってるのはわかってるんです。それでも……この事は誰にも言わないでくれませんか」


「あっ、も、もちろんだよ! 推しと二人でカラオケに来て、あげく胸をーとか誰にも言えないよぉ」


「そっちじゃなくて、いやそれもなんですけど……電車の中でのコト、とか」


「あぁー……やっぱりそっちかぁ……」



 どうしてりりちがあんな事をしたのか、その理由は十分に理解できたから、今度はその着地点を探さなきゃいけない。


 本来であれば、彼女がやったことは誰かに怒られなければいけない事に違いない。相手が私だったからまだこうして話が出来ているけど、これが全く関係ない人だったら。あるいは逆に、私に触れてきたのが男性だったりしたら。……間違いなく、この場は剣呑な空気に包まれていたと思う。そもそもこの場を設けているかどうかも怪しい。


 その点で言うと……正直、着地点は何処かという問いに対しての答えは決まってる様なもの。



「……うん。それもやっぱり、誰にも言わないよ」



 全てを無かった事にする。


 今日私は、たまたま推しのアイドルであるりりちに出逢う事ができて、たまたま一緒のカラオケに行って、少しおしゃべり出来ただけ。そこには私が電車でチカンに遭ったって事実は存在しなくて、ただハッピーな推しとオタクがそこにはいただけ。これが一番、丸い答えだと思う。


 けど、私がそう言ってみても、りりちの表情は曇ったままだ。



「……その、それ以外の償いでしたら、なんでもします」


「いやいや! 償いってそんなの全然、私なんかの身体に触らせちゃってごめんなさいってくらいだし」


「そんなことないですし、それに、それじゃダメだと思うんです。ケジメはつけなきゃ、わたし……ごめんなさい、ワガママばかり言って」


「ケジメって、うぅ……」



 そんなわざわざ、罰を与えるような事をしなくていいんじゃないかと思うけど、りりちはそれを求めている。私は当然、推しにそんな事を求めていないんだけど、でも当の推しがそれを求めていて……うぅ、どうしたらいいんだろう。

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